自警録 / 第二十一章 潔き感情と正しき思想・我が商人は事業と人情とを混同する(1)
西洋の新聞や雑誌に、しばしば日本の実業家の品性すなわち商業道徳なるものを難じている。われわれとてもいかに讃めたくも、日本の商業道徳を西洋のそれに優るとはいいかねる。否大いに劣ると言わざるをえない。その理由は許多あるが、僕がここで言いたいことは唯一点である。 すなわち日本の実業家はおのれの事業中に感情を揷はさむの欠点あることである。無論よくいえば、冷たい金銭に人情を加えるのであるから、かえって高尚らしくも聞こえるけれども、それは慈善をなすときか、友人を祝うときか、霊前に供うるときのことで、事業のためには、金銭は単に無心無情の器械である。ところがその器械に一種の感情をつけ加えるのがかえって間違いの基となる。失敗すると、失敗の本たりし理由を人格視して、あの金のために祟られたとか、あの機械のために一身を亡ぼしたとか、ついにはこれを供給した人にこの怨を被せ、何の某はあれほど老練であるから、この事業の失敗することはわかっておったろうに、なにゆえおれに出資するとき注意しなかったろうとか、某はおれの性質をよく心得ているに、金だけ貸して一言の忠告しなかったのはひどい。某は大いにわが輩の着手するときに賛成したのを見ると、わが輩の倒るるのを予期して、かえって事あることを心ひそかに喜んでいるであろうとか、某は初めのうちは大いにわが輩に注意を加えて手出しをしないように勧めたが、真にこういう失敗のあることを予期したならば、なぜ、もすこし強く警戒してくれなかったろう。ちょっといい加減に注意するくらいは、かえって不親切である、などの議論はわが輩もしばしば聞いたし、読者も必ず聞いたろう。また、なかには言うた人もあるかも知れぬ。
書き下し
西洋の新聞や雑誌に、しばしば日本の実業家の品性すなわち商業道徳なるものを難じている。われわれとてもいかに讃めたくも、日本の商業道徳を西洋のそれに優るとはいいかねる。否大いに劣ると言わざるをえない。その理由は許多あるが、僕がここで言いたいことは唯一点である。 すなわち日本の実業家はおのれの事業中に感情を揷はさむの欠点あることである。無論よくいえば、冷たい金銭に人情を加えるのであるから、かえって高尚らしくも聞こえるけれども、それは慈善をなすときか、友人を祝うときか、霊前に供うるときのことで、事業のためには、金銭は単に無心無情の器械である。ところがその器械に一種の感情をつけ加えるのがかえって間違いの基となる。失敗すると、失敗の本たりし理由を人格視して、あの金のために祟られたとか、あの機械のために一身を亡ぼしたとか、ついにはこれを供給した人にこの怨を被せ、何の某はあれほど老練であるから、この事業の失敗することはわかっておったろうに、なにゆえおれに出資するとき注意しなかったろうとか、某はおれの性質をよく心得ているに、金だけ貸して一言の忠告しなかったのはひどい。某は大いにわが輩の着手するときに賛成したのを見ると、わが輩の倒るるのを予期して、かえって事あることを心ひそかに喜んでいるであろうとか、某は初めのうちは大いにわが輩に注意を加えて手出しをしないように勧めたが、真にこういう失敗のあることを予期したならば、なぜ、もすこし強く警戒してくれなかったろう。ちょっといい加減に注意するくらいは、かえって不親切である、などの議論はわが輩もしばしば聞いたし、読者も必ず聞いたろう。また、なかには言うた人もあるかも知れぬ。
現代語訳
西洋の新聞や雑誌は、しばしば日本の実業家の品性、すなわち商業道徳を非難しています。私たちとしても、いくらほめたくても、日本の商業道徳が西洋のそれに優るとは言いかねます。いや、大いに劣ると言わざるをえません。その理由は多くありますが、私がここで言いたいのは一点だけです。 それは、日本の実業家は自分の事業の中に感情をはさむ欠点があることです。もちろんよく言えば、冷たい金銭に人情を加えるのですから、かえって高尚に聞こえるかもしれませんが、それは慈善をするときか、友人を祝うときか、霊前に供えるときのことで、事業のためには、金銭はただの無心無情な道具です。ところが、その道具に一種の感情をつけ加えるのが、かえって間違いのもとです。失敗すると、失敗のもとになった理由を人格のように見立てて、あの金に祟られたとか、あの機械のために身を滅ぼしたとか言い、ついにはそれを供給した人にこの恨みをかぶせます。