自警録 / 第二十六章 理想の実現は何処・最大侮辱を最大敬礼とした誤訳
翻訳というものはこうもできるものだ。しかしさらにはげしい翻訳の仕方もある。幕府時代に使節が始めてヨーロッパへ派遣されたことがある。 髪をチョン髷に結い、裃を着け、二本さし、オランダへ行った。これよりさき、外国で日本人が来るそうだ、毛が頭の半分だけ生え、その毛がつっ立っているそうだ。これは見ものだというので、子供も女も寄り集まって見に出た。使節の一行は幾台かの馬車をつらねてホテルから宮廷に拝謁に出かけた。何万という人々は沿道に立って異様な装した日本人を見、ぞろぞろとそのあとについてゆく。なかには吹き出すもあれば、あらゆる侮辱を使節に加うるもあった。おそらく日本の侮辱法の最大なるものは「尻をまくって叩く」ことであろうが、西洋ではこの方法を実行することができない。そのかわりに双手を開いて鼻の前にならべて人を遇する侮辱法がある。日本人にはおかしくもなんとも思われぬが、西洋人はこれをもって極端なる侮辱の方法と見なし、無礼の極とし、日本人が尻をまくって人を侮辱すると同じくらいの程度とみなしている。 使節が馬車に乗って行くと、両側の子供らが鼻の前へ手を当てワイワイいっている。使節はなんのことやら合点が行かぬので、通訳官にだたすと、 「あれは日本でいうと三拝九拝にあたる、あの子供はあなた方に最敬礼を表しているのである」 といった。そこで日本の使節もよいことを聞いた、小笠原流にもない礼法を学んだと喜び、いよいよ宮廷に達し拝謁するとき、使節は玉座の前でみな手を鼻に当てた。陛下は大いに驚き、自分に侮辱を加うるのはなはだしきものであれば、ただこのままには棄ておかれぬ、そもそもこの儀はなにごとなるかとかたわらなる通訳に問われた。すると通訳官はこれが日本の最敬礼でありますといった。陛下もなるほどそうか、それでは朕も遠来の大使を遇するに最敬礼をもってせんといわれ、使節も陛下もともに侮辱を最敬礼と心得て実行されたという話がある。 通訳というものはこういうこともできる。僕はこの話を思い出して一人で笑い出すことがある。笑うとともに思いあたることがある。すなわち理想を実行に翻訳するにあたり、翻訳を間違えたり、あるいは故意に曲解して実行することは、いまのオランダ語の通訳官と一寸一分も違わぬことがありはせぬか。
書き下し
翻訳というものはこうもできるものだ。しかしさらにはげしい翻訳の仕方もある。幕府時代に使節が始めてヨーロッパへ派遣されたことがある。 髪をチョン髷に結い、裃を着け、二本さし、オランダへ行った。これよりさき、外国で日本人が来るそうだ、毛が頭の半分だけ生え、その毛がつっ立っているそうだ。これは見ものだというので、子供も女も寄り集まって見に出た。使節の一行は幾台かの馬車をつらねてホテルから宮廷に拝謁に出かけた。何万という人々は沿道に立って異様な装した日本人を見、ぞろぞろとそのあとについてゆく。なかには吹き出すもあれば、あらゆる侮辱を使節に加うるもあった。おそらく日本の侮辱法の最大なるものは「尻をまくって叩く」ことであろうが、西洋ではこの方法を実行することができない。そのかわりに双手を開いて鼻の前にならべて人を遇する侮辱法がある。日本人にはおかしくもなんとも思われぬが、西洋人はこれをもって極端なる侮辱の方法と見なし、無礼の極とし、日本人が尻をまくって人を侮辱すると同じくらいの程度とみなしている。 使節が馬車に乗って行くと、両側の子供らが鼻の前へ手を当てワイワイいっている。使節はなんのことやら合点が行かぬので、通訳官にだたすと、 「あれは日本でいうと三拝九拝にあたる、あの子供はあなた方に最敬礼を表しているのである」 といった。そこで日本の使節もよいことを聞いた、小笠原流にもない礼法を学んだと喜び、いよいよ宮廷に達し拝謁するとき、使節は玉座の前でみな手を鼻に当てた。陛下は大いに驚き、自分に侮辱を加うるのはなはだしきものであれば、ただこのままには棄ておかれぬ、そもそもこの儀はなにごとなるかとかたわらなる通訳に問われた。