自警録 / 第二十四章 全力と余裕・静坐黙想は潜勢力を増加す
昔、かの英国の大文豪と称せらるるジョンソン博士が、世の迷信を嗤わんがために一夜墓地に散歩して石碑を叩いて幽霊があるものなら顕れよと言って、一夜を暮らしたという話があるが、これを批評してカーライルが、このことたるや実に博士に似合わぬ愚挙である。嗚呼博士よ、君にして幽霊を見るの望みあるならば、なんぞ墓場に行くを要せん。おのれに顧みれば霊魂のおのれに潜んでいることが明らかでないかと論じたが、吾人も少しく心静かにおのれを省ると、銘々の内に潜んである力の偉大なることを感ずる。 僕の先にいった全力をつくすなかれというは、要するに省るだけの余地をとっておけというにほかならぬのである。しかるに僕が誤解しやすき言葉を用いたのは、いわゆる全力をつくすと称する人々が、とかく静坐して内観をするの余地を許さぬからである。いわゆる奮闘いわゆる努力等に没頭する者は、ほとんど一粒の種も残さずに自分の力を消耗するおそれあるをみる。努力奮闘を標榜する者も静坐黙想をすることは潜勢力を増加するのもっとも得たる策だと思う。
書き下し
昔、かの英国の大文豪と称せらるるジョンソン博士が、世の迷信を嗤わんがために一夜墓地に散歩して石碑を叩いて幽霊があるものなら顕れよと言って、一夜を暮らしたという話があるが、これを批評してカーライルが、このことたるや実に博士に似合わぬ愚挙である。嗚呼博士よ、君にして幽霊を見るの望みあるならば、なんぞ墓場に行くを要せん。おのれに顧みれば霊魂のおのれに潜んでいることが明らかでないかと論じたが、吾人も少しく心静かにおのれを省ると、銘々の内に潜んである力の偉大なることを感ずる。 僕の先にいった全力をつくすなかれというは、要するに省るだけの余地をとっておけというにほかならぬのである。しかるに僕が誤解しやすき言葉を用いたのは、いわゆる全力をつくすと称する人々が、とかく静坐して内観をするの余地を許さぬからである。いわゆる奮闘いわゆる努力等に没頭する者は、ほとんど一粒の種も残さずに自分の力を消耗するおそれあるをみる。努力奮闘を標榜する者も静坐黙想をすることは潜勢力を増加するのもっとも得たる策だと思う。
現代語訳
昔、イギリスの大文豪と称されるジョンソン博士が、世の迷信を笑うために、ある夜、墓地を散歩し、石碑を叩いて「幽霊があるなら現れてみよ」と言って一夜を過ごしたという話があります。これを批評してカーライルは、このことは博士に似合わない愚かな行いである。ああ博士よ、君にもし幽霊を見る望みがあるなら、どうして墓場に行く必要があろう。わが身を顧みれば、霊魂が自分の中に潜んでいることは明らかではないか、と論じました。私たちも少し心静かに自分を省みれば、めいめいの内に潜んでいる力の偉大さを感じます。 私が先に言った、全力を尽くすなというのは、要するに省みるだけの余地をとっておけということにほかなりません。それなのに私が誤解されやすい言葉を使ったのは、いわゆる全力を尽くすと称する人々が、とかく静かに座って内を観る余地を許さないからです。いわゆる奮闘、いわゆる努力などに没頭する人は、ほとんど一粒の種も残さずに自分の力を消耗する恐れがあります。努力奮闘を標榜する人も、静坐して黙想することが、潜在する力を増すためのもっともよい策だと思います。
解説

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自警録・第二十四章 全力と余裕・余裕を存することと全力主義わが国従来の教えとして全力を出さぬことを賞める。すなわち余裕しゃくしゃくという言葉は、まだ力はつくさないぞ、あとには予備が控えているぞという態度である。 この態度は独りわが国ばかりではない。何国人といえども尊敬するところである。リンカーンの年を経るにしたがってますます人物の高まるのは、同氏にはさきにいった三層どころではない、そのなお奥に四層も五層も深みがあったから、彼の性格を味わえば味わうほど甘味を感ずる。 これに反し、張りきっておって、二十貫目の力を二十貫目始終手先きや足先きに現す者は感心はするけれども、吾人の深い尊敬に値しない。 