何の某はあれほど老練なのだから、この事業が失敗することは分かっていたろうに、どうして私が出資するときに注意してくれなかったのか、とか、某は私の性質をよく心得ているのに、金だけ貸して一言の忠告もしなかったのはひどい、とか、某は私が着手するときに大いに賛成したのを見ると、私が倒れることを予期して、むしろ事が起こるのを心ひそかに喜んでいるのだろう、とか、某は初めのうちは大いに私に注意して手出しをしないよう勧めたが、本当にこういう失敗があると予期したのなら、なぜもう少し強く警戒してくれなかったのか、いい加減に注意するくらいは、かえって不親切だ、などの議論は、私もたびたび聞きましたし、読者も必ず聞いたことでしょう。また、なかには自分で言った人もいるかもしれません。
解説

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自警録・第二十一章 潔き感情と正しき思想・我が商人は事業と人情とを混同する(2)また事業と感情とを混同する事についていうべきことは、外国ではたとえば注文の日限に品物ができなければ、むろん契約破棄となる。日本とても法律上はそうであるけれども、東西の違うところは、西洋ならばおたがい知人のあいだでも Business is business で、私の交際と取引上のこととは別として考える。日本ではこれに感情をただちに入れるから、ことが縺れてくる。ゆえに前に述べた約束の時期に、品物ができなければ、感情に訴えて申し訳をすることを計る。自分が病気であったとか、あるいは親戚に不幸があったとか、子供が怪我をしたとか、出産したとか、取引にまったく関係なき一家のことをもって、申し訳に供しようとする。 借財の返済も同じことである。もっとも借財が、一家の生計のために借りた金であれば、一家の都合によって返済の能不能も定まることであるから、感情的の理由も通る場合もあまたあろうが、借財が事業のために負ったものならば、一身上あるいは一家上の都合は言うべきものではないと思う。かく入るるべからざるところに、感情を入れるから、人の交際が面白くなくなってしまう。せっかくの親しい友達のあいだが破れることなどもよく目撃することである。
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自警録・第二十一章 潔き感情と正しき思想・感情濫用の弊を撓める必要(1)普通にいう癪に触るとか、虫が好かないとか、はなはだ漠とした言葉をもって、われわれの感情的の作用をいいあらわしているが、この癪、この虫がわれわれ日常の生活をどれほど害しているのか、統計に積もると大したものであろう。 なにかの会合に出席しても、この虫がいなかったならば、有益にかつ愉快に過ごしうるだろう。合理的の事故なくして不愉快に思ったり、途中歩いてもなんの理由なく、見ること聞くことが気に触ったり、家へ帰ってきてもまた同じく一生世を面白くなく渡るのは、とかく詰まらぬことに感情の作用をたくましくするにあることを思えば、われわれは勉めてこの害を矯めるようにせねばならぬと思うが、僕はけっして英米人をそのまま傚って彼の風に化せよとはかつても言ったこともない。また今もなおそういう議論は主張しないけれども、彼らにくらべてわれわれが世渡りするに、少なからず損をしていることは確かである。 善悪正邪はとにかく、損徳の点から打算しても、なんの必要もなきところに、感情を費すことはおろかな業である。僕はかつて精力の貯蓄なる題のもとに、精神の力も貯蓄すべきことを論じたことがあったが、感情の貯蓄についても同じような説をときたい。 ただ読者に誤解なきよう願いたいことは、高尚または有益なる感情をも殺せという意は僕に更にない。すなわちさきに言うた感情を貯蓄せよなる言葉の内に、感情を有することの望ましきを含ましてある積りだが、ただ感情の入って邪魔になるところに、感情を入るるべからずというに過ぎぬので、さきにいった商業家の取引あるいは政治の党派論のごときはもっともその適例と思う。学理あるいは歴史の研究についてはいうまでもない。昔のシナの学者も道心と人心と区別して説いたそうである。道心は人心のその正を得たる心と王陽明は説いたが、正を得るとは、人欲のまざらないところで、つまらぬ感情のなきをいうところであると思う。
