自警録 / 第二十四章 全力と余裕・蛙の筋肉の力を測りし学者の試験
かつてベルリンに在学のころヘルムホルツ博士の名が世界にひろく轟いているので、僕の学問にはなんの関係もなかったけれども、好奇心にかられて先生の講釈を一度聞きにいったことがあった。医学の講義をドイツ語でされるから僕が聞いてはわからぬことは言うまでもないが、先生の試験がよく眼に見えておぼろげに理解しえた。講義の大意も多分こういうことであったろうと、その時深く頭脳に印象し、今日もなお忘れない。 試験は蛙の筋肉を取ってこまやかな糸のごとき一部分を秤にかけて、この筋肉をもっておのれの重量の何倍ある物質を支えうるか。すなわち筋肉の力を証明する主意と心得た。この試験によると、蛙の筋肉はおのれの重量に何十倍(何百倍?)の重さをみごとに支えたので、学生が大いに拍手喝采して、なおいっそう僕の印象を深めた。 たぶんこの簡単なる、また素人にも理解しやすき試験は医科大学あるいは諸所の医学試験でも教授の材料となっていることであろうが、門外漢の僕には人体(試験材料は蛙でも人間の筋肉でもあまり変りあるまいと想像する)の内に恐しき力の潜伏していることを思った。この試験の割合であらゆる筋肉の力を用うるわけには無論ゆくまいが、もしその十分の一の力を発揮しえたなら、おそらく今日十五、六貫目の我々の五体をもって、米の四、五俵は朝飯前に二、三里の道を運搬することができよう。 僕みずからたびたび感ずることなるが、あるいは神経衰弱だのあるいはリュウマチスだのあるいは胃弱だのと、その他種々の故障のために、天賦の力の百分の一も利用せず発揮もせずに一生送る者は、この人体に潜伏せる力について深く考えたい。
書き下し
かつてベルリンに在学のころヘルムホルツ博士の名が世界にひろく轟いているので、僕の学問にはなんの関係もなかったけれども、好奇心にかられて先生の講釈を一度聞きにいったことがあった。医学の講義をドイツ語でされるから僕が聞いてはわからぬことは言うまでもないが、先生の試験がよく眼に見えておぼろげに理解しえた。講義の大意も多分こういうことであったろうと、その時深く頭脳に印象し、今日もなお忘れない。 試験は蛙の筋肉を取ってこまやかな糸のごとき一部分を秤にかけて、この筋肉をもっておのれの重量の何倍ある物質を支えうるか。すなわち筋肉の力を証明する主意と心得た。この試験によると、蛙の筋肉はおのれの重量に何十倍(何百倍?)の重さをみごとに支えたので、学生が大いに拍手喝采して、なおいっそう僕の印象を深めた。 たぶんこの簡単なる、また素人にも理解しやすき試験は医科大学あるいは諸所の医学試験でも教授の材料となっていることであろうが、門外漢の僕には人体(試験材料は蛙でも人間の筋肉でもあまり変りあるまいと想像する)の内に恐しき力の潜伏していることを思った。この試験の割合であらゆる筋肉の力を用うるわけには無論ゆくまいが、もしその十分の一の力を発揮しえたなら、おそらく今日十五、六貫目の我々の五体をもって、米の四、五俵は朝飯前に二、三里の道を運搬することができよう。 僕みずからたびたび感ずることなるが、あるいは神経衰弱だのあるいはリュウマチスだのあるいは胃弱だのと、その他種々の故障のために、天賦の力の百分の一も利用せず発揮もせずに一生送る者は、この人体に潜伏せる力について深く考えたい。
現代語訳
かつてベルリンに留学していたころ、ヘルムホルツ博士の名が世界に広く轟いていたので、私の学問には何の関係もありませんでしたが、好奇心にかられて、先生の講義を一度聞きに行ったことがありました。医学の講義がドイツ語で行われたので、私が聞いても分からないのは言うまでもありませんが、先生の実験はよく目に見えて、ぼんやりと理解できました。講義の大意もおそらくこういうことだったのだろうと、その時深く頭に印象づけられ、今日もなお忘れません。 実験は、蛙の筋肉から糸のように細い一部を取って秤にかけ、その筋肉が自分の重さの何倍の物を支えられるか、つまり筋肉の力を証明する趣旨だと受け取りました。この実験によると、蛙の筋肉は自分の重さの何十倍(何百倍?)もの重さを見事に支えたので、学生たちが大いに拍手喝采し、私の印象はいっそう深まりました。 おそらくこの簡単で、素人にも理解しやすい実験は、医科大学や各地の医学の試験でも教材になっているでしょうが、門外漢の私には、人体(実験材料は蛙でも人間の筋肉でもあまり変わらないだろうと想像します)の中に恐ろしい力が潜んでいることを思わされました。この実験の割合であらゆる筋肉の力を使うわけにはもちろんいきませんが、もしその十分の一の力を発揮できたなら、今日は十五、六貫目(約六十キロ前後)の私たちの体でも、米の四、五俵を朝飯前に二、三里の道を運べるでしょう。 私自身もたびたび感じることですが、神経衰弱やリューマチ、胃弱、その他さまざまな不調のために、天から授かった力の百分の一も使わず、発揮もせずに一生を送る人は、この人体に潜んでいる力について深く考えてほしいと思います。