すると通訳官はこれが日本の最敬礼でありますといった。陛下もなるほどそうか、それでは朕も遠来の大使を遇するに最敬礼をもってせんといわれ、使節も陛下もともに侮辱を最敬礼と心得て実行されたという話がある。 通訳というものはこういうこともできる。僕はこの話を思い出して一人で笑い出すことがある。笑うとともに思いあたることがある。すなわち理想を実行に翻訳するにあたり、翻訳を間違えたり、あるいは故意に曲解して実行することは、いまのオランダ語の通訳官と一寸一分も違わぬことがありはせぬか。
現代語訳
翻訳というものは、このようにもできるものです。しかし、さらに激しい翻訳の仕方もあります。幕府の時代に、使節が初めてヨーロッパへ派遣されたことがありました。 使節は髪をちょんまげに結い、裃を着け、二本差しの姿でオランダへ行きました。これより前に、外国では、日本人が来るそうだ、髪が頭の半分だけ生えて、その髪が立っているそうだ、これは見ものだと、子供も女も寄り集まって見物に出ました。使節の一行は何台かの馬車を連ねてホテルから宮廷へ拝謁に出かけます。何万という人々が沿道に立って、異様な装いの日本人を見、ぞろぞろとあとについて行きます。なかには吹き出す者もいれば、あらゆる侮辱を使節に加える者もいました。おそらく日本の侮辱のしかたで最大のものは「尻をまくって叩く」ことでしょうが、西洋ではこの方法を実行することができません。そのかわりに、両手を開いて鼻の前に並べて人に示す侮辱のしかたがあります。日本人にはおかしくも何とも思われませんが、西洋人はこれを極端な侮辱の方法、無礼の極みと見なしており、日本人が尻をまくって人を侮辱するのと同じ程度のものと受け取っています。 使節が馬車に乗って行くと、両側の子供たちが鼻の前に手を当ててワイワイ言っています。使節は何のことかわからず、通訳に尋ねると、通訳は言いました。 「あれは日本でいう三拝九拝にあたります。あの子供たちは、あなた方に最敬礼を表しているのです」 そこで日本の使節も、よいことを聞いた、小笠原流にもない礼法を学んだと喜び、いよいよ宮廷に着いて拝謁するとき、使節は玉座の前で皆、手を鼻に当てました。陛下は大いに驚き、自分に侮辱を加えるのはひどいことだ、このままには捨ておけない、これはいったい何事かと、そばにいる通訳にお尋ねになりました。すると通訳は、これが日本の最敬礼でございます、と言いました。陛下もなるほどそうかと、それなら朕も遠来の大使をもてなすのに最敬礼をもってしようと言われ、使節も陛下も、ともに侮辱を最敬礼と心得て実行なさった、という話があります。 通訳というものは、こういうこともできるのです。私はこの話を思い出して、一人で笑い出すことがあります。笑うとともに思いあたることがあります。つまり、理想を実行に翻訳するときに、翻訳を間違えたり、あるいはわざと曲解して実行したりすることは、このオランダ語の通訳官と少しも違わないのではないか、ということです。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・誤って翻訳した実例この翻訳はなかなか難い。原文を精確に会得しなければ翻訳はできない。また訳する言葉がわからなければ適切な翻訳ができぬ。原文を誤解し、日本語を誤解している者が翻訳すれば、できた翻訳のろくなものならぬことは無理もない。それと同じくわれわれがとかく思うように理想に近づきえぬのは、理想が精確でなく、実行もはっきりせぬと翻訳の仕方が分からぬからである。ここにおいてわれわれは翻訳に拙い生活を送っている。 維新前に、どこかの殿様が行列を正して西丸近所を通って登城するさい、外国人が乗馬でその行列の鼻を乗切った。殿様はもとよりその従者も一方ならず憤慨し、殿はただちに通訳を召し、 「汝は言語もわかることであるから、あの人の無礼を糺してその場で切り捨ててこい」 と命じた。