自警録 / 第二十四章 全力と余裕・人の力は出せば出す程ふえる
右に言ったことをもっとまっすぐにいうと、何事に従事するときも、普通に用うるあらんかぎりの力をつくすべしという言葉とはさらに矛盾しないと思う。いかんとなれば、普通にいう全力をつくせ、あらんかぎりの力を出せということは、実際十貫目の力のあるものを、一匁も残らぬほどに十貫目出せということではない。よし仮りに正直な男があって、十貫目を十貫目ことごとく出したと見なしても、おのれは十貫目の力よりないものと思ったものが、十貫目の底にいたると、まだまだ底のあることを発見する。単に僕のいった俺は第一層の力しかないと思っていた者が、一層をつくすと二層にいたり二層の底まで達すると、一層二層に勝る第三層が発見せられるように、かくのごとくにしていわゆる十分に力を出す者に限って、おのれに十二分の力があり、十二分の力を出した者がおのれに十五分の力あることがわかってくる。いよいよ進めばいよいよ哲学者のいわゆるパーソナリティー(わが国で普通にいう人格とは違う)の大を知る。 かく述べたならば前項において十分のものを八分より用うるなと不熱心に聞こゆる僕の言と、この項において述べる十分あるものは十分以上に力を出せということと、実際において矛盾しないことも察せられるだろう。
書き下し
右に言ったことをもっとまっすぐにいうと、何事に従事するときも、普通に用うるあらんかぎりの力をつくすべしという言葉とはさらに矛盾しないと思う。いかんとなれば、普通にいう全力をつくせ、あらんかぎりの力を出せということは、実際十貫目の力のあるものを、一匁も残らぬほどに十貫目出せということではない。よし仮りに正直な男があって、十貫目を十貫目ことごとく出したと見なしても、おのれは十貫目の力よりないものと思ったものが、十貫目の底にいたると、まだまだ底のあることを発見する。単に僕のいった俺は第一層の力しかないと思っていた者が、一層をつくすと二層にいたり二層の底まで達すると、一層二層に勝る第三層が発見せられるように、かくのごとくにしていわゆる十分に力を出す者に限って、おのれに十二分の力があり、十二分の力を出した者がおのれに十五分の力あることがわかってくる。いよいよ進めばいよいよ哲学者のいわゆるパーソナリティー(わが国で普通にいう人格とは違う)の大を知る。 かく述べたならば前項において十分のものを八分より用うるなと不熱心に聞こゆる僕の言と、この項において述べる十分あるものは十分以上に力を出せということと、実際において矛盾しないことも察せられるだろう。
現代語訳
右に述べたことを、もっとまっすぐに言うと、何事に従事する時も、ふつうに使える限りの力を尽くせという言葉と、まったく矛盾しないと思います。なぜなら、ふつう「全力を尽くせ」「あらん限りの力を出せ」と言うのは、実際に十貫目の力のある者に、一匁も残らないほど十貫目を出せということではないからです。かりに正直な男がいて、十貫目をすべて出したと見なしても、自分は十貫目の力しかないと思っていた者が、十貫目の底に達してみると、まだまだ底があることを発見します。私が言った、自分は第一層の力しかないと思っていた者が、一層を尽くすと二層に至り、二層の底まで達すると、一、二層に勝る第三層が見つかるように、こうしていわゆる十分に力を出す者に限って、自分に十二分の力があることが分かり、十二分の力を出した者は自分に十五分の力があることが分かってきます。進めば進むほど、哲学者のいわゆるパーソナリティー(わが国でふつう言う人格とは違います)の大きさを知るのです。 このように述べれば、前の項で、十分のものを八分より使うなと言って不熱心に聞こえた私の言葉と、この項で述べる、十分あるものは十分以上に力を出せという言葉とが、実際には矛盾しないことも、お察しいただけるでしょう。
解説

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自警録・第二十四章 全力と余裕・余裕を存することと全力主義わが国従来の教えとして全力を出さぬことを賞める。すなわち余裕しゃくしゃくという言葉は、まだ力はつくさないぞ、あとには予備が控えているぞという態度である。 この態度は独りわが国ばかりではない。何国人といえども尊敬するところである。リンカーンの年を経るにしたがってますます人物の高まるのは、同氏にはさきにいった三層どころではない、そのなお奥に四層も五層も深みがあったから、彼の性格を味わえば味わうほど甘味を感ずる。 これに反し、張りきっておって、二十貫目の力を二十貫目始終手先きや足先きに現す者は感心はするけれども、吾人の深い尊敬に値しない。 数年前、ある青年と話の際、僕は、君に十貫目の力があるなら八貫目だけ出してあとの二貫目はとっておけといったら、この青年がいぶかって、私の主義はなにごとについても最善をつくし全力を注ぐということであるんですが、先生のは、あやふやじゃありませんかといわれたことがある。