自警録 / 第十九章 言葉の心・名は命名者の心を表わす(1)
『荘子』に「名は実の賓なり」とあるごとく、実は主にして名は客である。言葉も同じく考えの賓、思想の客なりといいうると思う。一方に名などどうでもよいではないかという人があれば、また一方には人は名によりて吉凶ありとて、ことに近ごろ姓名判断など盛んに流行る。しかし名と実とが相伴わねば、とかく誤りをきたしやすいから、名はできうるだけ明らかにしておくに若くはない。 これははなはだ着実な議論であるが、さらに一歩を進めて高い見地よりみれば、老子の言うごとく、名の名とすべきは常の名にあらずである。言語の用は思想を確実に、意志を明らかにさえすれば事が足る。遊ばせ言葉は暇つぶしでかつ煩わしい。言葉はなるべく簡略なるがよいというのも無理ならぬ説なれども、僕の考えでは名も言葉も自ら物や思想の実を現すだけで用の足るものでない。二つながらこれを用うる人の心のさまを言い現すものであると思う。すなわち名であれ言葉であれ、客観的のものを言い現すに止まらで、これを用うる人の心持ちを示すものである。古人の曰く「言者身之文也」と。日本の諺にも「言葉は立居をあらわす」というが、これはただ品や育ちを現すとの意でない、心持ちを知らすの意である。 僕の知れる老人に滑稽趣味に饒なものがあった。封建時代には従者や出入りの者に勝手に新しき名をつけることは普通であったから、この老人もまた種々な名を出入りの者どもにつけた。かつて彼が使っていた若者を冷しながら、
書き下し
『荘子』に「名は実の賓なり」とあるごとく、実は主にして名は客である。言葉も同じく考えの賓、思想の客なりといいうると思う。一方に名などどうでもよいではないかという人があれば、また一方には人は名によりて吉凶ありとて、ことに近ごろ姓名判断など盛んに流行る。しかし名と実とが相伴わねば、とかく誤りをきたしやすいから、名はできうるだけ明らかにしておくに若くはない。 これははなはだ着実な議論であるが、さらに一歩を進めて高い見地よりみれば、老子の言うごとく、名の名とすべきは常の名にあらずである。言語の用は思想を確実に、意志を明らかにさえすれば事が足る。遊ばせ言葉は暇つぶしでかつ煩わしい。言葉はなるべく簡略なるがよいというのも無理ならぬ説なれども、僕の考えでは名も言葉も自ら物や思想の実を現すだけで用の足るものでない。二つながらこれを用うる人の心のさまを言い現すものであると思う。すなわち名であれ言葉であれ、客観的のものを言い現すに止まらで、これを用うる人の心持ちを示すものである。古人の曰く「言者身之文也」と。日本の諺にも「言葉は立居をあらわす」というが、これはただ品や育ちを現すとの意でない、心持ちを知らすの意である。 僕の知れる老人に滑稽趣味に饒なものがあった。封建時代には従者や出入りの者に勝手に新しき名をつけることは普通であったから、この老人もまた種々な名を出入りの者どもにつけた。かつて彼が使っていた若者を冷しながら、
現代語訳
『荘子』に「名は実の客である」とあるように、実が主であり、名は客です。言葉も同じように、考えの客、思想の客だと言えると思います。一方では、名などどうでもよいではないかという人がいますが、また一方では、人は名によって吉凶があるといって、とくに近ごろは姓名判断などが盛んにはやっています。しかし、名と実が伴わなければ、とかく誤りを招きやすいので、名はできるだけ明らかにしておくのがよいでしょう。 これはたいへん堅実な議論ですが、さらに一歩進めて高い見地から見れば、老子の言うように、名として名づけうる名は、常の名ではありません。言語の働きは、思想を確かにし、意志を明らかにすれば足ります。もったいぶった言葉遣いは暇つぶしで、しかも煩わしい。言葉はなるべく簡略がよいという説も、もっともなことです。しかし私の考えでは、名も言葉も、ただ物や思想の実を表しただけでは足りません。そのどちらも、これを使う人の心のありさまを言い表すものだと思います。つまり、名であれ言葉であれ、客観的なものを言い表すにとどまらず、それを使う人の心持ちを示すのです。古人は言いました。「言は身の文なり」と。日本の諺にも「言葉は立居をあらわす」とありますが、これはただ品位や育ちを表すという意味ではなく、心持ちを知らせるという意味です。 私の知っている老人に、滑稽趣味の豊かな人がいました。封建時代には従者や出入りの者に、勝手に新しい名をつけることが普通でしたから、この老人もさまざまな名を出入りの者たちにつけました。あるとき、彼が使っていた若者をからかいながら、
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
