自警録 / 第二十四章 全力と余裕・潜伏せる余裕を示す幾多の実例
たぶんこの知覚についてはわが輩と経験を同じくする人が許多あることと信ずる。かくのごとく筋肉の力においても、精神的の力においても、各人にまだまだ開発すべき余裕のあるものと信ずる。余裕のあることはまことに結構であるが、一生余裕の貯えだけで発揮せずに宝の持ち腐れで終わることはどうであろうか。はなはだ惜しく思う。 おたがい、世を見渡しても、一見優雅なる婦人などが、ときによって大男三、四人ぐらいの力を出すことがある。はなはだ例が不吉であるが、精神病院にいってみると、やさしい女の乱暴するのを止めるために大男が五人もかかることを見ると、いかに女の筋肉に力の潜んでいるかに驚かされる。僕はたびたび見たが、雛を養っている雌鶏の傍に、犬猫がゆくと、その時の見幕、全身の筋肉に籠める力はほとんど羽衣を徹して現れる。 あるいは今に忘れぬが、わが輩の七、八歳のころ、故郷にあって朋輩三、四人と山遊びしたとき、森の内で火を焚いた廉をもって、近所の百姓に追われて命からがら落ちのびたことがある。その後その場におもむき実地踏査を遂げたのに、どうして七、八歳の子供が一里余の山道を、しかもあまたの小流を跳りつ越えつつ走ったろうと考えると、少なくもその時は僕も第三層に潜んでいる力を出したかと思われる。
書き下し
たぶんこの知覚についてはわが輩と経験を同じくする人が許多あることと信ずる。かくのごとく筋肉の力においても、精神的の力においても、各人にまだまだ開発すべき余裕のあるものと信ずる。余裕のあることはまことに結構であるが、一生余裕の貯えだけで発揮せずに宝の持ち腐れで終わることはどうであろうか。はなはだ惜しく思う。 おたがい、世を見渡しても、一見優雅なる婦人などが、ときによって大男三、四人ぐらいの力を出すことがある。はなはだ例が不吉であるが、精神病院にいってみると、やさしい女の乱暴するのを止めるために大男が五人もかかることを見ると、いかに女の筋肉に力の潜んでいるかに驚かされる。僕はたびたび見たが、雛を養っている雌鶏の傍に、犬猫がゆくと、その時の見幕、全身の筋肉に籠める力はほとんど羽衣を徹して現れる。 あるいは今に忘れぬが、わが輩の七、八歳のころ、故郷にあって朋輩三、四人と山遊びしたとき、森の内で火を焚いた廉をもって、近所の百姓に追われて命からがら落ちのびたことがある。その後その場におもむき実地踏査を遂げたのに、どうして七、八歳の子供が一里余の山道を、しかもあまたの小流を跳りつ越えつつ走ったろうと考えると、少なくもその時は僕も第三層に潜んでいる力を出したかと思われる。
現代語訳
おそらくこの感覚については、私と同じ経験をした人が多数いると信じます。このように、筋肉の力についても精神の力についても、各人にはまだまだ開発すべき余地があると信じます。余裕があることはまことに結構ですが、一生その蓄えを使わずに、宝の持ち腐れで終わるのはどうでしょうか。はなはだ惜しいことと思います。 世の中を見渡しても、一見上品な婦人などが、時によって大男三、四人分の力を出すことがあります。はなはだ縁起の悪い例ですが、精神病院に行ってみると、やさしい女性が暴れるのを止めるために大男が五人がかりになるのを見て、女性の筋肉にいかに力が潜んでいるかに驚かされます。私はたびたび見ましたが、ひなを育てている雌鶏のそばに犬や猫が行くと、その時の剣幕、全身の筋肉にこもる力は、羽毛を通してほとんど表に現れます。 あるいは今も忘れませんが、私が七、八歳のころ、故郷で仲間三、四人と山遊びをした時、森の中で火を焚いたことで近所の百姓に追われ、命からがら逃げ落ちたことがあります。その後その場所に出向いて実地に調べてみたところ、どうして七、八歳の子供が一里余りの山道を、しかも多くの小川を跳び越えながら走れたのだろうと考えると、少なくともその時は、私も第三層に潜んでいる力を出したのだろうと思われます。
解説

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