なるほど意味の取り方によって、わが輩の言葉はけしからん言葉である。ほどよく、いい加減にお茶を濁しておけ、一所懸命になるな、熱心は禁物だというように誤解を起こしやすいけれども、僕の意は決してそういう考えでない。 僕の意をことごとく説明することは、僕にとっては不可能である。かつまたことごとく説明することは僕の意に背く。考えがある以上はこれをいい現すについて、一割か二割は自分に貯えておきたい気がする。種までもことごとくさらけ出すことはしたくなく思う。つねに幾分のゆとりが欲しい。十貫目の力のあるものならば、その八分九分だけを用いて、残部は準備として貯えおき、これを資本として十二貫になったならば、その時に十貫出す。十貫を利用して資本力が十五貫にましたなら、その時に十二貫出すと、つねに余裕を貯えておいてこれを種として進みたいと思うのである。もっともこれは喩の言葉であるから、他の例をとれば十貫のものを使ってただちに二十貫の力を得るというごとき、つきせぬ河の流れの水を引くごとき例をとって、僕の正反対の説を述べることもできるから、はなはだ例は不完全であるけれども、僕の心のあるところだけは読者諸君はわかっていただけたであろう。
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自警録・第二十四章 全力と余裕・潜伏せる余裕を示す幾多の実例たぶんこの知覚についてはわが輩と経験を同じくする人が許多あることと信ずる。かくのごとく筋肉の力においても、精神的の力においても、各人にまだまだ開発すべき余裕のあるものと信ずる。余裕のあることはまことに結構であるが、一生余裕の貯えだけで発揮せずに宝の持ち腐れで終わることはどうであろうか。はなはだ惜しく思う。 おたがい、世を見渡しても、一見優雅なる婦人などが、ときによって大男三、四人ぐらいの力を出すことがある。はなはだ例が不吉であるが、精神病院にいってみると、やさしい女の乱暴するのを止めるために大男が五人もかかることを見ると、いかに女の筋肉に力の潜んでいるかに驚かされる。僕はたびたび見たが、雛を養っている雌鶏の傍に、犬猫がゆくと、その時の見幕、全身の筋肉に籠める力はほとんど羽衣を徹して現れる。 あるいは今に忘れぬが、わが輩の七、八歳のころ、故郷にあって朋輩三、四人と山遊びしたとき、森の内で火を焚いた廉をもって、近所の百姓に追われて命からがら落ちのびたことがある。その後その場におもむき実地踏査を遂げたのに、どうして七、八歳の子供が一里余の山道を、しかもあまたの小流を跳りつ越えつつ走ったろうと考えると、少なくもその時は僕も第三層に潜んでいる力を出したかと思われる。
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自警録・第二十四章 全力と余裕・最善をつくしても余力あるように思うたぶん読者の中にも同じ経験を有する人もあろうが、僕は何事をしても結了したあとで、俺は今少しよくできるはずだがなと思わぬことはない。 たとえば演説をする、して終わるとただちに起こる考えは、なんとまずい言いざまじゃないか、おのれには今少しよい思想もあるに。また同じ思想でももっと順序正しく説明出来るはずだに、あるいはも少し面白く述べうるはずだがと、おのれを怨まぬことはない。 文章を書いても同じことである。 ある問題について討議しても同じことである。俺はも少しよくできるはずだがという観念は付き物のように万事について起こる。自負心であろうかと思うけれども自負心とは違う。またおのれの最善をつくさなかったのかというと、あながちそうではない。 その時の最善をつくしてもこの考えが起こる。おのれの力の深さが三層に分かれていて、平生はいちばん浅い一段の力で事に当たり、幾分か重大だと思うときは、第二層の力を発揮するが、第三段の深さに潜伏する力を発揮したことがない心地がする。ゆえにさきにいう何事を終っても、第三層にあるおのれの力が声を発して、 「お前はまだ俺の力は借りないよ、もいっそう深く考え、もういっそう高く行うにあらざればお前の全力が発揮できないぞ」 と物事につけて叱るような心地がする。
