自警録 / 第二十三章 若返りの工夫・心機一転
われわれの年寄るというは精力の枯れるの謂である。よし身体が弱り果てるも、心ばかりは老耄たくない。よし老耄ても、愚痴だけはいいたくない。 僕はつねに思うに、庭の樹を見ても年々歳々同じからずして、老行くとともに元気も衰えるが、手入れをしたり、肥料をほどこすと、再び色香を増すを見る。樹そのものは弱りても、その境遇を刷新すれば、甦生するの勢いを顕す。死灰再燃、人も同様、身体が弱れば食物を変えたり、転地療治をしたり、温泉に浴みしたりして健康を回復するが、住居も変えず、居ながらにして心的境遇を一変する方法もあろう。 山深く何か庵を結ぶべき心のうちに身はかくれけり 一身を物的境遇より退かせて、心的境遇に入らしむることも、これまた麒麟老ゆるも駑馬に劣るに至らざる工夫。木は根あればすなわち栄え、根壊るればすなわち枯る。魚は水あればすなわち活き、水涸るればすなわち死す。燈は膏あればすなわち明、膏尽くればすなわち滅す。人は真精なり、これを保てばすなわち寿、これを戕えばすなわち夭す。
新字:われわれの年寄るというは精力の枯れるの謂である。よし身体が弱り果てるも、心ばかりは老耄たくない。よし老耄ても、愚痴だけはいいたくない。 僕はつねに思うに、庭の樹を見ても年々歳々同じからずして、老行くとともに元気も衰えるが、手入れをしたり、肥料をほどこすと、再び色香を増すを見る。樹そのものは弱りても、その境遇を刷新すれば、甦生するの勢いを顕す。死灰再燃、人も同様、身体が弱れば食物を変えたり、転地療治をしたり、温泉に浴みしたりして健康を回復するが、住居も変えず、居ながらにして心的境遇を一変する方法もあろう。 山深く何か庵を結ぶべき心のうちに身はかくれけり 一身を物的境遇より退かせて、心的境遇に入らしむることも、これまた麒麟老ゆるも駑馬に劣るに至らざる工夫。木は根あればすなわち栄え、根壊るればすなわち枯る。魚は水あればすなわち活き、水涸るればすなわち死す。灯は膏あればすなわち明、膏尽くればすなわち滅す。人は真精なり、これを保てばすなわち寿、これを戕えばすなわち夭す。
書き下し
われわれの年寄るというは精力の枯れるの謂である。よし身体が弱り果てるも、心ばかりは老耄たくない。よし老耄ても、愚痴だけはいいたくない。 僕はつねに思うに、庭の樹を見ても年々歳々同じからずして、老行くとともに元気も衰えるが、手入れをしたり、肥料をほどこすと、再び色香を増すを見る。樹そのものは弱りても、その境遇を刷新すれば、甦生するの勢いを顕す。死灰再燃、人も同様、身体が弱れば食物を変えたり、転地療治をしたり、温泉に浴みしたりして健康を回復するが、住居も変えず、居ながらにして心的境遇を一変する方法もあろう。 山深く何か庵を結ぶべき心のうちに身はかくれけり 一身を物的境遇より退かせて、心的境遇に入らしむることも、これまた麒麟老ゆるも駑馬に劣るに至らざる工夫。木は根あればすなわち栄え、根壊るればすなわち枯る。魚は水あればすなわち活き、水涸るればすなわち死す。燈は膏あればすなわち明、膏尽くればすなわち滅す。人は真精なり、これを保てばすなわち寿、これを戕えばすなわち夭す。
現代語訳
私たちが年をとるというのは、精力が枯れるということです。たとえ体が弱り果てても、心だけは老いぼれたくありません。たとえ老いぼれても、愚痴だけは言いたくありません。 私はいつも思うのですが、庭の木を見ても、年々同じではなく、老いるにつれて元気も衰えますが、手入れをしたり肥料をほどこしたりすると、再び色や香りが増します。木そのものは弱っても、その環境を一新すれば、よみがえる勢いを示します。死んだ灰が再び燃えるようなものです。人も同じで、体が弱れば食べ物を変えたり、転地療養をしたり、温泉に入ったりして健康を回復しますが、住まいを変えず、居ながらにして心の環境を一変させる方法もあるでしょう。 「山深く何か庵を結ぶべき心のうちに身はかくれけり」 自分自身を物の環境から退かせて、心の環境に入らせることも、麒麟が老いても駑馬に劣らないようにする工夫です。木は根があれば栄え、根が壊れれば枯れる。魚は水があれば生き、水が涸れれば死ぬ。灯火は油があれば明るく、油が尽きれば消える。人は精気が本質であり、これを保てば長寿を得、これを傷つければ若死にする。
解説

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