自警録 / 第十六章 富貴の精神化・物質的米国人と思想的米国人(1)
例によって口上が思いのほか長引いたが、先年僕の滞米中諸方の卒業式の演説の中について、最も僕の面白く思ったものは実業的道徳に関するもののはなはだ多い一条である。 誰も言う通り米国は拝金国で、美術も文学も理想もないように言うが、ある程度まではその通りで、米国人みずからもとかく新開の国だけあって唯物主義に陥りはせぬかとみずから虞れている。ゆえに思想家はしばしばこの点について国民に警戒を与える。してその警戒の与え方が大いに我が意を得た。如何となればとかく何事にしても弊害あれば弊害そのもののみを攻撃しないで、それに随伴する事なれば何事によらず攻撃しやすいものである。「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは、また同時に袈裟を憎む者は坊主自身を憎むという弊に陥りやすい。君子はその罪を憎んでその人を憎まずとあるが、かくのごときは君子にして初めてなし得ることで、我々凡夫小人は、罪ならばまだしものこと、いささかの誤りがあっても、誤った人そのものはまだしも彼の親戚友人家屋生国までも憎みやすいものである。折々は学者のうちに高慢ちきな者があると、学者そのものを嫌い、進んでは学問そのものをすら罪する傾向がある。
書き下し
例によって口上が思いのほか長引いたが、先年僕の滞米中諸方の卒業式の演説の中について、最も僕の面白く思ったものは実業的道徳に関するもののはなはだ多い一条である。 誰も言う通り米国は拝金国で、美術も文学も理想もないように言うが、ある程度まではその通りで、米国人みずからもとかく新開の国だけあって唯物主義に陥りはせぬかとみずから虞れている。ゆえに思想家はしばしばこの点について国民に警戒を与える。してその警戒の与え方が大いに我が意を得た。如何となればとかく何事にしても弊害あれば弊害そのもののみを攻撃しないで、それに随伴する事なれば何事によらず攻撃しやすいものである。「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは、また同時に袈裟を憎む者は坊主自身を憎むという弊に陥りやすい。君子はその罪を憎んでその人を憎まずとあるが、かくのごときは君子にして初めてなし得ることで、我々凡夫小人は、罪ならばまだしものこと、いささかの誤りがあっても、誤った人そのものはまだしも彼の親戚友人家屋生国までも憎みやすいものである。折々は学者のうちに高慢ちきな者があると、学者そのものを嫌い、進んでは学問そのものをすら罪する傾向がある。
現代語訳
例によって前置きが思いのほか長くなったが、先年私がアメリカに滞在中、各地の卒業式の演説のなかで、最も私が面白く思ったのは、実業の道徳に関するものがきわめて多いという一条である。 だれもが言うとおり、アメリカは拝金国で、美術も文学も理想もないように言われるが、ある程度まではそのとおりで、アメリカ人自身も、とかく新開の国であるだけに唯物主義に陥りはしないかと、みずから恐れている。そのため思想家は、しばしばこの点について国民に警告を与える。そしてその警告の与え方が、大いに私の意にかなった。なぜなら、何事でも、弊害があれば弊害そのものだけを攻撃せず、それに付随することなら何でも攻撃しやすいからである。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは、同時に、袈裟を憎む者は坊主自身を憎むという弊害に陥りやすい、ということでもある。君子はその罪を憎んでその人を憎まない、というが、これは君子にして初めてできることで、私たち凡夫小人は、罪ならまだしも、ちょっとした誤りがあっても、誤った人そのものはもちろん、その親戚、友人、家屋、生まれ故郷までも憎みやすいものである。ときには、学者のなかに高慢ちきな者がいると、学者そのものを嫌い、進んでは学問そのものまで罪する傾向がある。
解説

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自警録・第十六章 富貴の精神化・物質的米国人と思想的米国人(2)ことに宗教に関して、この傾向がはなはだしく顕れる。ゆえに実業を重んずる、否重んずるどころではない、実業によって成立する米国においては、むろん金銭を尊び金力を尊重する結果として、不正なる方法によって富を為す者も許多ある。少しく心ある者にして今日社会の状態を見る者は、実業を一纏めに纏めて攻撃の的となし、反動的に太古の仙人生活を主張したり、あるいは私産を破壊して共同主義を唱えたりしやすくなり、またかくのごとくする者は、いかにも精神的なる人物、高潔なる紳士のごとくある社会の一部には持てはやされがちのものである。しかるに常識的に考えるときは、そんな根本的の思想は到底行わるべくもない。