解説

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志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
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自警録・第二十四章 全力と余裕・潜伏せる余裕を示す幾多の実例たぶんこの知覚についてはわが輩と経験を同じくする人が許多あることと信ずる。かくのごとく筋肉の力においても、精神的の力においても、各人にまだまだ開発すべき余裕のあるものと信ずる。余裕のあることはまことに結構であるが、一生余裕の貯えだけで発揮せずに宝の持ち腐れで終わることはどうであろうか。はなはだ惜しく思う。 おたがい、世を見渡しても、一見優雅なる婦人などが、ときによって大男三、四人ぐらいの力を出すことがある。はなはだ例が不吉であるが、精神病院にいってみると、やさしい女の乱暴するのを止めるために大男が五人もかかることを見ると、いかに女の筋肉に力の潜んでいるかに驚かされる。僕はたびたび見たが、雛を養っている雌鶏の傍に、犬猫がゆくと、その時の見幕、全身の筋肉に籠める力はほとんど羽衣を徹して現れる。 あるいは今に忘れぬが、わが輩の七、八歳のころ、故郷にあって朋輩三、四人と山遊びしたとき、森の内で火を焚いた廉をもって、近所の百姓に追われて命からがら落ちのびたことがある。その後その場におもむき実地踏査を遂げたのに、どうして七、八歳の子供が一里余の山道を、しかもあまたの小流を跳りつ越えつつ走ったろうと考えると、少なくもその時は僕も第三層に潜んでいる力を出したかと思われる。
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自警録・第二十四章 全力と余裕・最善をつくしても余力あるように思うたぶん読者の中にも同じ経験を有する人もあろうが、僕は何事をしても結了したあとで、俺は今少しよくできるはずだがなと思わぬことはない。 たとえば演説をする、して終わるとただちに起こる考えは、なんとまずい言いざまじゃないか、おのれには今少しよい思想もあるに。また同じ思想でももっと順序正しく説明出来るはずだに、あるいはも少し面白く述べうるはずだがと、おのれを怨まぬことはない。 文章を書いても同じことである。 ある問題について討議しても同じことである。俺はも少しよくできるはずだがという観念は付き物のように万事について起こる。自負心であろうかと思うけれども自負心とは違う。またおのれの最善をつくさなかったのかというと、あながちそうではない。 その時の最善をつくしてもこの考えが起こる。おのれの力の深さが三層に分かれていて、平生はいちばん浅い一段の力で事に当たり、幾分か重大だと思うときは、第二層の力を発揮するが、第三段の深さに潜伏する力を発揮したことがない心地がする。ゆえにさきにいう何事を終っても、第三層にあるおのれの力が声を発して、 「お前はまだ俺の力は借りないよ、もいっそう深く考え、もういっそう高く行うにあらざればお前の全力が発揮できないぞ」 と物事につけて叱るような心地がする。
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自警録・第二十四章 全力と余裕・人の力は出せば出す程ふえる右に言ったことをもっとまっすぐにいうと、何事に従事するときも、普通に用うるあらんかぎりの力をつくすべしという言葉とはさらに矛盾しないと思う。いかんとなれば、普通にいう全力をつくせ、あらんかぎりの力を出せということは、実際十貫目の力のあるものを、一匁も残らぬほどに十貫目出せということではない。よし仮りに正直な男があって、十貫目を十貫目ことごとく出したと見なしても、おのれは十貫目の力よりないものと思ったものが、十貫目の底にいたると、まだまだ底のあることを発見する。単に僕のいった俺は第一層の力しかないと思っていた者が、一層をつくすと二層にいたり二層の底まで達すると、一層二層に勝る第三層が発見せられるように、かくのごとくにしていわゆる十分に力を出す者に限って、おのれに十二分の力があり、十二分の力を出した者がおのれに十五分の力あることがわかってくる。いよいよ進めばいよいよ哲学者のいわゆるパーソナリティー(わが国で普通にいう人格とは違う)の大を知る。 かく述べたならば前項において十分のものを八分より用うるなと不熱心に聞こゆる僕の言と、この項において述べる十分あるものは十分以上に力を出せということと、実際において矛盾しないことも察せられるだろう。
