自警録 / 第二十四章 全力と余裕・最善をつくしても余力あるように思う
たぶん読者の中にも同じ経験を有する人もあろうが、僕は何事をしても結了したあとで、俺は今少しよくできるはずだがなと思わぬことはない。 たとえば演説をする、して終わるとただちに起こる考えは、なんとまずい言いざまじゃないか、おのれには今少しよい思想もあるに。また同じ思想でももっと順序正しく説明出来るはずだに、あるいはも少し面白く述べうるはずだがと、おのれを怨まぬことはない。 文章を書いても同じことである。 ある問題について討議しても同じことである。俺はも少しよくできるはずだがという観念は付き物のように万事について起こる。自負心であろうかと思うけれども自負心とは違う。またおのれの最善をつくさなかったのかというと、あながちそうではない。 その時の最善をつくしてもこの考えが起こる。おのれの力の深さが三層に分かれていて、平生はいちばん浅い一段の力で事に当たり、幾分か重大だと思うときは、第二層の力を発揮するが、第三段の深さに潜伏する力を発揮したことがない心地がする。ゆえにさきにいう何事を終っても、第三層にあるおのれの力が声を発して、 「お前はまだ俺の力は借りないよ、もいっそう深く考え、もういっそう高く行うにあらざればお前の全力が発揮できないぞ」 と物事につけて叱るような心地がする。
書き下し
たぶん読者の中にも同じ経験を有する人もあろうが、僕は何事をしても結了したあとで、俺は今少しよくできるはずだがなと思わぬことはない。 たとえば演説をする、して終わるとただちに起こる考えは、なんとまずい言いざまじゃないか、おのれには今少しよい思想もあるに。また同じ思想でももっと順序正しく説明出来るはずだに、あるいはも少し面白く述べうるはずだがと、おのれを怨まぬことはない。 文章を書いても同じことである。 ある問題について討議しても同じことである。俺はも少しよくできるはずだがという観念は付き物のように万事について起こる。自負心であろうかと思うけれども自負心とは違う。またおのれの最善をつくさなかったのかというと、あながちそうではない。 その時の最善をつくしてもこの考えが起こる。おのれの力の深さが三層に分かれていて、平生はいちばん浅い一段の力で事に当たり、幾分か重大だと思うときは、第二層の力を発揮するが、第三段の深さに潜伏する力を発揮したことがない心地がする。ゆえにさきにいう何事を終っても、第三層にあるおのれの力が声を発して、 「お前はまだ俺の力は借りないよ、もいっそう深く考え、もういっそう高く行うにあらざればお前の全力が発揮できないぞ」 と物事につけて叱るような心地がする。
現代語訳
おそらく読者の中にも同じ経験を持つ人がいるでしょうが、私は何事をしても、終わったあとで「自分はもう少しうまくできるはずだったのに」と思わないことはありません。 たとえば演説をします。終わるとすぐに起こる考えは、なんとまずい話しぶりだったことか、自分にはもう少しよい思想もあったのに、同じ思想でももっと順序正しく説明できたはずなのに、もう少し面白く述べられたはずなのに、と自分を恨まずにいられないことです。 文章を書いても同じです。 ある問題について討議しても同じです。「自分はもう少しうまくできるはずだ」という思いは、付き物のようにすべてのことについて起こります。自負心だろうかと思いますが、自負心とは違います。では自分の最善を尽くさなかったのかというと、必ずしもそうではありません。 その時の最善を尽くしても、この思いは起こります。自分の力の深さが三層に分かれていて、ふだんはいちばん浅い一層の力で事に当たり、いくらか重大だと思うときは第二層の力を出しますが、第三層の深みに潜んでいる力を発揮したことがない、という気がします。ですから、何事を終えても、第三層にある自分の力が声を発して、 「お前はまだ俺の力を借りていないよ。もっと深く考え、もっと高く行わなければ、お前の全力は発揮できないぞ」 と、折にふれて叱るような心地がするのです。
解説

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自警録・第二十四章 全力と余裕・潜伏せる余裕を示す幾多の実例たぶんこの知覚についてはわが輩と経験を同じくする人が許多あることと信ずる。かくのごとく筋肉の力においても、精神的の力においても、各人にまだまだ開発すべき余裕のあるものと信ずる。余裕のあることはまことに結構であるが、一生余裕の貯えだけで発揮せずに宝の持ち腐れで終わることはどうであろうか。はなはだ惜しく思う。 おたがい、世を見渡しても、一見優雅なる婦人などが、ときによって大男三、四人ぐらいの力を出すことがある。はなはだ例が不吉であるが、精神病院にいってみると、やさしい女の乱暴するのを止めるために大男が五人もかかることを見ると、いかに女の筋肉に力の潜んでいるかに驚かされる。僕はたびたび見たが、雛を養っている雌鶏の傍に、犬猫がゆくと、その時の見幕、全身の筋肉に籠める力はほとんど羽衣を徹して現れる。 あるいは今に忘れぬが、わが輩の七、八歳のころ、故郷にあって朋輩三、四人と山遊びしたとき、森の内で火を焚いた廉をもって、近所の百姓に追われて命からがら落ちのびたことがある。その後その場におもむき実地踏査を遂げたのに、どうして七、八歳の子供が一里余の山道を、しかもあまたの小流を跳りつ越えつつ走ったろうと考えると、少なくもその時は僕も第三層に潜んでいる力を出したかと思われる。
