自警録 / 第十九章 言葉の心・名は命名者の心を表わす(2)
「貴様が笑うときの顔はまるで猿のようだ。これから姓名を改めてはどうだ」 といい、真面目になって猿嘉という命名書を与えた。爾来この若者はこの姓を用いしのみならず、その子孫は今なお猿嘉氏を称している。また老人の親戚中に耳がはなはだ小さなものがあったので、彼はその人のために新たに半耳と命名したという。これらの命名は客観的にその人々の特徴を言い現したものだといえば、名は体をあらわすといわれる、いわゆる名詮自性とやらである。しかし若者某のごときは、ただ笑うとき猿に似たからとて、そればかりが彼の特徴でもあるまい。おそらく他にも種々な特徴があったろうと推量する。彼が怒る時は鰐のごとく、酔った時は河童のごとく、しかして睡った時は仏顔であったかも知れぬ。また半耳君にしても然りである。彼は耳に異状がありしとするも、口なり鼻なり業平をしのぐほどの形をしていたかも知れぬ。 しかるにこの老人が彼らに命名した時は、ことさら悪い特徴をふざけて指摘したのである。彼らを取扱うに冷評的態度をもってすると、好意をもって善良なる特徴を選ぶのとは、非常なる相違を生ずる。もし好意をもってすれば、猿だとか、耳朶が半分だなどいう特徴の一端を挙げずに、愉快なる印象を与うるがごとき名をつけうることも必ずできる。ゆえに僕は言いたい、名は実を示すというよりも、命名者の心を現すものであると。
書き下し
「貴様が笑うときの顔はまるで猿のようだ。これから姓名を改めてはどうだ」 といい、真面目になって猿嘉という命名書を与えた。爾来この若者はこの姓を用いしのみならず、その子孫は今なお猿嘉氏を称している。また老人の親戚中に耳がはなはだ小さなものがあったので、彼はその人のために新たに半耳と命名したという。これらの命名は客観的にその人々の特徴を言い現したものだといえば、名は体をあらわすといわれる、いわゆる名詮自性とやらである。しかし若者某のごときは、ただ笑うとき猿に似たからとて、そればかりが彼の特徴でもあるまい。おそらく他にも種々な特徴があったろうと推量する。彼が怒る時は鰐のごとく、酔った時は河童のごとく、しかして睡った時は仏顔であったかも知れぬ。また半耳君にしても然りである。彼は耳に異状がありしとするも、口なり鼻なり業平をしのぐほどの形をしていたかも知れぬ。 しかるにこの老人が彼らに命名した時は、ことさら悪い特徴をふざけて指摘したのである。彼らを取扱うに冷評的態度をもってすると、好意をもって善良なる特徴を選ぶのとは、非常なる相違を生ずる。もし好意をもってすれば、猿だとか、耳朶が半分だなどいう特徴の一端を挙げずに、愉快なる印象を与うるがごとき名をつけうることも必ずできる。ゆえに僕は言いたい、名は実を示すというよりも、命名者の心を現すものであると。
現代語訳
「おまえが笑うときの顔は、まるで猿のようだ。これから名を改めたらどうだ」 と言い、真面目な顔で、猿嘉という命名書を与えました。それ以来、この若者はこの姓を使っただけでなく、その子孫は今でも猿嘉氏を名乗っています。また、老人の親戚の中に、耳がたいへん小さな人がいたので、彼はその人のために新たに半耳と命名したそうです。これらの命名は、客観的にその人々の特徴を言い表したものだと言えば、名は体を表す、いわゆる名詮自性ということでしょう。しかし若者のほうは、ただ笑うとき猿に似ているからといって、それだけが彼の特徴でもないでしょう。おそらくほかにもいろいろな特徴があったと推量します。彼は怒るときは鰐のようで、酔ったときは河童のようで、眠ったときは仏の顔だったかもしれません。半耳君にしても同じです。彼は耳に異常があったとしても、口なり鼻なり、在原業平にも負けないほどの美しい形をしていたかもしれません。 ところが、この老人が彼らに命名したときは、わざと悪い特徴をふざけて指摘したのです。人を扱うのに冷やかしの態度でするか、好意をもって善い特徴を選ぶかでは、非常な違いが生じます。もし好意をもってすれば、猿だとか耳が半分だとかいう特徴の一端を挙げずに、愉快な印象を与えるような名をつけることもきっとできたはずです。だから私は言いたいのです。名は実を示すというよりも、命名者の心を表すものだと。
解説

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自警録・第十九章 言葉の心・名は命名者の心を表わす(1)『荘子』に「名は実の賓なり」とあるごとく、実は主にして名は客である。言葉も同じく考えの賓、思想の客なりといいうると思う。一方に名などどうでもよいではないかという人があれば、また一方には人は名によりて吉凶ありとて、ことに近ごろ姓名判断など盛んに流行る。しかし名と実とが相伴わねば、とかく誤りをきたしやすいから、名はできうるだけ明らかにしておくに若くはない。 これははなはだ着実な議論であるが、さらに一歩を進めて高い見地よりみれば、老子の言うごとく、名の名とすべきは常の名にあらずである。