また不正なる方法によって富を為す者ありとしても、不正と富とは必ずしも連帯するものではない。不正なる行為は富の外にも行われる。不正なる行為をもって名誉を得る者もある。その代りには律義一色で金を拵える者もある。 ゆえに富貴必ずしも不正ならず、子夏が「富貴天に在り」と言ったのは、意味の取りようによって富貴必ずしも悪と言えず、むしろ天の賜物という意に取れる。袈裟と坊主が必ずしも伴うものじゃない。いわゆる僧にあらざる僧も世には許多ある。またその代りには袈裟を着た俗人もまた多い。「貯めるほど穢ないものは塵と金なり」という諺があるが、これも貯めようによるべし、おそらく塵芥とても貯蔵法よろしきを得たなら、清くする工夫もあろう。黄白に至りては精励克己の報いとして来たるものは決して少なくなかろう。古人の言にあるごとく、 「祖宗の富貴は詩書の中より来たる、祖宗の家業は勤倹の中より来たる」と。 人の立身や家の興るを評するにはよほど注意せねば、とかく羨む心に曳かされて判断を誤りやすい。
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自警録・第十六章 富貴の精神化・富貴は方法なり目的にあらずまた本題に還って卒業式における名士の実業に関する演説をみるに、彼らは富貴の危険を大いに警戒して、巨万の富を積んで己れの霊魂を埋没するなからしめんことを説き、富貴は人生の目的でない、人生の方法なり、補助物なり、人間がその人格を発揮するために道具に用うべきものであるという点に重きを置き、実業や金儲けを今日のごとく物質的の職業とみなさないで、新しき見解を加え新しき精神を吹き込んで実業を精神化すべし、あくまでも人を主として物質を従とすべしと論じた。 実にその通りで、数万の金を蓄えても人の人たることを忘れぬ以上は、金は邪魔にもならぬし、悪用もされぬ。富む者必ず不仁ではない。また不仁のみ富むわけでもない。 従来、英米の人は専門的教育を要する職業すなわち統計学者の自由業と称するものと、専門の知識を要せず常識による実際的の営業とを明らかに区別して、一を profession、一を business と名付けて、もちろん自由業は高尚なものとなし、これに従事している者には社会も相応の尊敬を払って、あるいは官吏あるいは弁護士、教育家、あるいは軍人らのごときは金銭で買うことのできない尊敬を博していた。 しかるにいわゆる business man 実業家なるものは、その業務の目的は金にあるゆえに、ことさら名誉をもって彼らを迎えなかった。これは強ちいずれの政府の方針政策というわけではなかったけれども、かのモンテスキューも説いた通り、金力と名誉とは両立せしむるを不可とするという説が一般に行われておったがためであろう。してこれははなはだ至当なる考えで、俗の世界には素封家はその人物の如何なるを問わず、単に金があるために一種の勢力を有するものである。しかるにこの上になお国家なり社会なりが名誉を付することになったならば、彼らの勢力の増大は制し難きものになるであろう。
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自警録・第二十五章 理想と実現・米国で僕の深く印象された米人の理想過般渡米の日、数多の著名なる人々、いわゆるこの国の思想界の指導者ともいうべき人々に直接あって、その人物に触れ、その思想の一端をうかがうの機会を得て、もっとも僕の心に深き印象を与えたことは思想の力という一条であった。 いわゆる黄金崇拝物質的の米国などと綽名されてあるこの国民が奢侈贅沢の弊害に陥る傾向が割合いに少ない。換言すれば一方には巨万の富を積みながらこれに安んじないで、なんなりこれ以上の、富以上の事業をまっとうせんと努力する気前と精力は、この国民の大いに買ってやるべき気象である。 わが同胞はだいたいにおいて貧乏であるから、富貴の誘惑なるものを知らない。貧乏人が金持を批評することは、とかく見当が違うことが多い。自分で金を持ってみると、金持の心理的作用もその誘惑もよく理解しうると思う。しかして我が国において少しく金を持った人は、多くなにに使うかと、彼らのなすところを米国の金持に較ぶれば、米国人は確かに日本人のいまだ持っておらない思想なるものに動かされておることを察しうる。