通訳は「かしこまりました」といって、その外人を呼びとめ、 「私の主人なんの守という大名が登城の途中に、貴方の馬に乗ってゆかれる姿勢を見、西洋の鞍が面白い、まだ見たことがないから、どうか拝見したい、また乗人も見事に乗っている、あの外人にお頼みして鞍を見せてもらうことはできまいかと申します。途中でお止め申して、はなはだ失敬であるが、せっかくの望みであるから、見せていただきたい。主人が駕籠をおりてくるのが本当ですがあなたは乗馬が上手ですから、駕籠の前に来て見せてくださらぬか」 という。外人は得意になって、駕籠のそばに来たり鞍を見せんと下馬し脱帽して挨拶した。そのとき通訳官は、 「この外人はまことに恐れ入ったしだいであるといい、かく脱帽しておわびを申し上げています、何分にも命だけはお許しを願いたい」 と申し上げる。殿様も外人が下馬して脱帽しわびることなら許してつかわせといわれた。そこで通訳は外人に向かい、 「見事なお鞍を拝見してありがたい。駕籠のなかからはなはだご無礼ではあるが、まことにご苦労であったと厚くお礼を申しております」 という。外国人は恐縮し日本に来て大名と直接にお話したことは始めてで、名誉なことであると喜び、再三脱帽したあとで去った。通訳官はかく再三脱帽しておわびを申し上げていますと言うと、大名は、 「苦しゅうない、苦しゅうない」
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想の翻訳を誤るものが多い(1)たとえば男女の心中のごとき、二人が夫婦になるのを理想とするが、不義の交際は親も許さず世間も認めぬ。この世で晴れて一緒になれぬなら、むしろあの世で蓮華の上にということになる。 かくのごとくその理想なるものを実行するさいにその翻訳の任にあたる自分の考え一つで、勝手次第に意味をとる。ちょっと聞くともっともらしく思うこともあるが、翻訳のやり方によってははなはだもっともでない実行に現れることが間々ある。たとい商売人でも役人でも、書生でもいかなる職業の人でも自分の同業者の悪口をいう。はなはだしきは人身攻撃をする者もある。して彼らの理由を訊せば、人間が世の中にいる以上は、優勝劣敗の原則にしたがい競争するを要するがゆえ、かくすると弁解する。なるほど競争とか優勝劣敗とかいうと、学理的でよく聞こえるけれども、この理屈を実行に翻訳するにあたっては勝手なやり方をする。敵を殪すにはいかなる手段方法をも用いる、嘘をついてもかまわぬというは、優勝劣敗あるいは生存競争ということを読み違えていると言わなければならぬ。 僕はたびたび耳にすることであるが、学校で試験のとき、狡猾をやる学生がある。それを呼び出して聞くと、なかなか相当の理屈がある。試験に不正を行ったのは一つの理想より出たことである、どうか早く学士になり、親に安心を与えたいと思うが、近ごろ親が病気でこうこうだとあわれげな話をする。してみると君が試験に狡猾をしたのは、親孝行のためにしたというのか、「そうでござります」という。こういうことは間々ある。
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福翁自伝・欧羅巴各国に行く・旅行中用意の品々失策又失策(2)先ずこんな塩梅式だから、吾々一行の失策物笑いは数限りもない。シガーとシュガーを間違えて烟草を買いに遣て砂糖を持て来るもあり、医者は人参と思て買て来て生姜の粉であったこともある。又或るときに三使節中の一人が便所に行く、家来がボンボリを持て御供をして、便所の二重の戸を明放しにして、殿様が奥の方で日本流に用を達すその間、家来は袴着用、殿様の御腰の物を持て、便所の外の廊下に平き直てチャント番をして居るその廊下は旅館中の公道で、男女往来織るが如くにして、便所の内外瓦斯の光明昼よりも明なりと云うから堪らない。私は丁度其処を通り掛て、驚いたとも驚くまいとも、先ず表に立塞がって物も言わずに戸を打締めて、夫れからそろ/\その家来殿に話したことがある。