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自警録・第二十四章 全力と余裕・静坐黙想は潜勢力を増加す昔、かの英国の大文豪と称せらるるジョンソン博士が、世の迷信を嗤わんがために一夜墓地に散歩して石碑を叩いて幽霊があるものなら顕れよと言って、一夜を暮らしたという話があるが、これを批評してカーライルが、このことたるや実に博士に似合わぬ愚挙である。嗚呼博士よ、君にして幽霊を見るの望みあるならば、なんぞ墓場に行くを要せん。おのれに顧みれば霊魂のおのれに潜んでいることが明らかでないかと論じたが、吾人も少しく心静かにおのれを省ると、銘々の内に潜んである力の偉大なることを感ずる。 僕の先にいった全力をつくすなかれというは、要するに省るだけの余地をとっておけというにほかならぬのである。しかるに僕が誤解しやすき言葉を用いたのは、いわゆる全力をつくすと称する人々が、とかく静坐して内観をするの余地を許さぬからである。いわゆる奮闘いわゆる努力等に没頭する者は、ほとんど一粒の種も残さずに自分の力を消耗するおそれあるをみる。努力奮闘を標榜する者も静坐黙想をすることは潜勢力を増加するのもっとも得たる策だと思う。
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自警録・第二十五章 理想と実現・幼少時代の理想の回顧(1)毎春年の改まったについて、年ごとに起こる感じが再び湧き出で、俺はもう幾歳になったなアと、年を数え二十年前、三十年前に比べて、どれほど進んだか思い較べると、ただ恥ずかしきことばかり多い。青年のとき描いた理想が、いわゆる世の中の実際に擦れて摩滅したこともあまたある。しかし年に較べれば、自分ながらまだ理想を割合い余計に抱いておるがごとくに信ずる廉もないではない。 僕が三十六のころ、ドイツ見物に数週間ベルリンに費やしたことがあったが、その際ある文士に会って、四方山の文談を聞いたときに、話がゲーテとシラーに移って、両氏の性格および文才と、後世に及ぼせる偉業を論じた。そのとき僕はその文士に尋ねた。
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自警録・第五章 心強くなる工夫・身体局部の故障より来る気弱気弱は生理的原因に由来することがあるゆえ、これを矯正するには、生理的方法によらねばならぬ。すなわち冷水浴を実行するとか、睡眠が不足するものであれば、充分にこれを取るとか、あるいは営養が不足するの虞があれば、食物を改良するとかせねばならぬ。一般の健康状態はさて措き、ある局部が不良なるために卑屈となり引込勝ちとなり、憂欝にに沈む傾向がありはせぬか。これは僕の推測で、あるいは誤っているかも知らぬが、多くの事実よりかく帰納したく思う。 たとえば目の不良なる人はつねに欝陶しく感じ、したがってますます不愉快を覚え、人の前に出るのを厭うにいたる。それが一歩を進めると、衆人の前に出るのを恐れるようになり、いわゆる気弱となる。また胃弱者のごときもまた同じく、気が始終苛々し、つねに人と交際するのを煩わしく思う。煩わしいのが進むと、怖れを生じて気弱となる。要するに生理的状態より来る不快の観念を除くを得ば、気がさわやかになり、人に逢うても快楽を感じ、したがってますます衆人のあいだに出入し、気弱とか怖気とかが取去られてしまう。 例により僕は自分の恥曝しの経験を述べて参考に供したい。僕は少年のころ、物に怖気ない、大胆不敵、あまりに無遠慮であった。両親の友人などが来ても、臆面もなくその前に出て、しゃべりたいことをしゃべり、家の人々の手にもてあまされた。それが二十歳前後になると、処女も及ばぬように引込勝ちになり、人の前に出るを嫌い、人に顔見られるのを怖れた。いまになってその理由を顧みると、身体の工合、ことに目に関係したのではないかと思う。かくいわばあるいは一つの笑話のごとくに聞き捨つるものもあろうが、若い人々の参考のために一言したい。しかるにその後七、八年のあいだに、また幾分か逆戻りして、怖気がなくなったのは、その間に日常心懸けたこともあるが、一つには身体の工合がよくなったためと思う。