自警録 / 第十五章 逆上を警む・前二例より帰納する感情の危険
もちろんただ上記の二つの例をもって、米国には社会党の騒ぎもなく、政治上の腐敗もなく、自治の精神が完全無欠に発達しているというは僕の意ではない。実際かの大会においても、拳骨の撲り合いが会場の戸口で二、三度あったというし、またボストンの公園地における会合も、僕の去ったのちで巡査が来て解散したかも知れない。あるいは議論が次第に高じて来て、罵詈讒謗に終ったかも知れない。あらゆる犯罪の多い米国のことであるから、数百の人の集まったときには随分不体裁はあり得ることである。して不体裁なことのみをならべ立てようと思えば、それもはなはだ容易なわざだと思う。しかるにたびたび言うとおり僕は他山の瓦礫を捕え来たって、自国の璞玉に比してみずから快とするの愚なることを信ずるから、常に他山の石を藉りて自分の玉を磨くの用に供したいと思う。 そこで今まで述べたシカゴの大会とボストンの公園の集会を見て、我が同胞とともに顧みたいことは、一時の激昂に駆られて事をなすを慎むべき一点である。なに事をなすにも感情を交えることは危険である。むろん感情と一口に言っても高尚な感情もあるが、言うまでもなく今述べる感情は一時の客気である。とかくこの客気血気があれば考えに誤りを生じやすい。一口に熱心などと称するからよく聞こえるが、思慮のない熱心ほど己れを害し人を害するものはない。ややもすると世の中ではほとんど目的もなく騒ぎ散らすをもって、熱心があるとか、気象がさかんだとか、あるいは勇敢だとか、痛快だなどと称する。しかし熱心勇敢の気象などというものは、いわば馬みたいなもので、御する人があればこそその方向に進んで行くが、御する者なければその向く処を知らない、狂人と同然である。発狂人の多くは勇気あり熱心あり気象の旺であるのであるが、惜しいかな心を守り、気を抑える力がないのである。古人の曰く、 「この心を敬守すれば則ち心定まる、その気を斂抑すれば則ち気平かなり」と。
書き下し
もちろんただ上記の二つの例をもって、米国には社会党の騒ぎもなく、政治上の腐敗もなく、自治の精神が完全無欠に発達しているというは僕の意ではない。実際かの大会においても、拳骨の撲り合いが会場の戸口で二、三度あったというし、またボストンの公園地における会合も、僕の去ったのちで巡査が来て解散したかも知れない。あるいは議論が次第に高じて来て、罵詈讒謗に終ったかも知れない。あらゆる犯罪の多い米国のことであるから、数百の人の集まったときには随分不体裁はあり得ることである。して不体裁なことのみをならべ立てようと思えば、それもはなはだ容易なわざだと思う。しかるにたびたび言うとおり僕は他山の瓦礫を捕え来たって、自国の璞玉に比してみずから快とするの愚なることを信ずるから、常に他山の石を藉りて自分の玉を磨くの用に供したいと思う。 そこで今まで述べたシカゴの大会とボストンの公園の集会を見て、我が同胞とともに顧みたいことは、一時の激昂に駆られて事をなすを慎むべき一点である。なに事をなすにも感情を交えることは危険である。むろん感情と一口に言っても高尚な感情もあるが、言うまでもなく今述べる感情は一時の客気である。とかくこの客気血気があれば考えに誤りを生じやすい。一口に熱心などと称するからよく聞こえるが、思慮のない熱心ほど己れを害し人を害するものはない。ややもすると世の中ではほとんど目的もなく騒ぎ散らすをもって、熱心があるとか、気象がさかんだとか、あるいは勇敢だとか、痛快だなどと称する。しかし熱心勇敢の気象などというものは、いわば馬みたいなもので、御する人があればこそその方向に進んで行くが、御する者なければその向く処を知らない、狂人と同然である。発狂人の多くは勇気あり熱心あり気象の旺であるのであるが、惜しいかな心を守り、気を抑える力がないのである。古人の曰く、 「この心を敬守すれば則ち心定まる、その気を斂抑すれば則ち気平かなり」と。
現代語訳
もちろん、ただ上に挙げた二つの例をもって、アメリカには社会党の騒ぎもなく、政治上の腐敗もなく、自治の精神が完全無欠に発達していると言うのが私の意ではない。実際、あの大会でも、拳骨の殴り合いが会場の入口で二、三度あったというし、またボストンの公園の集会も、私が去ったあとで巡査が来て解散させたかもしれない。あるいは議論がだんだん高じて、罵詈雑言に終わったかもしれない。あらゆる犯罪の多いアメリカのことだから、数百人が集まったときには、ずいぶん不体裁なことはあり得る。そして、不体裁なことばかりを並べ立てようと思えば、それもきわめて容易なことだと思う。しかし、たびたび言うとおり、私は他山の瓦礫を拾ってきて、自国の璞玉と比べて、みずから愉快がることの愚かさを信じているから、常に他山の石を借りて自分の玉を磨くのに役立てたいと思う。 そこで、これまで述べたシカゴの大会とボストンの公園の集会を見て、同胞とともに顧みたいことは、一時の激情に駆られて事をなすのを慎むべきだという一点である。