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自警録・第二十六章 理想の実現は何処・理想の翻訳を誤るものが多い(2)愛国忠君などということを口癖にいう人にはこれが実行の翻訳を誤る人が多い。愛国だといってみだりに外国人を悪口したり、戦争をしないでもよいのに、戦争を主張したりする人がある。 明治二十年ごろ、国粋主義のさかんなとき、途中で外国人の婦人に唾を吐きかけた学生があった。なぜそんなことをなしたかと訊問されたとき、国体を発揮するためだと答えた。愛国ということはよく聞こえるが、これを実行に翻訳するときは、オランダの通訳官と同じく勝手にする。 むかし英国の学者ジョンソンは愛国心ほど怪しげな心はない。いかなる悪党も愛国なる言葉を用うれば、犯罪をなすことができるといった。 明治十年ごろまでは強盗したり乱暴狼藉した者に、なぜそんなことをしたかと聞くと、国を憂いて大いに旗上げするつもりであるといった。また地租改正のとき、あっちこっちで騒いだ。このとき重税を課しては国のために憂うべき事であると、佐倉宗吾を気取ったまではいいが、佐倉宗吾のように命を捨てたかといえば、なかなか捨てるどころか、かえって強盗強姦したものもある。これが愛国だということはちょっとわからぬ。とかく愛国とかあるいは何々の主義だといって議論して歩くあいだはよく聞こえるけれども、これを実地に行うときは、翻訳が間違いやすいゆえにわれわれがいやしくも理想をいだくという以上、その理想なるものを実現するにあたって、理想の品位を下げぬように行為に現すにあらざれば理想でなく、妄想であることを一言したい。
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自警録・第十九章 言葉の心・邦人間に行わるる嘘の原因そもそも外国人が日本人を批評し、日本人はとかく嘘をつくというが、悪意をもって嘘を言わなくとも、事実に違ったことを吐く点にいたりては、おそらくは日本人は西洋人よりもはるかに多いと思う。その事実に違うというはおもに二つの原因より来る。一つは普通教育がまだまだ充分ならぬから、用うる言葉に精確を欠くためである。ゆえに角ばりたるものなればすべて四角という。これを聞いた外国人は真に四角なものかと思うと、なんぞはからん、三角とか六角とか八角なものがある。言う者はあえて嘘をいう考えはない。何角だかは考えないで、ただ角なるゆえに四角というのである。輪廓が円縁であればただちに円いと言い、屈曲さえあれば円いというも、その円というのは円形の意でない。しかるにこれを聞く外国人は、これを真円と解するゆえに円ならぬものを円と嘘をいうとする。 もう一つの原因は前述の主観的の要素が西洋人よりも日本人にはなはだ強い。すなわち感情が事実に混じやすい。ゆえに事実を冷静に客観的に述べないで、あるいは厭味を付加したりあるいは喜ぶ意を含ましめたりする。天気が曇れば曇ったというだけで事実を述ぶるに足るに、曇ってきやがったというような言葉を用うるために、曇るのを望ましく思う人でも、これを聞いて不愉快の感を起こす。 これに反して鄭重なものの言い方に、心にもないことを含ませることがたくさんある。 手紙の文中に「恐縮の至り」「欣喜の至り」などあり、西洋でも書簡文には、その終りに Your obedient servant と記する礼法があるが、これを、 「貴下の柔順なる忠僕」 と直訳すると、邦文の「頓首」、「再拝」よりひどく聞こゆれども、この句の源はさほど卑屈の意ではなく、 「貴下に serve する、すなわち用に立つことあらばあまんじて従う」 の厚意を述べた語である。いったい日本語には敬語が夥しいから、人の葬式に悔みに行っても、心の中の半分だも思わぬことまで述べる。少し正直な人は惑わされる。古人の歎ける一首に曰わく、 偽りのなき世なりせばいかばかり人の言の葉はうれしからまし