自警録 / 第二十三章 若返りの工夫・回顧反省
世の賢人君子はいざ知らず、わが輩らのごとき凡人、あるいは凡人以下の者は、姑息かは知らんが、前途をして遼遠ならしむることを努め、われはたしてかかる大理想ありや否やを反省する必要があると思う。すなわち賢人君子の眼よりせばあるいは児戯に等しいかは知らんが、青年時代の希望の実状を印してこれを現今の実際と照合し、もって理想の規矩にあててみるのである。いっそう具体的に述ぶればあるいは月に一回なり、すくなくとも年に一回、年の終りとか年のはじめに、あるいは自分の誕生日、あるいは親の命日、あるいは自分になにか特別の意味のある日、退いて予ははたして青年時代の理想に近づきつつありや、あるいは逆戻りせぬかと深く省るのである。しかるときにはおそらく十人のうち九人ないし十人までが種々なる名目のもとに逆戻りしていることを発見するであろう。 して種々なる名目とは、すなわち俗才とか、実際とかいうごとき、あるいは現今の社会状態とか、あるいは世の習わしとか、友人の勧めとか、時勢の変遷とか、娯楽の必要とか、生理的要求とか、ちょっときくともっともらしい名目のもとに、青年時代の溌剌たる理想に遠ざかれるを発見するであろう。老いてもなお青年の活気と理想とを持続せんには折々自己に省るに如くはない。省て退歩せる点あらばさらに理想に向かって奮励努力一番し、かくしてつねに若い心持ちで向上する。これすなわち僕の若返りの工夫である。要するに脳髄のうちに折々大掃除を行って、煤、埃、芥、枯れ枝等をみな払うことをしたい。
書き下し
世の賢人君子はいざ知らず、わが輩らのごとき凡人、あるいは凡人以下の者は、姑息かは知らんが、前途をして遼遠ならしむることを努め、われはたしてかかる大理想ありや否やを反省する必要があると思う。すなわち賢人君子の眼よりせばあるいは児戯に等しいかは知らんが、青年時代の希望の実状を印してこれを現今の実際と照合し、もって理想の規矩にあててみるのである。いっそう具体的に述ぶればあるいは月に一回なり、すくなくとも年に一回、年の終りとか年のはじめに、あるいは自分の誕生日、あるいは親の命日、あるいは自分になにか特別の意味のある日、退いて予ははたして青年時代の理想に近づきつつありや、あるいは逆戻りせぬかと深く省るのである。しかるときにはおそらく十人のうち九人ないし十人までが種々なる名目のもとに逆戻りしていることを発見するであろう。 して種々なる名目とは、すなわち俗才とか、実際とかいうごとき、あるいは現今の社会状態とか、あるいは世の習わしとか、友人の勧めとか、時勢の変遷とか、娯楽の必要とか、生理的要求とか、ちょっときくともっともらしい名目のもとに、青年時代の溌剌たる理想に遠ざかれるを発見するであろう。老いてもなお青年の活気と理想とを持続せんには折々自己に省るに如くはない。省て退歩せる点あらばさらに理想に向かって奮励努力一番し、かくしてつねに若い心持ちで向上する。これすなわち僕の若返りの工夫である。要するに脳髄のうちに折々大掃除を行って、煤、埃、芥、枯れ枝等をみな払うことをしたい。
現代語訳
世の賢人君子はともかく、私たちのような凡人、あるいは凡人以下の者は、姑息かもしれませんが、前途を遠く保つことに努め、自分は本当にそのような大理想を持っているかどうかを、反省する必要があると思います。賢人君子の目から見れば子供の遊びに等しいかもしれませんが、青年時代の希望の実状を書き記して、それを現在の実際と照らし合わせ、理想の物差しに当ててみるのです。もっと具体的に言えば、月に一回、少なくとも年に一回、年の終わりか年の初め、あるいは自分の誕生日、あるいは親の命日、あるいは自分にとって何か特別な意味のある日に、静かに退いて、自分は本当に青年時代の理想に近づきつつあるか、それとも逆戻りしていないかを、深く省みるのです。そうすればおそらく、十人のうち九人ないし十人までが、さまざまな名目のもとに逆戻りしていることを発見するでしょう。 そのさまざまな名目とは、俗才とか実際とかいったもの、あるいは現在の社会状態、世の習わし、友人の勧め、時勢の変化、娯楽の必要、生理的要求などで、ちょっと聞くともっともらしい名目のもとに、青年時代の生き生きした理想から遠ざかっていることに気づくでしょう。老いてもなお青年の活気と理想を持ち続けるには、折にふれて自分を省みるのがいちばんです。省みて後退している点があれば、あらためて理想に向かって奮い立ち努力する。こうして常に若い心持ちで向上する。これが私の若返りの工夫です。要するに、頭の中でときどき大掃除をして、煤、埃、ごみ、枯れ枝などをすっかり払いたいのです。
解説

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自警録・第二十三章 若返りの工夫・いつも若い人(2)事たれば足るにまかせて事たらず足らで事たる身こそ安けれ という歌は子供も知っているが、月給の増すのをもって目的とし人生の理想なりと解釈しておるならば、「事たる身こそ安けれ」というような、安心の時代はとうてい到来せぬであろう。 しかるに理想はこれとは別方面のところに存するものである。月給等の形而下のことをのみ欲するを理想と呼ぶのは大なる誤りであろう。ゆえに右のごとき月給の増減によって理想の例に用うるは当を得ないことで、理想といわゆる成功とは必ずしも同一方面に共存するものでない。 なんとならば月給とかその他の物質的形而下の事柄については不足を甘んずるのがむしろ理想ある人のすることである。ゆえに俸給が上がって喜ぶはよいが、それだけのために喜ぶのは感服できぬ。上がらなくとも喜んでいたい。否下がっても喜びたい。であるから、いわゆる立身したとて、たちまち、「吾は得たり、成功したり」と考えるのはまことに望ましからぬことである。これすなわち彼の「精神の井戸が水枯れした」のである、遼遠なるべき前途を放棄したのである。 彼の「青年の前途は遼遠なり」とは青年は理想に生きるという意味である。彼がたとえ若死をすればとてこの遠大なる理想を有するにおいては、これをもってただちに長命と呼ぶ、なんの不可か是れあらんやである。老人においてもまたしかりで、もし年齢において行きづまるも理想において行きづまらずんば、その老人の前途たるや等しく遼遠なりといわねばならぬ。その偉大なる希望において生くるの点よりはこれを青年であると呼んでよかろう。もし人、年をとりたくなかったならばよろしく大いに鵬大なる理想をいだくべきである。
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