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自警録・第二十四章 全力と余裕・人の力は出せば出す程ふえる右に言ったことをもっとまっすぐにいうと、何事に従事するときも、普通に用うるあらんかぎりの力をつくすべしという言葉とはさらに矛盾しないと思う。いかんとなれば、普通にいう全力をつくせ、あらんかぎりの力を出せということは、実際十貫目の力のあるものを、一匁も残らぬほどに十貫目出せということではない。よし仮りに正直な男があって、十貫目を十貫目ことごとく出したと見なしても、おのれは十貫目の力よりないものと思ったものが、十貫目の底にいたると、まだまだ底のあることを発見する。単に僕のいった俺は第一層の力しかないと思っていた者が、一層をつくすと二層にいたり二層の底まで達すると、一層二層に勝る第三層が発見せられるように、かくのごとくにしていわゆる十分に力を出す者に限って、おのれに十二分の力があり、十二分の力を出した者がおのれに十五分の力あることがわかってくる。いよいよ進めばいよいよ哲学者のいわゆるパーソナリティー(わが国で普通にいう人格とは違う)の大を知る。 かく述べたならば前項において十分のものを八分より用うるなと不熱心に聞こゆる僕の言と、この項において述べる十分あるものは十分以上に力を出せということと、実際において矛盾しないことも察せられるだろう。
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自警録・第六章 怖気の矯正・暗いところがあると怖気出すこれに反し自分に最善を尽しておらぬものは、何かの時に退けを取りやすい。恥ずかしいが、僕もしばしば自分でこれを経験したことがある。かようなことは相手も知っておるまいと、思って大きな顔している間に、はしなくも話頭がみずから犯した罪に、すこしでも触れると、すぐにビクつき、あるいは顔色が変わり、あるいは声が顫え、あるいはその言うことに辻褄が合わなくなり、あるいは極上等に出来たとしても、話頭を漸々に曲げて自分の痛いところより遠く離さんとし、然らざれば正反対に自分の弱点を弁護するごとき議論や物語をしたりする。 これは僕自身にそういう経験があるのみならず、また他人に逢っても、自分みたいなことをやっているわいと感じたことが間々あった。たとえば前年僕を訪ねて、なかなか元気よく議論したある青年があった。その挙動を見るとすこぶる傍若無人で、室に入るや否やいきなり趺座をかき、口角に泡を飛ばして盛んに議論する。僕はこれを見てなるほど彼は勇気精力に富むと感心した。彼が独りで暫時議論したのち、僕にむかい、 「今日の日本の青年に対し最も注意すべきものは何か」 と質問を発した。僕はあながち彼に対してあてつけ、皮肉をいうつもりはなかったが、あたかもそのころある地方の中学を巡廻し、生徒の不行儀なることを、ことに痛切に感じていたから、僕は、 「行儀を正すことが目下の一大急務なり」 というや、今までの豪傑は急に狼狽しはじめた。露出した膝頭を気にして、衣服で掩わんとしたり、あるいは趺座をかいた足を幾分かむすび直し、正座の姿に移らんとした。僕はこれを見て、ハハア、この人が今までの大言壮語も、その磊落の行儀も、思いつかずになした業でなく、一時の拵え気焔で人を脅かすつもりか、あるいは豪傑を衒っての業であったのだな。彼の英邁奇行は道具立ての小細工たるを見て可笑しくなった。彼はその知れる限りの最美を尽しておらぬ。むしろ彼の最悪の行儀をなしていたのである。自分が為すべからざることと知れることを、ことさらに為していたのである。 ゆえに一言でも話頭が彼の弱点に渉ると、胸中幾分か狼狽するの風情が現れ、今まで頼もしい剛胆なる青年と思われたものが、見すぼらしい凡人に立ち返り、勇将が一時に敗兵となった観を呈した。
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自警録・第二十四章 全力と余裕・余裕を存することと全力主義わが国従来の教えとして全力を出さぬことを賞める。すなわち余裕しゃくしゃくという言葉は、まだ力はつくさないぞ、あとには予備が控えているぞという態度である。 この態度は独りわが国ばかりではない。何国人といえども尊敬するところである。リンカーンの年を経るにしたがってますます人物の高まるのは、同氏にはさきにいった三層どころではない、そのなお奥に四層も五層も深みがあったから、彼の性格を味わえば味わうほど甘味を感ずる。 これに反し、張りきっておって、二十貫目の力を二十貫目始終手先きや足先きに現す者は感心はするけれども、吾人の深い尊敬に値しない。 数年前、ある青年と話の際、僕は、君に十貫目の力があるなら八貫目だけ出してあとの二貫目はとっておけといったら、この青年がいぶかって、私の主義はなにごとについても最善をつくし全力を注ぐということであるんですが、先生のは、あやふやじゃありませんかといわれたことがある。