数年前、ある青年と話の際、僕は、君に十貫目の力があるなら八貫目だけ出してあとの二貫目はとっておけといったら、この青年がいぶかって、私の主義はなにごとについても最善をつくし全力を注ぐということであるんですが、先生のは、あやふやじゃありませんかといわれたことがある。なるほど意味の取り方によって、わが輩の言葉はけしからん言葉である。ほどよく、いい加減にお茶を濁しておけ、一所懸命になるな、熱心は禁物だというように誤解を起こしやすいけれども、僕の意は決してそういう考えでない。 僕の意をことごとく説明することは、僕にとっては不可能である。かつまたことごとく説明することは僕の意に背く。考えがある以上はこれをいい現すについて、一割か二割は自分に貯えておきたい気がする。種までもことごとくさらけ出すことはしたくなく思う。つねに幾分のゆとりが欲しい。十貫目の力のあるものならば、その八分九分だけを用いて、残部は準備として貯えおき、これを資本として十二貫になったならば、その時に十貫出す。十貫を利用して資本力が十五貫にましたなら、その時に十二貫出すと、つねに余裕を貯えておいてこれを種として進みたいと思うのである。もっともこれは喩の言葉であるから、他の例をとれば十貫のものを使ってただちに二十貫の力を得るというごとき、つきせぬ河の流れの水を引くごとき例をとって、僕の正反対の説を述べることもできるから、はなはだ例は不完全であるけれども、僕の心のあるところだけは読者諸君はわかっていただけたであろう。
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自警録・第二十四章 全力と余裕・人の力は出せば出す程ふえる右に言ったことをもっとまっすぐにいうと、何事に従事するときも、普通に用うるあらんかぎりの力をつくすべしという言葉とはさらに矛盾しないと思う。いかんとなれば、普通にいう全力をつくせ、あらんかぎりの力を出せということは、実際十貫目の力のあるものを、一匁も残らぬほどに十貫目出せということではない。よし仮りに正直な男があって、十貫目を十貫目ことごとく出したと見なしても、おのれは十貫目の力よりないものと思ったものが、十貫目の底にいたると、まだまだ底のあることを発見する。単に僕のいった俺は第一層の力しかないと思っていた者が、一層をつくすと二層にいたり二層の底まで達すると、一層二層に勝る第三層が発見せられるように、かくのごとくにしていわゆる十分に力を出す者に限って、おのれに十二分の力があり、十二分の力を出した者がおのれに十五分の力あることがわかってくる。いよいよ進めばいよいよ哲学者のいわゆるパーソナリティー(わが国で普通にいう人格とは違う)の大を知る。 かく述べたならば前項において十分のものを八分より用うるなと不熱心に聞こゆる僕の言と、この項において述べる十分あるものは十分以上に力を出せということと、実際において矛盾しないことも察せられるだろう。
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自警録・第二十四章 全力と余裕・潜伏せる余裕を示す幾多の実例たぶんこの知覚についてはわが輩と経験を同じくする人が許多あることと信ずる。かくのごとく筋肉の力においても、精神的の力においても、各人にまだまだ開発すべき余裕のあるものと信ずる。余裕のあることはまことに結構であるが、一生余裕の貯えだけで発揮せずに宝の持ち腐れで終わることはどうであろうか。はなはだ惜しく思う。 おたがい、世を見渡しても、一見優雅なる婦人などが、ときによって大男三、四人ぐらいの力を出すことがある。はなはだ例が不吉であるが、精神病院にいってみると、やさしい女の乱暴するのを止めるために大男が五人もかかることを見ると、いかに女の筋肉に力の潜んでいるかに驚かされる。僕はたびたび見たが、雛を養っている雌鶏の傍に、犬猫がゆくと、その時の見幕、全身の筋肉に籠める力はほとんど羽衣を徹して現れる。 あるいは今に忘れぬが、わが輩の七、八歳のころ、故郷にあって朋輩三、四人と山遊びしたとき、森の内で火を焚いた廉をもって、近所の百姓に追われて命からがら落ちのびたことがある。その後その場におもむき実地踏査を遂げたのに、どうして七、八歳の子供が一里余の山道を、しかもあまたの小流を跳りつ越えつつ走ったろうと考えると、少なくもその時は僕も第三層に潜んでいる力を出したかと思われる。