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自警録・第十六章 富貴の精神化・弁士の富論アメリカの習慣で羨ましく思うものは、かの大学卒業式を熾にすることである。いったい米国の諸大学は通常卒業式は一年一回で(シカゴ大学のごとく四回ある処もあるけれども)、して大概七月の初旬に行われる。卒業式の順序は、あるいは音楽とか卒業生総代の答辞とか、あるいは卒業生の演説とかいろいろあるが、大学卒業式にして独り当時学校のみならず国民全般にとって重要と思うことは式場における名士の演説である。その演説は翌日新聞に掲載され、某が如何なる問題について如何なる説を吐いたかが全国に行き渡る。ゆえにいずれの大学においても著名の学者あるいは実務家を一名ないし二名招待して式のうちの最も重きものとする。これらの人の選ぶ問題は必ずしも教育に関係しない。政治、外交、経済にわたることもあれば、軍事にわたることもある。歴史を説く者もあれば、未来を卜する者もある。自国の名誉を誇る者あれば、自国の短所を剔く者あり、実に勝手な説を吐いて独り学校卒業生のみならず全体の公衆に訴える。 またこの式場に臨む人は日本の学校のようにただに卒業生に限らず、また親戚に限らず、あるいは十年二十年、中には五十年以前に卒業したなどという人々も昔を偲ぶために出席し、地方の紳士淑女はいうまでもなく、遠方からもわざわざ集い来たる数ははなはだ少なくない。僕は先年の初夏、親しく久しぶりで二、三の卒業式に臨み、かつ他の大学の卒業式の記事を新聞によって知ったが、大学の卒業式の折りは実に米国民の思想の最高点に達した時と言って過言であるまいと思う。いかにその演説が教育に関係するを要しないとても、青年が主賓になっている以上は、招かれる弁士はただ能弁だとか悧口だとかいうだけの資格では足りない。自らその人と為り、その品性を斟酌して招待するからして、演説に自ら重みがついて、時勢遅れの学説もあったり、あるいはあまりに理想に奔って実行出来ぬ空論を述べる者もあろうが、とにかく一年中米国の思想界が最も上品な形に顕れるのはこの時であろう。
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自警録・第十七章 実業を精神化せよ・米国実業家の人生観(1)かつて米国フィラデルフィアにいたころ、資本額二百万円ばかりの中ぐらいな合資会社の社長をしておる四十五、六歳の男と親しく話をする機会があって、いわゆる拝金国の米国の実業家にもかくのごとき考えの者があるか、否一歩進めてこの国の実業家の中に少しく品のよい者は、こういう考えで世を渡る者かと、つくづく感じたことがある。その談話の要領は彼の言葉のままに挙げれば、 「二十年以来の知人のことであるから、君もいくらか察しられているだろうが、僕は大学の教育も受けず、幼少の時から会社に入って、今日までで三十ヵ年にもなる。その間、社務にあくせくしているのと、かつ視力の許さぬがために読書もできず、また美術の趣味を涵養することもなく、すこぶる乾燥無味な人間になり果てて、朝から晩まで事業々々とばかり心がけて年を送った。その代りには僕が社長になってからわずか五、六年にしかならんけれども、事業の発展についてはいくらか見るべきところもある。今は四ヵ所に工場も起こし、販売係は諸所に出張さしており、配当もこの国においてはまず相当と思うだけのこともして、有難いことにはこの市内の銀行ならば僕の手紙でいくらでも金を出してくれるだけになっている。
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自警録・第二十一章 潔き感情と正しき思想・我が商人は事業と人情とを混同する(1)西洋の新聞や雑誌に、しばしば日本の実業家の品性すなわち商業道徳なるものを難じている。われわれとてもいかに讃めたくも、日本の商業道徳を西洋のそれに優るとはいいかねる。否大いに劣ると言わざるをえない。その理由は許多あるが、僕がここで言いたいことは唯一点である。 すなわち日本の実業家はおのれの事業中に感情を揷はさむの欠点あることである。無論よくいえば、冷たい金銭に人情を加えるのであるから、かえって高尚らしくも聞こえるけれども、それは慈善をなすときか、友人を祝うときか、霊前に供うるときのことで、事業のためには、金銭は単に無心無情の器械である。ところがその器械に一種の感情をつけ加えるのがかえって間違いの基となる。失敗すると、失敗の本たりし理由を人格視して、あの金のために祟られたとか、あの機械のために一身を亡ぼしたとか、ついにはこれを供給した人にこの怨を被せ、何の某はあれほど老練であるから、この事業の失敗することはわかっておったろうに、なにゆえおれに出資するとき注意しなかったろうとか、某はおれの性質をよく心得ているに、金だけ貸して一言の忠告しなかったのはひどい。某は大いにわが輩の着手するときに賛成したのを見ると、わが輩の倒るるのを予期して、かえって事あることを心ひそかに喜んでいるであろうとか、某は初めのうちは大いにわが輩に注意を加えて手出しをしないように勧めたが、真にこういう失敗のあることを予期したならば、なぜ、もすこし強く警戒してくれなかったろう。ちょっといい加減に注意するくらいは、かえって不親切である、などの議論はわが輩もしばしば聞いたし、読者も必ず聞いたろう。また、なかには言うた人もあるかも知れぬ。