なるほど意味の取り方によって、わが輩の言葉はけしからん言葉である。ほどよく、いい加減にお茶を濁しておけ、一所懸命になるな、熱心は禁物だというように誤解を起こしやすいけれども、僕の意は決してそういう考えでない。 僕の意をことごとく説明することは、僕にとっては不可能である。かつまたことごとく説明することは僕の意に背く。考えがある以上はこれをいい現すについて、一割か二割は自分に貯えておきたい気がする。種までもことごとくさらけ出すことはしたくなく思う。つねに幾分のゆとりが欲しい。十貫目の力のあるものならば、その八分九分だけを用いて、残部は準備として貯えおき、これを資本として十二貫になったならば、その時に十貫出す。十貫を利用して資本力が十五貫にましたなら、その時に十二貫出すと、つねに余裕を貯えておいてこれを種として進みたいと思うのである。もっともこれは喩の言葉であるから、他の例をとれば十貫のものを使ってただちに二十貫の力を得るというごとき、つきせぬ河の流れの水を引くごとき例をとって、僕の正反対の説を述べることもできるから、はなはだ例は不完全であるけれども、僕の心のあるところだけは読者諸君はわかっていただけたであろう。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・職業に当たる人の三段の区別元来いかなる職業にありても、これに当たる人に三段の区別がある。報酬だけの仕事をせぬすなわち曠職の人。次は報酬に値するだけの務めする人、いくら気づいたことがあっても、それ以上のことを為さず、また気づかずに馬車馬的に自分の命ぜられたこと以上には出来ぬ人。第三は報酬以上のことを為す人である。しかるに世の中を渡るには、報酬以上の仕事を為す心がけがなければ、報酬だけの仕事は出来ぬと思う。すなわち金を払っても出来ないくらいの仕事を為すものにあらざれば、払った金も多過ぎるように思う。 たとえばここにある会社の社長が、新たに五十円の給料で一人の書記を雇ったとする。この書記の給料は五十円が相当とは何人が定めるか、いかなる標準によりて決せられるか、いかにしてこの人の職務が五十円と定められるかと尋ねれば、その標準ははなはだ漠として当てにならぬ。なんとなれば同級生が若干で某所に務めているから若干というのが普通の標準であって、個人々々の特長の有無のごとき問題は計算に入れぬ。経済学者に言わすれば、これ需要供給の然らしむるところと、大雑把に一言で解決するであろうが、これを個人々々の場合に当て嵌めると、人の問題は死んだ物件の需要供給とは大いに異う。 苟くも人格を有するものには、経済学の教える労銀論は決して当を得たとはいわれぬことが多い。ことに使われる人は、その不当なることを適切に感ずるから、世の中の不満は多くこの点より起こる。 「僕は彼と同じく見られて困る」 とか、 「彼らの仲間と同等視されては迷惑である」 とかいうことはしばしば聞くところである。 また自分の長所はいっそうこれを過大に吹聴したがるものがある。自分の学力は某と同じであるが、自分の字は子供のときより妙に褒められたといって筆蹟を誇り、あるいは自分の交際術においては、彼らに比べられては困る、硬骨なる点においては彼らに負けぬ、従順なる点においては決して彼らに劣らぬと、各自がその特長とするところをいっそう多く吹聴し、したがって高値に他に売らんとする考えがある。
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自警録・第二十三章 若返りの工夫・回顧反省世の賢人君子はいざ知らず、わが輩らのごとき凡人、あるいは凡人以下の者は、姑息かは知らんが、前途をして遼遠ならしむることを努め、われはたしてかかる大理想ありや否やを反省する必要があると思う。すなわち賢人君子の眼よりせばあるいは児戯に等しいかは知らんが、青年時代の希望の実状を印してこれを現今の実際と照合し、もって理想の規矩にあててみるのである。いっそう具体的に述ぶればあるいは月に一回なり、すくなくとも年に一回、年の終りとか年のはじめに、あるいは自分の誕生日、あるいは親の命日、あるいは自分になにか特別の意味のある日、退いて予ははたして青年時代の理想に近づきつつありや、あるいは逆戻りせぬかと深く省るのである。しかるときにはおそらく十人のうち九人ないし十人までが種々なる名目のもとに逆戻りしていることを発見するであろう。 して種々なる名目とは、すなわち俗才とか、実際とかいうごとき、あるいは現今の社会状態とか、あるいは世の習わしとか、友人の勧めとか、時勢の変遷とか、娯楽の必要とか、生理的要求とか、ちょっときくともっともらしい名目のもとに、青年時代の溌剌たる理想に遠ざかれるを発見するであろう。老いてもなお青年の活気と理想とを持続せんには折々自己に省るに如くはない。省て退歩せる点あらばさらに理想に向かって奮励努力一番し、かくしてつねに若い心持ちで向上する。これすなわち僕の若返りの工夫である。要するに脳髄のうちに折々大掃除を行って、煤、埃、芥、枯れ枝等をみな払うことをしたい。