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自警録・第二十四章 全力と余裕・一日に一回でも黙想せよいかに繁劇な生涯を送る人でも、折々いわば人生より退いて黙想するの必要あることは、たがいの経験で明らかであろう。 僕の祖父はかつて禅僧について、いったい禅学というのはどんなものですと藪から棒にたずねたときに、僧の答えは禅学と申しましても、別にこれという学問ではなくて、この世を渡る者は坊主であれ商人であれ武士であれ、幾分か実行していることであるので、あなた方が戦場で敵を相手に戦うときにも、禅学をやっていらっしゃる。すなわちただ敵を斫ろう、前に進もうという考えで齷齪するあいだは、勝つことも進むこともおぼつかない、しかるに一歩一寸退く余裕があれば、その突嗟に敵の隙がわかる。そこで勝てる。この一歩退くところを禅学というのでありますと答えたというが、もちろん僕はなにごとをするにつけても退くだけが余裕があるというのでない。とかく譬は不完全であるから言葉だけでみると、僕が単に不熱心たれ、退け、何事にも熱するなというように聞こえるか知らぬが、分別ある読者は僕の真意を味わわれるであろう。 僕のいわゆる折々退け、折々冥想せよということは、単に不精に寝転んでおれ、不精に構えろというのとは大いに違う。また折々という文字が漠としたことである。一年に一回ともとれるし、一日に三回ともとれる。むろん一定の回数や時間をあげることははばかるところであるが、僕自身だけでは平素(ことさら重大なる問題のないとき)少なくとも一日一回、時間の長短をいえば五分以上くらいの程度なれば、いかに忙しい人といえどもかの実行の範囲内にあると思うし、また希わくは一年に一回ぐらい一週間なり十日間なりほとんど俗事を忘るるごとき境涯に入ることができるならば、これに越すことはあるまい。といって必ずしも山深く身を隠せとか、異境に隠遁せよということではない。 おたがいの心の持ちようによっては俗界の中心にあってもほとんど遁世のごとき心境がたもてると思う。われわれにその心がけさえあればいかなる境遇にあっても平旦の気を養う機会のなきはない。松平楽翁公の書室銘に曰く、「寧静是れ心を養う第一法」と。
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『呻吟語』内篇・修身・餘氣有れば便ち受用の處有り人生餘氣有るを得ば、便ち受用の處有り。言は口說を盡くし、事は意做を盡くす、此れは是れ薄命の子なり。
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自警録・第二十四章 全力と余裕・最善をつくしても余力あるように思うたぶん読者の中にも同じ経験を有する人もあろうが、僕は何事をしても結了したあとで、俺は今少しよくできるはずだがなと思わぬことはない。 たとえば演説をする、して終わるとただちに起こる考えは、なんとまずい言いざまじゃないか、おのれには今少しよい思想もあるに。また同じ思想でももっと順序正しく説明出来るはずだに、あるいはも少し面白く述べうるはずだがと、おのれを怨まぬことはない。 文章を書いても同じことである。 ある問題について討議しても同じことである。俺はも少しよくできるはずだがという観念は付き物のように万事について起こる。自負心であろうかと思うけれども自負心とは違う。またおのれの最善をつくさなかったのかというと、あながちそうではない。 その時の最善をつくしてもこの考えが起こる。おのれの力の深さが三層に分かれていて、平生はいちばん浅い一段の力で事に当たり、幾分か重大だと思うときは、第二層の力を発揮するが、第三段の深さに潜伏する力を発揮したことがない心地がする。ゆえにさきにいう何事を終っても、第三層にあるおのれの力が声を発して、 「お前はまだ俺の力は借りないよ、もいっそう深く考え、もういっそう高く行うにあらざればお前の全力が発揮できないぞ」 と物事につけて叱るような心地がする。