何をするにも、感情を交えることは危険である。もちろん、感情といっても高尚な感情もあるが、言うまでもなく、今述べる感情は一時の客気である。とかくこの客気や血気があると、考えを誤りやすい。一口に熱心などと称するからよく聞こえるが、思慮のない熱心ほど己れを害し人を害するものはない。ともすると世の中では、ほとんど目的もなく騒ぎ散らすことをもって、熱心があるとか、気性がさかんだとか、勇敢だとか、痛快だなどと称する。しかし、熱心や勇敢な気性などというものは、いわば馬のようなもので、御する人がいてこそその方向に進んで行くが、御する者がいなければ、どこへ向かうかわからない、狂人と同然である。発狂する人の多くは勇気があり、熱心があり、気性が盛んであるのだが、惜しいことに、心を守り、気を抑える力がないのである。昔の人は言った。 「この心を慎み守れば、心は定まる。その気を収め抑えれば、気は平らかになる」と。
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
自警録・第十五章 逆上を警む・ボストン公園に見た言論の自由(2)「小学校の二年級をやりなおせ」 とか、 「ジジイ、おいぼれやがったナ」 くらいの罵詈は必ず聞こえるであろうと、つくづく物思いに沈みながら、この群集を去って旅館に帰ろうとすると、同じ公園のむこう側に二、三百人もあろうかと思わるる群集がかたまっておったから、かたわらの青年に、むこうの群集は何をしているかとたずねると、 「あれですか、あれは社会党の人たちです。今日は日曜日なもんですから、大勢集まっているんです」 とはなはだ尋常茶飯事のごとき口調で答えた。これが日本ならいろいろな嫌疑も受けるであろうが、自由の天地は違うと思いながら、僕はそのほうに足を運んだ。すると二、三百人の連中は一かたまりになっていないで、二十人ないし五十人ぐらいずつ別々に群っている。いずれも先の地理学新説の鼓吹者と同じように、談話的に互いの説を交換し合っている。 いずれの群集を見ても少しも激しているものはない。大言する者もなく、哂り嗤う者もない。すこぶる真面目でさながら親の大病の診断を医者から聞いているような顔つきであった。僕も三、四十分のあいだ甲群から乙群、丙群から丁群と彷徨して、その様子を窺ったが、かたわらに巡査がいるでなし、しかもボストンのコンモンスといえば、市街の中央にしてかつマサチューセッツ州の州庁の鼻の先である。この時も先に述べたる共和党の大会と同じく、容易に逆上せぬこの国民にして初めて言論の自由も思想の自由も享有すべきものと思った。
-
自警録・第二十一章 潔き感情と正しき思想・感情濫用の弊を撓める必要(1)普通にいう癪に触るとか、虫が好かないとか、はなはだ漠とした言葉をもって、われわれの感情的の作用をいいあらわしているが、この癪、この虫がわれわれ日常の生活をどれほど害しているのか、統計に積もると大したものであろう。 なにかの会合に出席しても、この虫がいなかったならば、有益にかつ愉快に過ごしうるだろう。合理的の事故なくして不愉快に思ったり、途中歩いてもなんの理由なく、見ること聞くことが気に触ったり、家へ帰ってきてもまた同じく一生世を面白くなく渡るのは、とかく詰まらぬことに感情の作用をたくましくするにあることを思えば、われわれは勉めてこの害を矯めるようにせねばならぬと思うが、僕はけっして英米人をそのまま傚って彼の風に化せよとはかつても言ったこともない。また今もなおそういう議論は主張しないけれども、彼らにくらべてわれわれが世渡りするに、少なからず損をしていることは確かである。 善悪正邪はとにかく、損徳の点から打算しても、なんの必要もなきところに、感情を費すことはおろかな業である。僕はかつて精力の貯蓄なる題のもとに、精神の力も貯蓄すべきことを論じたことがあったが、感情の貯蓄についても同じような説をときたい。 ただ読者に誤解なきよう願いたいことは、高尚または有益なる感情をも殺せという意は僕に更にない。すなわちさきに言うた感情を貯蓄せよなる言葉の内に、感情を有することの望ましきを含ましてある積りだが、ただ感情の入って邪魔になるところに、感情を入るるべからずというに過ぎぬので、さきにいった商業家の取引あるいは政治の党派論のごときはもっともその適例と思う。学理あるいは歴史の研究についてはいうまでもない。昔のシナの学者も道心と人心と区別して説いたそうである。道心は人心のその正を得たる心と王陽明は説いたが、正を得るとは、人欲のまざらないところで、つまらぬ感情のなきをいうところであると思う。
-