自警録・第十九章 言葉の心・名は命名者の心を表わす(2)「貴様が笑うときの顔はまるで猿のようだ。これから姓名を改めてはどうだ」 といい、真面目になって猿嘉という命名書を与えた。爾来この若者はこの姓を用いしのみならず、その子孫は今なお猿嘉氏を称している。また老人の親戚中に耳がはなはだ小さなものがあったので、彼はその人のために新たに半耳と命名したという。これらの命名は客観的にその人々の特徴を言い現したものだといえば、名は体をあらわすといわれる、いわゆる名詮自性とやらである。しかし若者某のごときは、ただ笑うとき猿に似たからとて、そればかりが彼の特徴でもあるまい。おそらく他にも種々な特徴があったろうと推量する。彼が怒る時は鰐のごとく、酔った時は河童のごとく、しかして睡った時は仏顔であったかも知れぬ。また半耳君にしても然りである。彼は耳に異状がありしとするも、口なり鼻なり業平をしのぐほどの形をしていたかも知れぬ。 しかるにこの老人が彼らに命名した時は、ことさら悪い特徴をふざけて指摘したのである。彼らを取扱うに冷評的態度をもってすると、好意をもって善良なる特徴を選ぶのとは、非常なる相違を生ずる。もし好意をもってすれば、猿だとか、耳朶が半分だなどいう特徴の一端を挙げずに、愉快なる印象を与うるがごとき名をつけうることも必ずできる。ゆえに僕は言いたい、名は実を示すというよりも、命名者の心を現すものであると。
-
自警録・第十九章 言葉の心・心から湧き出たものが真の言葉用言などは意さえ通ずれば、どうでもよきようなものの、悪意をもって用うれば、いかなる善言美語も不愉快の感を与える。ゆえに言葉などはどうでもいいという人は、まず心を善くせよとの前提がなくてはならぬ。『聖書』に「心に充ち溢れて言葉となる」とあるが、心から湧き出たものがまことの言葉である。 言の葉の声に心のあらはれてやさしき人の底井知らるゝ 僕は先に同一事実を別語で語りうるといったが、それと同じように同一言語をもって正反対の心を現すこともできる。婉曲巧妙なる言葉の下に骨を銷することもできる。言葉などどうでもよいというは、心に比ぶればはなはだ軽少なりとの意でなく、心そのものを無視して言語はどうでもよいと言い、厭味たっぷりの文句や人を陥れる言い振り、人に無礼する語を用いることはなはだ慎むべきことである。僕自身が田舎生まれではなはだ不謹慎の語を用いること多きゆえ、一層このことを感じ、また世には僕みたような人もあるだろうと思い、所感の一端を述べたのである。
-
言志四録・言志耋録 第二百六条 名は実の賓なり人皆実は重く名は軽しと謂ふ。固より然り。然れども名も亦容易ならず。其の実の賓為るを以てなり。賓賢なれば則ち主の賢推すべし。
-
自警録・第十九章 言葉の心・言葉はこれを用いる人の心を表す(1)用語においてはなおさらである。これは何人でも経験あることであろう。同一の人を評するに敵意をもってすると好意をもってするとはその結果において実に雲泥の差がある。優れた人を評するにつけても、 「あの男はエライ」という者あり、 「エラそうだ」というもあり、また、 「エラぶる」というもある。 「まるい鶏卵も切りようで四角」。 「物も言いようで角が立つ」。 俗に「糞も味噌も一緒にする」というが、味噌を見て糞のようだというのと、糞を見て味噌のようだというのとは、その人の態度に大差あるを証明する。ゆえに同じことを言うにまったく別な言葉を用いてよいこともある。 たとえばここに笑みを含んで話するものがあるとすれば、甲はこれを、 「巧言令色の人、阿諛謟佞の人」 と評するし、乙は、 「よいぐあいに世渡りする上手者、愛嬌を振りまく八方美人」 という。また丙は、 「真に人に接して城壁を設けず一視同仁的の愛情の深い人だ」という。 いま甲と丙との批評を聞くと、同じ人を評しているものとは思われぬ。乙の批評を聞くにおよび、親戚関係でもある人かという疑問が起こる。同一の人にしても甲乙丙の見ようによりてはかくのごとき差異を生ずる。またここに人あり他の質問に応じて充分に説明するときは、甲は、彼はものしり顔して少しばかりの学問を衒うと評し、乙は、彼はちょっとひと通りはものをしっているようだが、だいぶ得意になって話すると言い、丙は、彼は我々の質問に対し懇切によく説明してくれたと謝する。同じ人の同じ説明でさえも、聞く人によりてかくのごとき異なった感情を受くる。
-
『列子』楊朱篇鬻子曰く、名を去る者は憂い無し、と。老子曰く、名は實の賓なり、と。而るに悠悠たる者は名に趨りて已まず。名は固より去るべからざるか、名は固より賓とすべからざるか。今名有れば則ち尊榮、名亡ければ則ち卑辱なり。尊榮なれば則ち逸樂、卑辱なれば則ち憂苦なり。憂苦は、性を犯す者なり。逸樂は、性に順う者なり。斯れ實の係る所なり。名胡ぞ去るべけんや。名胡ぞ賓とすべけんや。但だ夫の名を守りて實を累わすを惡むのみ。名を守りて實を累わさば、將に危亡の救われざるを恤えんとす。豈に徒だ逸樂憂苦の間ならんや、と。
-
『翁問答』下卷之末之末夫名は実の賓と云て、其心に思ひ身に行ふ実あれば、即ち其名あるものなり、例へば実は形なり名は影なり、善を思ひ善をおこなへば善の名あり、堯舜孔顔など是なり、悪をおもひ悪を行へば悪の名あり、桀紂盗跖などこれなり、善をこのみ悪をにくむは人心秉彝の本然なる故に善名をほめたつとび悪名をにくみきらふは、万古のつねなり、しかるによつて生付いさぎよき士は、其名たかくあらはし誉をとらん事をこのめり、其心根善をこのみ悪をにくむ秉彝の本然にちかくて、利欲にけがれてきたなき凡夫にくらぶれば一位まさりたれ共、明徳あきらかならず、真妄本末のわきまへをしらず、風俗のあやまりに習そまりて、或は本をすてゝ末を専とし、或は真をそむきて妄をとるゆへに、その心根の始は善をこのみ悪をにくむ秉彝の本性に似たれとも、却本心をくらまし性命をそこなふ人欲のわづらひとなれり、利欲と名の欲とは清濁かはりありといへども、天性をそこなひやぶり不孝莫太の罪におちいる事はかりなるによつて、名と利の欲を牛角にきらひてかちさるものなり、