自警録 / 第二十四章 全力と余裕・一日に一回でも黙想せよ
いかに繁劇な生涯を送る人でも、折々いわば人生より退いて黙想するの必要あることは、たがいの経験で明らかであろう。 僕の祖父はかつて禅僧について、いったい禅学というのはどんなものですと藪から棒にたずねたときに、僧の答えは禅学と申しましても、別にこれという学問ではなくて、この世を渡る者は坊主であれ商人であれ武士であれ、幾分か実行していることであるので、あなた方が戦場で敵を相手に戦うときにも、禅学をやっていらっしゃる。すなわちただ敵を斫ろう、前に進もうという考えで齷齪するあいだは、勝つことも進むこともおぼつかない、しかるに一歩一寸退く余裕があれば、その突嗟に敵の隙がわかる。そこで勝てる。この一歩退くところを禅学というのでありますと答えたというが、もちろん僕はなにごとをするにつけても退くだけが余裕があるというのでない。とかく譬は不完全であるから言葉だけでみると、僕が単に不熱心たれ、退け、何事にも熱するなというように聞こえるか知らぬが、分別ある読者は僕の真意を味わわれるであろう。 僕のいわゆる折々退け、折々冥想せよということは、単に不精に寝転んでおれ、不精に構えろというのとは大いに違う。また折々という文字が漠としたことである。一年に一回ともとれるし、一日に三回ともとれる。むろん一定の回数や時間をあげることははばかるところであるが、僕自身だけでは平素(ことさら重大なる問題のないとき)少なくとも一日一回、時間の長短をいえば五分以上くらいの程度なれば、いかに忙しい人といえどもかの実行の範囲内にあると思うし、また希わくは一年に一回ぐらい一週間なり十日間なりほとんど俗事を忘るるごとき境涯に入ることができるならば、これに越すことはあるまい。といって必ずしも山深く身を隠せとか、異境に隠遁せよということではない。 おたがいの心の持ちようによっては俗界の中心にあってもほとんど遁世のごとき心境がたもてると思う。われわれにその心がけさえあればいかなる境遇にあっても平旦の気を養う機会のなきはない。松平楽翁公の書室銘に曰く、「寧静是れ心を養う第一法」と。
書き下し
いかに繁劇な生涯を送る人でも、折々いわば人生より退いて黙想するの必要あることは、たがいの経験で明らかであろう。 僕の祖父はかつて禅僧について、いったい禅学というのはどんなものですと藪から棒にたずねたときに、僧の答えは禅学と申しましても、別にこれという学問ではなくて、この世を渡る者は坊主であれ商人であれ武士であれ、幾分か実行していることであるので、あなた方が戦場で敵を相手に戦うときにも、禅学をやっていらっしゃる。すなわちただ敵を斫ろう、前に進もうという考えで齷齪するあいだは、勝つことも進むこともおぼつかない、しかるに一歩一寸退く余裕があれば、その突嗟に敵の隙がわかる。そこで勝てる。この一歩退くところを禅学というのでありますと答えたというが、もちろん僕はなにごとをするにつけても退くだけが余裕があるというのでない。とかく譬は不完全であるから言葉だけでみると、僕が単に不熱心たれ、退け、何事にも熱するなというように聞こえるか知らぬが、分別ある読者は僕の真意を味わわれるであろう。 僕のいわゆる折々退け、折々冥想せよということは、単に不精に寝転んでおれ、不精に構えろというのとは大いに違う。また折々という文字が漠としたことである。一年に一回ともとれるし、一日に三回ともとれる。むろん一定の回数や時間をあげることははばかるところであるが、僕自身だけでは平素(ことさら重大なる問題のないとき)少なくとも一日一回、時間の長短をいえば五分以上くらいの程度なれば、いかに忙しい人といえどもかの実行の範囲内にあると思うし、また希わくは一年に一回ぐらい一週間なり十日間なりほとんど俗事を忘るるごとき境涯に入ることができるならば、これに越すことはあるまい。といって必ずしも山深く身を隠せとか、異境に隠遁せよということではない。 おたがいの心の持ちようによっては俗界の中心にあってもほとんど遁世のごとき心境がたもてると思う。われわれにその心がけさえあればいかなる境遇にあっても平旦の気を養う機会のなきはない。松平楽翁公の書室銘に曰く、「寧静是れ心を養う第一法」と。
