自警録 / 第二十五章 理想と実現・幼年の理想は今いかに変じたか(1)
ただ思想の発展にはとかくに障害物があって、挫けやすいもので、譬えて言うならば、ごく微妙な外界の影響を受けやすい花のごときものである。外界の事情をよく知らない青年時代には、いかなることがあっても一と花咲かしてみせるという元気もあるが、年経る間には風も吹けば霜も降り、雨もあたれば旱もある。そのたびごとに根をはらすくふうをしなければ、とかく人生の半分も来ぬうちに花どころか葉も根もみな枯らしてしまう。すなわち種無しになってしまう。 僕が新年を迎えるごとにもっとも強く心に省みることは、幼少時代の思想と今日と、どれほど隔ったかという廉である。これをもっと具体的にいえば左のごとき問題が起こる。 一、幼少の折、母を失ったときに、親に対して孝をつくすことができなかったが、せめて母の希望であった点は忘却せずして、遅れながらもこれを達しようと、こういう考えが浮んだ。年改まるごとにいま母に対するの観念と、および実行が幼少のときの思想とどれほど一致するか。 一、子供のときに飲んだくれの醜態を見て、俺は酒にふけることは決してしまいという考えを抱いた。して年経るごとに、今日俺のなすことがはたしてこの思想にかなっておるか。 一、幼少の折、学校で学問の大事なことを聴いて、よし学者にならなくとも、勉学読書は暇あるごとに怠るまいと思った。年改まるごとに、今日のわがなすことが、この点においてどうであろうと対照してみる。
書き下し
ただ思想の発展にはとかくに障害物があって、挫けやすいもので、譬えて言うならば、ごく微妙な外界の影響を受けやすい花のごときものである。外界の事情をよく知らない青年時代には、いかなることがあっても一と花咲かしてみせるという元気もあるが、年経る間には風も吹けば霜も降り、雨もあたれば旱もある。そのたびごとに根をはらすくふうをしなければ、とかく人生の半分も来ぬうちに花どころか葉も根もみな枯らしてしまう。すなわち種無しになってしまう。 僕が新年を迎えるごとにもっとも強く心に省みることは、幼少時代の思想と今日と、どれほど隔ったかという廉である。これをもっと具体的にいえば左のごとき問題が起こる。 一、幼少の折、母を失ったときに、親に対して孝をつくすことができなかったが、せめて母の希望であった点は忘却せずして、遅れながらもこれを達しようと、こういう考えが浮んだ。年改まるごとにいま母に対するの観念と、および実行が幼少のときの思想とどれほど一致するか。 一、子供のときに飲んだくれの醜態を見て、俺は酒にふけることは決してしまいという考えを抱いた。して年経るごとに、今日俺のなすことがはたしてこの思想にかなっておるか。 一、幼少の折、学校で学問の大事なことを聴いて、よし学者にならなくとも、勉学読書は暇あるごとに怠るまいと思った。年改まるごとに、今日のわがなすことが、この点においてどうであろうと対照してみる。
現代語訳
ただし思想の発展には、とかく障害物があって、挫けやすいものです。たとえて言えば、ごく微妙な外界の影響を受けやすい花のようなものです。外界の事情をよく知らない青年時代には、どんなことがあってもひと花咲かせてみせるという元気がありますが、年を経る間には、風も吹き、霜も降り、雨にも当たり、干ばつもあります。そのたびに根を張らせる工夫をしなければ、人生の半分も来ないうちに、花どころか葉も根もみな枯らしてしまいます。つまり種なしになってしまうのです。 私が新年を迎えるたびにもっとも強く省みることは、幼少時代の思想と今日とが、どれほど隔たったかという点です。もっと具体的に言えば、次のような問題が起こります。 一、幼いころ、母を亡くしたときに、親に対して孝を尽くすことができなかったが、せめて母の望みであった点は忘れずに、遅ればせながらそれを成し遂げようと、そのように考えた。年が改まるたびに、今の母に対する考えと行いが、幼少のときの思いとどれほど一致しているか。 一、子供のとき、酔っ払いの醜態を見て、自分は決して酒におぼれまいと考えた。そして年を経るごとに、今日の自分の行いは、この考えにかなっているか。 一、幼いころ、学校で学問の大切さを聞いて、たとえ学者にならなくても、勉強と読書は暇があるたびに怠るまいと思った。年が改まるたびに、今日の自分の行いは、この点でどうかと照らし合わせる。
解説

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