葉隠 / 聞書第一
無念無心ばかり教ふる故に、落着せぬなり。無念と云ふは正念の事なり。實敎卿も、「一呼吸の中に邪を含まぬ事なり。」と仰せられ候。面白き事にて候。然れば道は一つなり。此の光を先づ見附くる者もなきものなり。純一になる事は、功を積まねば成るまじき事なり。
新字:無念無心ばかり教ふる故に、落着せぬなり。無念と云ふは正念の事なり。実敎卿も、「一呼吸の中に邪を含まぬ事なり。」と仰せられ候。面白き事にて候。然れば道は一つなり。此の光を先づ見附くる者もなきものなり。純一になる事は、功を積まねば成るまじき事なり。
書き下し
無念無心ばかり教うる故に、落着(らくちゃく)せぬなり。無念と云うは正念(しょうねん)の事なり。実教卿(じっきょうきょう)も、「一呼吸の中に邪(じゃ)を含まぬ事なり」と仰せられ候。面白き事にて候。然れば道は一つなり。此の光を先づ見附(みつ)くる者もなきものなり。純一(じゅんいつ)になる事は、功を積まねば成るまじき事なり。
現代語訳
「無念無心」とだけ教えるから、かえって落ち着きどころが定まらないのだ。ここでいう無念とは、実は正念(正しく澄んだ一念)のことである。実教卿も「一呼吸のあいだにも邪念を含まないことだ」と仰せられた。まことに面白い言葉である。だとすれば、道は結局一つに帰する。まずこの一点の光を見つけ出せる者すらいないものだ。心が純一(雑念なく一つに澄みきること)になるのは、地道に修行を積み重ねなければ、とても成し遂げられないことである。
解説
禅でいう「無念無心」を、空っぽの無ではなく「正念」と捉え直す一条です。ただ心を無にせよと教えるから、かえって心の落ち着きどころが定まらない。無念とは実は、一呼吸のあいだにも邪念を交えない、澄んだ正しい一念のことだ、と常朝は説きます。心を空にするのではなく、雑念を去って一つに澄ませる――そこに道は一つに帰する、というのです。葉隠の武士道は禅の精神と深く結びついており、死の覚悟も私心を去った澄んだ一念に支えられています。そしてこの純一の境地は、一朝一夕には得られず、日々の修行の積み重ねによってのみ達せられると戒めます。現代でも、集中や平静は自然に湧くのではなく、地道な鍛錬の果てに養われるもの。純一の心は積み重ねが作る、という教えです。
この章句が説くこと
無念無心正念純一禅邪念を去る集中