自警録・第十五章 逆上を警む・つまらぬ事に逆上する国民的弱点(1)先を見ずにその場にて一時の快を貪る極めて短慮な者には、内容のさらにない雄弁を揮ってみたり、あるいは大声一喝、相手の人には痛くもない讒謗や冷評を浴せかけて、ドラマチックに喝采を受けて嬉しがるは我が国民性の一弱点である。言葉をかえて言うと、物にノボセ上がる、逆上する性質がはなはだ我が同胞の間には広がっていると思う。ゆえに何か大きな響のよい言葉を用いれば、己れを忘れて飛び上がる連中がはなはだ少なくない。たとえば仁義のために死するとか、国家の責任を双肩に担って立つとか、邦家のためには一身を顧みず、知遇のためには命を堕すとか、その他数多くの catchword のためにその用語の内容や真の意味を一時忘れる者がはなはだ多いのみならず、一身の上についても、実に詰まらぬことに逆上する傾向が多いことを目撃もし、また恥ずかしながら自分が経験したことがたくさんある。
-
自警録・第十六章 富貴の精神化・物質的米国人と思想的米国人(1)例によって口上が思いのほか長引いたが、先年僕の滞米中諸方の卒業式の演説の中について、最も僕の面白く思ったものは実業的道徳に関するもののはなはだ多い一条である。 誰も言う通り米国は拝金国で、美術も文学も理想もないように言うが、ある程度まではその通りで、米国人みずからもとかく新開の国だけあって唯物主義に陥りはせぬかとみずから虞れている。ゆえに思想家はしばしばこの点について国民に警戒を与える。してその警戒の与え方が大いに我が意を得た。如何となればとかく何事にしても弊害あれば弊害そのもののみを攻撃しないで、それに随伴する事なれば何事によらず攻撃しやすいものである。「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」というのは、また同時に袈裟を憎む者は坊主自身を憎むという弊に陥りやすい。君子はその罪を憎んでその人を憎まずとあるが、かくのごときは君子にして初めてなし得ることで、我々凡夫小人は、罪ならばまだしものこと、いささかの誤りがあっても、誤った人そのものはまだしも彼の親戚友人家屋生国までも憎みやすいものである。折々は学者のうちに高慢ちきな者があると、学者そのものを嫌い、進んでは学問そのものをすら罪する傾向がある。
-
自警録・第二十一章 潔き感情と正しき思想・感情濫用の弊を撓める必要(2)すなわち客観的に冷静にものの理を求むる心である。これに反し、人心とは道心のその正を失ったところで、我田引水的に勝手しだいの理屈を案ずる心理動作で、自己の感情によりて万事を判断する心である。自己の希望がものの理と符合すればよいが、なかなかそう甘くゆくことが少ないから、結局感情に駆られて為すことは、理に背くこととなりやすい。 さらに注意したきは、友人あるいは会合において討論するさいなどには、一層この点に注意しないと正々堂々たる議論はそっちのけになって、人身攻撃のごとき、あるいは卑怯なる言葉に陥って、自己が弁護せんとする議題をもかえって損われ、加うるにおのれの人品まで下劣にすることは往々にして見ることである。理屈において負けたならば、一本参ったと綺麗に敗ければ男らしくもあり、かえって自分の主張に泥をつけないものとなるに、おのれの議論が弱いときには、その弁護に感情を含まして、みすぼらしい論法など振りまわす。よし皮肉をもって一時勝利を得るにしても、その実は敵に敗けたものである。 ことを論ずるにあたり、悪口雑言をはさむのは、理は尽きて、自己の主張の論拠のなきを自白すると同然である、つまり負けた証拠にほかならぬ。思想と議論はあくまでも冷静たるを要す。また実行と性情はあくまでも熱烈たるべし。ことにあたるに果断なくてはならぬが、その果断も一時的感情より来たるものは誤りやすいから、思慮の上にも思慮をめぐらして、定めねばならぬ。「果断義より来たる者あり、智より来たる者あり、勇より来たる者あり。義と智を併せて而して来たる者あるは上なり。徒らに勇のみなる者殆し」
-
自警録・第二十一章 潔き感情と正しき思想・大統領改選に現れたる米人の感情と思想米国においては四年ごとに大統領の改選が行われる。一期ごとに選挙はさかんになり、党派もふえる。したがって候補者の数も増すために、世人の議論がなかなかやかましくなる。一家のうちでも二つに割れ三つに割れているところさえもある。 しかるに彼らの論ずるところを傍で聞くと、地質学者が化石を科学的に攻究するごとき調子がある。甲の候補者はかくのごとき長所があるから、よろしく選挙すべしというと、乙の候補者の特長は、甲に対してこう勝るとか、あるいは彼らのたがいの短所がどこにあるとか、すこぶる冷淡に論じて、たまたま議論が極端に走って、容易ならぬ結果に陥るかと思えば、政治論はそれだけで、他の点において親しく談話をする様子は、わが国においてはなかなか見えないことで、このことは独り政治にのみ関してしかるわけではない。日々の事業について、実業家がその職業を営むにつけても同じこと、おのれが損したからとて、みだりにその罪を他人にかぶせるようなことはない。むろんそのかわり大いに成功したからとて、他人に感謝する感情もないように見受ける。