現代語訳
どんなに忙しい人生を送る人でも、ときどき人生から退いて黙想する必要があることは、お互いの経験で明らかでしょう。 私の祖父は、かつて禅僧に、そもそも禅学とはどんなものですかと、藪から棒に尋ねたことがありました。僧の答えは、禅学と申しても別にこれという学問ではなく、この世を渡る者は、坊主であれ商人であれ武士であれ、多少は実行していることです。あなた方が戦場で敵を相手に戦うときにも、禅学をやっておられる。ただ敵を斬ろう、前に進もうという考えでせかせかしている間は、勝つことも進むこともおぼつかない。ところが一歩一寸退く余裕があれば、そのとっさに敵の隙が分かる。そこで勝てる。この一歩退くところを禅学というのです、というものだったそうです。もちろん私は、何事をするにも退くことだけが余裕だと言うのではありません。とかく例えは不完全ですから、言葉だけを見ると、私がただ不熱心であれ、退け、何事にも熱するなと言っているように聞こえるかもしれませんが、分別ある読者は私の真意を汲んでくださるでしょう。 私がいう、ときどき退け、ときどき瞑想せよということは、ただ不精に寝転んでいろ、不精に構えろというのとは大いに違います。また「ときどき」という言葉は漠然としています。一年に一回とも取れ、一日に三回とも取れます。むろん一定の回数や時間を挙げることは憚られますが、私自身は平素(特に重大な問題のないとき)、少なくとも一日一回、時間にして五分以上くらいなら、どんなに忙しい人でも実行できる範囲だと思いますし、また願わくは、一年に一回くらい、一週間か十日間、ほとんど俗事を忘れるような境涯に入ることができれば、それに越したことはないでしょう。といって、必ずしも山深く身を隠せとか、異郷に隠遁せよというのではありません。 お互いの心の持ちようによっては、俗界の真ん中にあっても、ほとんど世を遁れたような心境を保てると思います。私たちにその心がけさえあれば、どんな境遇にあっても、平旦の気(夜明けのすがすがしい気)を養う機会がないことはありません。松平楽翁公の書室の銘に曰く、「寧静は是れ心を養う第一法」と。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
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自警録・第二十四章 全力と余裕・静坐黙想は潜勢力を増加す昔、かの英国の大文豪と称せらるるジョンソン博士が、世の迷信を嗤わんがために一夜墓地に散歩して石碑を叩いて幽霊があるものなら顕れよと言って、一夜を暮らしたという話があるが、これを批評してカーライルが、このことたるや実に博士に似合わぬ愚挙である。嗚呼博士よ、君にして幽霊を見るの望みあるならば、なんぞ墓場に行くを要せん。おのれに顧みれば霊魂のおのれに潜んでいることが明らかでないかと論じたが、吾人も少しく心静かにおのれを省ると、銘々の内に潜んである力の偉大なることを感ずる。 僕の先にいった全力をつくすなかれというは、要するに省るだけの余地をとっておけというにほかならぬのである。しかるに僕が誤解しやすき言葉を用いたのは、いわゆる全力をつくすと称する人々が、とかく静坐して内観をするの余地を許さぬからである。いわゆる奮闘いわゆる努力等に没頭する者は、ほとんど一粒の種も残さずに自分の力を消耗するおそれあるをみる。努力奮闘を標榜する者も静坐黙想をすることは潜勢力を増加するのもっとも得たる策だと思う。
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言志四録・言志耋録 第百一条 精神を肚腔に鎮む凡そ道理を思惟して、其の恰好なる者を得るは、往往宵分に在り。神気澄静なるを以てなり。静坐の時は、最も宜しく精神を収斂して、肚腔に鎮在せしむべし。即ち事を処するの本と為す。認めて参禅の様子と做すこと勿れ。