言語の用は思想を確実に、意志を明らかにさえすれば事が足る。遊ばせ言葉は暇つぶしでかつ煩わしい。言葉はなるべく簡略なるがよいというのも無理ならぬ説なれども、僕の考えでは名も言葉も自ら物や思想の実を現すだけで用の足るものでない。二つながらこれを用うる人の心のさまを言い現すものであると思う。すなわち名であれ言葉であれ、客観的のものを言い現すに止まらで、これを用うる人の心持ちを示すものである。古人の曰く「言者身之文也」と。日本の諺にも「言葉は立居をあらわす」というが、これはただ品や育ちを現すとの意でない、心持ちを知らすの意である。 僕の知れる老人に滑稽趣味に饒なものがあった。封建時代には従者や出入りの者に勝手に新しき名をつけることは普通であったから、この老人もまた種々な名を出入りの者どもにつけた。かつて彼が使っていた若者を冷しながら、
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自警録・第十九章 言葉の心・言葉はこれを用いる人の心を表す(1)用語においてはなおさらである。これは何人でも経験あることであろう。同一の人を評するに敵意をもってすると好意をもってするとはその結果において実に雲泥の差がある。優れた人を評するにつけても、 「あの男はエライ」という者あり、 「エラそうだ」というもあり、また、 「エラぶる」というもある。 「まるい鶏卵も切りようで四角」。 「物も言いようで角が立つ」。 俗に「糞も味噌も一緒にする」というが、味噌を見て糞のようだというのと、糞を見て味噌のようだというのとは、その人の態度に大差あるを証明する。ゆえに同じことを言うにまったく別な言葉を用いてよいこともある。 たとえばここに笑みを含んで話するものがあるとすれば、甲はこれを、 「巧言令色の人、阿諛謟佞の人」 と評するし、乙は、 「よいぐあいに世渡りする上手者、愛嬌を振りまく八方美人」 という。また丙は、 「真に人に接して城壁を設けず一視同仁的の愛情の深い人だ」という。 いま甲と丙との批評を聞くと、同じ人を評しているものとは思われぬ。乙の批評を聞くにおよび、親戚関係でもある人かという疑問が起こる。同一の人にしても甲乙丙の見ようによりてはかくのごとき差異を生ずる。またここに人あり他の質問に応じて充分に説明するときは、甲は、彼はものしり顔して少しばかりの学問を衒うと評し、乙は、彼はちょっとひと通りはものをしっているようだが、だいぶ得意になって話すると言い、丙は、彼は我々の質問に対し懇切によく説明してくれたと謝する。同じ人の同じ説明でさえも、聞く人によりてかくのごとき異なった感情を受くる。
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自警録・第十九章 言葉の心・言葉はこれを用いる人の心を表す(2)こういう例をあげきたれば、何人にもまた何事についても必ずおびただしくある。また僕はかくのごとき例を多くあげたいと思う。なんとなれば読者中には甲か乙かあるいは丙かに属する人あり、自分でおのれは甲に属し、おのれは乙に属すると考うる人もあろう。ちょっと茶一杯飲むにしても、こんなまずい茶をよくも恥かしげもなく出せたものだ。この家の主人はずうずうしい恥知らずのけちんぼなりと謗る人もあれば、あるいはわれわれがちょっと来るたびごとに五円、六円の玉露を出す必要はない、彼は「戊申詔書」のご趣意をよく奉ずる、感心な乃木式の人なりと讃める人もある。 また昔時シナの妃が庭園を散歩し、桃の熟したのを食い、味の余りに美なりしに感じ、独りこれを食うに忍びず、食い残しの半分を皇帝に捧げ、その愛情の深きを賞せられ、寵愛いよいよ厚きを加えたが、その後妃の寵衰えたとき、かつて食い残した品を捧げた無礼の件によりて罰せられたという。寸分異ならぬ同一事実のものでも、見ようによりては褒めることもできれば、誹しることもできる。賞することも罰することもでき、殺すことも活かすこともできる。同じことも見聞する人により霄壤の差を生ずる。
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『玉勝間』十四の巻 今の世人の名の事近き世の人の名には、名に似つかわしからぬ字をつく事多し。又、すべて名の訓は、世の常ならぬが多きうちに、近き頃の名には、殊にあやしき字、あやしき訓有りて、いかにとも訓み難きぞ多く見ゆる。すべて名は、いかにも安らかなる文字の、訓のよく知られたるこそ善けれ。これに名と云うは、いわゆる名乗り実名なり。某右衛門某兵衛の類いの名の事にはあらず。さて又その人の性と云う物にあわせて、名をつくるは、云うにも足らぬ、愚かなるならいなり。すべて人に、火性水性など、性と云う事は、更に無き事なり。又名のもじの、反切と云う事をえらぶも、いと愚かなり。反切と云うものは、ただ字の音をさとさむ料にこそ有れ、いかでかは人の名、これにあずからむ。
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