自警録 / 第二十三章 若返りの工夫・一年二回の花盛り
かの哲学的詩人として有名なるブラウニングの句に the last of life for which the first was made とあるが、僕は日ごろこの句の津々たる興味に感嘆する。意訳すれば、 「人生の終り――これぞすなわち深く人生の始めの作られし目的」 嗚呼実に然り。人生の起これる所以のものは終りを完うするにあらざるか、事に始終あり、始めは終りのためにして、終りは始めのためならず、草木の発芽するは花咲き、実を結ぶため、人の生まるるは熟して死するためなれば、幼少青年時代は準備の時代で、人生の目的時代はその後に存すると知れば、青年時代の活気を憧憬するは蝶を花を楽しむに異ならない。なるほど若年のころは花やかなるはいうまでもないが、頭の白きも、額の波も、華化することはできぬであろうか。 俗の諺にいう「老木に花を咲かす」とは不可能なるか。僕は『古今和歌集』のなかにある菊に寄せたる一首を読んで、さすがに菊は長命のシンボルなりと少なからず趣味を感じ、なお老いてもよく菊のごとく老の花を咲かせ、老の香を放ち、老華の若葉に劣らぬを示すこそ、老の身の使命であろう。 色変はる秋の菊をば一年にふたゝび匂ふ花とこそ見れ
書き下し
かの哲学的詩人として有名なるブラウニングの句に the last of life for which the first was made とあるが、僕は日ごろこの句の津々たる興味に感嘆する。意訳すれば、 「人生の終り――これぞすなわち深く人生の始めの作られし目的」 嗚呼実に然り。人生の起これる所以のものは終りを完うするにあらざるか、事に始終あり、始めは終りのためにして、終りは始めのためならず、草木の発芽するは花咲き、実を結ぶため、人の生まるるは熟して死するためなれば、幼少青年時代は準備の時代で、人生の目的時代はその後に存すると知れば、青年時代の活気を憧憬するは蝶を花を楽しむに異ならない。なるほど若年のころは花やかなるはいうまでもないが、頭の白きも、額の波も、華化することはできぬであろうか。 俗の諺にいう「老木に花を咲かす」とは不可能なるか。僕は『古今和歌集』のなかにある菊に寄せたる一首を読んで、さすがに菊は長命のシンボルなりと少なからず趣味を感じ、なお老いてもよく菊のごとく老の花を咲かせ、老の香を放ち、老華の若葉に劣らぬを示すこそ、老の身の使命であろう。 色変はる秋の菊をば一年にふたゝび匂ふ花とこそ見れ
現代語訳
哲学的詩人として有名なブラウニングの句に、「the last of life for which the first was made」というものがあります。私は日ごろから、この句の味わい深さに感嘆しています。意訳すれば、 「人生の終わり、これこそ人生の始めが作られた深い目的である」 ということです。ああ、まことにそのとおりです。人生が起こった理由は、終わりをまっとうすることにあるのではないでしょうか。物事には始めと終わりがありますが、始めは終わりのためにあり、終わりは始めのためにあるのではありません。草木が芽を出すのは花を咲かせ実を結ぶためであり、人が生まれるのは成熟して死ぬためです。幼少から青年の時代は準備の時代で、人生の目的の時代はその後にあると知れば、青年時代の活気をうらやむのは、蝶が花を楽しむのをうらやむのと変わりありません。なるほど若いころが華やかなのは言うまでもありませんが、白髪も、額のしわも、華やかなものに変えることはできないでしょうか。 世のことわざにいう「老木に花を咲かせる」ことは、不可能なのでしょうか。私は『古今和歌集』にある菊に寄せた一首を読んで、さすがに菊は長寿の象徴だと少なからず趣を感じ、老いてもなお、菊のように老いの花を咲かせ、老いの香りを放ち、老いの華が若葉に劣らないことを示すことこそ、老いた身の使命であろうと思います。 「色変はる秋の菊をば一年にふたたび匂ふ花とこそ見れ」
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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