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自警録・第十七章 実業を精神化せよ・個人的利益と国家社会の利益(1)僕はこの男とかねてより親しくしている。彼が教会において年に似合わぬほどの信用を受けておるのも、知人はことごとく彼を尊敬することも、かねて承知であるが、数時間に渡って彼の人生観、なかでも貨殖に関する態度を初めて聞き知った。僕が彼の話を聞きながら、言葉がただの一度も社会のためとか、ましていわんや国家のためということに、わたらなかったことがあとで気がついた。 普通日本の実業家であれば、五万足らずの会社を設立するにも、その宣言には、己れの身を犠牲にして、社会に貢献するところあらんとするとか、あるいはこれ実に国家の事業なりとの意をほのめかす者がはなはだ多い。その多いのが必ずしも悪いとわが輩は言わぬ。己れを捨てて社会の利益を図るの望ましきことはいうまでもない。事を為すに国家観念より打算するもはなはだ嘉すべきことである。
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『論語と算盤』実業と士道・果して誰の責任ぞしかるにその因って来る所以を究めずして、いたずらに皮相の観察を下し、一概に日本人の契約観念は不確実である、商業道徳は劣等であると非難するは、あまりに無理であるというより外は無い。かく論ずればとて、余が日本の商業道徳の現在に満足せぬことはもちろんである。とにかく近頃の商工業者の間に、あるいは道徳観念が薄いとか、あるいは自己本位に過ぎるとかいう評を加えられることは、当業者の相互に警戒せねばならぬことではあるまいか。
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『論語と算盤』実業と士道・果して誰の責任ぞ国異なれば道義の観念もまた自ずと異なるものであるから、仔細にその社会の組織風習に鑑み、祖先以来の素養慣習に考え、その国、その社会に適応する所の道徳観念の養成を努めなければならぬものである。一例を挙げれば、「父召せば諾なし、君命じて召せば駕を待たずして行く」とは、すなわち日本人が君父に対する道徳観念である。父が召せば声に応じて起ち、君が命じて召すことあれば、場合を問わずして直ちに自ら赴くとは、古来日本人士の間に自然的に養成されたる一種の習慣性である。しかるにこれを個人本位の西洋主義に比較すれば、その軒輊は非常なもので、西洋人の最も尊重する個人の約束も、君父の前には犠牲としてあえて顧みぬでもよいということになる。日本人は忠君愛国の念に富んだ国民であると称揚される傍から、個人間の約束を尊重せぬとの誹謗を受けるのも、要するにその国固有の習慣性が然らしめたので、我と彼ではその重んずる所のものに差違がある。
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自警録・第十六章 富貴の精神化・物質的米国人と思想的米国人(1)例によって口上が思いのほか長引いたが、先年僕の滞米中諸方の卒業式の演説の中について、最も僕の面白く思ったものは実業的道徳に関するもののはなはだ多い一条である。 誰も言う通り米国は拝金国で、美術も文学も理想もないように言うが、ある程度まではその通りで、米国人みずからもとかく新開の国だけあって唯物主義に陥りはせぬかとみずから虞れている。ゆえに思想家はしばしばこの点について国民に警戒を与える。してその警戒の与え方が大いに我が意を得た。如何となればとかく何事にしても弊害あれば弊害そのもののみを攻撃しないで、それに随伴する事なれば何事によらず攻撃しやすいものである。「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは、また同時に袈裟を憎む者は坊主自身を憎むという弊に陥りやすい。君子はその罪を憎んでその人を憎まずとあるが、かくのごときは君子にして初めてなし得ることで、我々凡夫小人は、罪ならばまだしものこと、いささかの誤りがあっても、誤った人そのものはまだしも彼の親戚友人家屋生国までも憎みやすいものである。折々は学者のうちに高慢ちきな者があると、学者そのものを嫌い、進んでは学問そのものをすら罪する傾向がある。