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自警録・第二十四章 全力と余裕・静坐黙想は潜勢力を増加す昔、かの英国の大文豪と称せらるるジョンソン博士が、世の迷信を嗤わんがために一夜墓地に散歩して石碑を叩いて幽霊があるものなら顕れよと言って、一夜を暮らしたという話があるが、これを批評してカーライルが、このことたるや実に博士に似合わぬ愚挙である。嗚呼博士よ、君にして幽霊を見るの望みあるならば、なんぞ墓場に行くを要せん。おのれに顧みれば霊魂のおのれに潜んでいることが明らかでないかと論じたが、吾人も少しく心静かにおのれを省ると、銘々の内に潜んである力の偉大なることを感ずる。 僕の先にいった全力をつくすなかれというは、要するに省るだけの余地をとっておけというにほかならぬのである。しかるに僕が誤解しやすき言葉を用いたのは、いわゆる全力をつくすと称する人々が、とかく静坐して内観をするの余地を許さぬからである。いわゆる奮闘いわゆる努力等に没頭する者は、ほとんど一粒の種も残さずに自分の力を消耗するおそれあるをみる。努力奮闘を標榜する者も静坐黙想をすることは潜勢力を増加するのもっとも得たる策だと思う。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・報酬以上の務めの真義各自の職務には分限があって、その範囲を脱するをゆるさぬ、すなわち厳格なる境界を越えてはならぬ。ことに軍事または外交に従事する人々は、たとえ大いにその手腕を揮わんとしても職権以外に出られぬ。ゆえに僕は職務以外のことに手を出せ口を出せというにあらぬ。 職務の分量に止まらずして職務の品性をよくせよというのである。十貫目の荷物を荷うものに、務めて荷物十一貫目を荷えというのでない。もっとも荷っても身体に差支えなく、またために全体に悪影響の及ぶ憂いがなければ、それも差支えあるまいけれども、なんらかの事由のために各自の重荷は十貫目を超えてはならぬ規定のある場合には、十一貫目以上を荷えとは勧めぬ。しかし十貫目を荷うに苦い顔せず、喜んで荷いたい。荷うさまを綺麗にし、あるいは荷うものの品質をよくし、ただ十貫目担げといえば、なるべく品よいものを担げというのである。 かく比喩をもってしては、あるいは意味が解らぬか知らぬが、譬を変えていえば一日に六時間学生に教授するといえば、授業時間には苦い顔せず、また叱ったり不愉快な風に教えないで、愉快にこれを教えたいのである。また同じ六時間中にも、つまらぬことを教えないで、真に生徒に有益なることを教えたいのである。出勤簿には、善いことを教うるも、つまらぬことを説いても同じ六時間、苦い顔して教えても嬉しい顔して教えても六時間、職務上には変わりはなきも、僕の職務以外の務めというはここにあるのである。 この事は決して教員に限ることでない。役所や会社においても執務時間に、机の前に腰かけるだけは誰も同様であるが、実際仕事を捌くについても、ぶつぶつ囁きながらすると、快活にやるとは仕事の分量において異いはなくとも、その品質と、同僚に及ぼす感情には雲泥の差を起こす。仕事もこうやるようになれば真に君子的になる。 「施して必ず報ある者は、天地の定理なり。仁人之を述べて以て人に勧む。施して報を望まざる者は、聖賢の盛心なり。君子之を存して以て世を済う」。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・職業に当たる人の三段の区別元来いかなる職業にありても、これに当たる人に三段の区別がある。報酬だけの仕事をせぬすなわち曠職の人。次は報酬に値するだけの務めする人、いくら気づいたことがあっても、それ以上のことを為さず、また気づかずに馬車馬的に自分の命ぜられたこと以上には出来ぬ人。第三は報酬以上のことを為す人である。しかるに世の中を渡るには、報酬以上の仕事を為す心がけがなければ、報酬だけの仕事は出来ぬと思う。すなわち金を払っても出来ないくらいの仕事を為すものにあらざれば、払った金も多過ぎるように思う。 たとえばここにある会社の社長が、新たに五十円の給料で一人の書記を雇ったとする。この書記の給料は五十円が相当とは何人が定めるか、いかなる標準によりて決せられるか、いかにしてこの人の職務が五十円と定められるかと尋ねれば、その標準ははなはだ漠として当てにならぬ。なんとなれば同級生が若干で某所に務めているから若干というのが普通の標準であって、個人々々の特長の有無のごとき問題は計算に入れぬ。経済学者に言わすれば、これ需要供給の然らしむるところと、大雑把に一言で解決するであろうが、これを個人々々の場合に当て嵌めると、人の問題は死んだ物件の需要供給とは大いに異う。 苟くも人格を有するものには、経済学の教える労銀論は決して当を得たとはいわれぬことが多い。ことに使われる人は、その不当なることを適切に感ずるから、世の中の不満は多くこの点より起こる。 「僕は彼と同じく見られて困る」 とか、 「彼らの仲間と同等視されては迷惑である」 とかいうことはしばしば聞くところである。 また自分の長所はいっそうこれを過大に吹聴したがるものがある。自分の学力は某と同じであるが、自分の字は子供のときより妙に褒められたといって筆蹟を誇り、あるいは自分の交際術においては、彼らに比べられては困る、硬骨なる点においては彼らに負けぬ、従順なる点においては決して彼らに劣らぬと、各自がその特長とするところをいっそう多く吹聴し、したがって高値に他に売らんとする考えがある。