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自警録・第二十四章 全力と余裕・余裕を存することと全力主義わが国従来の教えとして全力を出さぬことを賞める。すなわち余裕しゃくしゃくという言葉は、まだ力はつくさないぞ、あとには予備が控えているぞという態度である。 この態度は独りわが国ばかりではない。何国人といえども尊敬するところである。リンカーンの年を経るにしたがってますます人物の高まるのは、同氏にはさきにいった三層どころではない、そのなお奥に四層も五層も深みがあったから、彼の性格を味わえば味わうほど甘味を感ずる。 これに反し、張りきっておって、二十貫目の力を二十貫目始終手先きや足先きに現す者は感心はするけれども、吾人の深い尊敬に値しない。 数年前、ある青年と話の際、僕は、君に十貫目の力があるなら八貫目だけ出してあとの二貫目はとっておけといったら、この青年がいぶかって、私の主義はなにごとについても最善をつくし全力を注ぐということであるんですが、先生のは、あやふやじゃありませんかといわれたことがある。なるほど意味の取り方によって、わが輩の言葉はけしからん言葉である。ほどよく、いい加減にお茶を濁しておけ、一所懸命になるな、熱心は禁物だというように誤解を起こしやすいけれども、僕の意は決してそういう考えでない。 僕の意をことごとく説明することは、僕にとっては不可能である。かつまたことごとく説明することは僕の意に背く。考えがある以上はこれをいい現すについて、一割か二割は自分に貯えておきたい気がする。種までもことごとくさらけ出すことはしたくなく思う。つねに幾分のゆとりが欲しい。十貫目の力のあるものならば、その八分九分だけを用いて、残部は準備として貯えおき、これを資本として十二貫になったならば、その時に十貫出す。十貫を利用して資本力が十五貫にましたなら、その時に十二貫出すと、つねに余裕を貯えておいてこれを種として進みたいと思うのである。もっともこれは喩の言葉であるから、他の例をとれば十貫のものを使ってただちに二十貫の力を得るというごとき、つきせぬ河の流れの水を引くごとき例をとって、僕の正反対の説を述べることもできるから、はなはだ例は不完全であるけれども、僕の心のあるところだけは読者諸君はわかっていただけたであろう。
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『酔古堂剣掃』集法・靜坐して然る後に氣の浮けるを知る靜坐して然る後に平日の氣の浮けるを知り、默を守りて然る後に平日の言の躁がしきを知り、事を省きて然る後に平日の閑を貴ぶを知り、戶を閉ぢて然る後に平日の交はりの濫りなるを知り、欲を寡なくして然る後に平日の病ひの多きを知り、情に近づきて然る後に平日の念の刻なるを知る。
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言志四録・言志後録 第百三十六条 静坐の功静坐の功は、気を定め神を凝らし、以て小学一段の工夫を補ふに在り。要は須らく気容粛に、口容止まり、頭容直く、手容恭しく、神を背に棲ましめ、儼然として敬を持すべし。就きて自ら胸中多少の雑念客慮、貨色名利等の病根の伏蔵するを探り出して、以て之を掃蕩す。然らずして、徒爾に兀坐瞑目すれば、頑空を養成す。気を定め神を凝らすに似たりと雖も、抑も竟に何の益かあらん。
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葉隠・聞書第一無念無心ばかり教うる故に、落着(らくちゃく)せぬなり。無念と云うは正念(しょうねん)の事なり。実教卿(じっきょうきょう)も、「一呼吸の中に邪(じゃ)を含まぬ事なり」と仰せられ候。面白き事にて候。然れば道は一つなり。此の光を先づ見附(みつ)くる者もなきものなり。純一(じゅんいつ)になる事は、功を積まねば成るまじき事なり。