自警録 / 第十四章 報酬以上の務め・愉快なる台湾旅行中の不快
しばしば台湾を旅行するに、その進歩の顕著なるに驚く。昨年は宿屋もなく、道路も悪く、旅行に不便であったところが、今年は大いに改良され、車も通ずれば旅館もできるという風で、台湾の旅といえば、難儀とのみ思うが、実は年々その観を改めつつある。俗諺にもある、 「可愛い子には旅をさせよ」 というは、旅は辛い、難儀である、可愛い子にはこの辛苦を甞めさせ、鍛錬させよとの意味である。英語の旅行 travel という字は、もと travail すなわち辛苦という字より起こったとかねて耳にし、東西人の旅に対する観念の一致せることを面白く思うが、今日は旅行ほど愉快なものはなくなり、児童は見学に出かけ、老人は保養に行き、壮者は新婚旅行する。 台湾の旅行も愉快であるが、その趣は他の旅行とちがっている。従来、台湾に一種の興味を有し、年々渡台するものは、行く度ごとにその進歩が著しいから、旅行に肉体的安楽はなくとも、精神的にその進歩の速度を見て愉快とする。しかし強いて何か不愉快はなきやと尋ねらるれば、やはり往昔、東海道を旅行した人が、雲助のために迷惑を受けた――程度は違うにしても――と同じように、轎夫が分からぬことをいって賃銭を強請ったり、この旦那は重いとか、荷が多いとか、轎の中で動いて困るとか、雨が降るとか、橋がないから御免とか、その時々に応じて種々の苦情を持ち出すことである。言語が通ぜぬから、手真似や顔色やにて不快の念を表すが多い。これが一番不愉快に感ずることである。
書き下し
しばしば台湾を旅行するに、その進歩の顕著なるに驚く。昨年は宿屋もなく、道路も悪く、旅行に不便であったところが、今年は大いに改良され、車も通ずれば旅館もできるという風で、台湾の旅といえば、難儀とのみ思うが、実は年々その観を改めつつある。俗諺にもある、 「可愛い子には旅をさせよ」 というは、旅は辛い、難儀である、可愛い子にはこの辛苦を甞めさせ、鍛錬させよとの意味である。英語の旅行 travel という字は、もと travail すなわち辛苦という字より起こったとかねて耳にし、東西人の旅に対する観念の一致せることを面白く思うが、今日は旅行ほど愉快なものはなくなり、児童は見学に出かけ、老人は保養に行き、壮者は新婚旅行する。 台湾の旅行も愉快であるが、その趣は他の旅行とちがっている。従来、台湾に一種の興味を有し、年々渡台するものは、行く度ごとにその進歩が著しいから、旅行に肉体的安楽はなくとも、精神的にその進歩の速度を見て愉快とする。しかし強いて何か不愉快はなきやと尋ねらるれば、やはり往昔、東海道を旅行した人が、雲助のために迷惑を受けた――程度は違うにしても――と同じように、轎夫が分からぬことをいって賃銭を強請ったり、この旦那は重いとか、荷が多いとか、轎の中で動いて困るとか、雨が降るとか、橋がないから御免とか、その時々に応じて種々の苦情を持ち出すことである。言語が通ぜぬから、手真似や顔色やにて不快の念を表すが多い。これが一番不愉快に感ずることである。
現代語訳
私はたびたび台湾を旅行しますが、その進歩の著しいのに驚きます。昨年は宿屋もなく、道路も悪く、旅行に不便だったところが、今年は大いに改良され、車も通じ、旅館もできるという具合で、台湾の旅といえば難儀とばかり思いがちですが、実は年々その様子を改めつつあります。俗諺にも、 「可愛い子には旅をさせよ」 というのは、旅は辛く難儀なもので、可愛い子にはこの辛苦を味わわせ、鍛錬させよという意味です。英語の旅行 travel という字は、もと travail、すなわち辛苦という字から起こったとかねて聞き、東西の人の旅に対する観念が一致していることをおもしろく思いますが、今日では旅行ほど愉快なものはなくなり、児童は見学に出かけ、老人は保養に行き、壮年の者は新婚旅行をします。 台湾の旅行も愉快ですが、その趣は他の旅行とは違っています。従来、台湾に一種の興味を持ち、毎年渡台する者は、行くたびにその進歩が著しいので、旅行に肉体的な安楽はなくても、精神的にその進歩の速度を見て愉快とします。しかし、あえて何か不愉快なことはないかと尋ねられれば、やはり昔、東海道を旅行した人が雲助に迷惑を受けたのと同じ(程度は違いますが)、轎夫が分からないことを言って賃銭を強請ったり、この旦那は重いとか、荷物が多いとか、轎の中で動いて困るとか、雨が降るとか、橋がないから御免だとか、そのときどきに応じて、さまざまな苦情を持ち出すことです。言葉が通じないので、手まねや顔色で不快の念を表すことが多い。これが一番不愉快に感じることです。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・余のために轎を担いだ壮丁の好意中国式の轎は不潔ではあるが、読書することもできれば、眠ることもできて、僕には最も都合よいが、轎夫のがやがや騒ぐために大いに楽しみの程度を低められる。ことに天気が不良の場合に、轎夫が絶対に働かないで、途中に轎を置き去りすることがある。これは独り台湾においてのみならず、朝鮮にもあると聞くが、その不快と心細さといったらない。 しかるに数年前、僕は台湾旅行の際同じ場合に逢って、行くにも帰るにも動きのつかなかったことがある。警官に依頼し轎夫の雇入を命令的に誘導的に周旋してもらったが、しばしは一人の応ずるものもなく、雨曝しになって進退谷まった。この時、村の青年が三、四人、みずから進み出て、 「私どもが担ぎましょう。もっとも轎夫としては御免ですが、壮丁としてなら参りましょう」 といった。というは、轎夫として担げば、相当の賃銭を受ける一つの商売である。しかし壮丁として行くのは公利公益のために力を尽すのである。職業として轎を担うのでなく、また賃銭を要求するためでもない。したがって仮りに賃銭を払われてもこれを受くるをいさぎよしとせぬ。ただ官職を帯びて巡廻するものが、轎夫なきために一歩も進めなくては公務のために憂うべきことである。ゆえに公務のために自分らの労力を提供したのである。 かかることはどこでも稀なることである。台湾においてもまた稀であるから、ことに強く僕の感激を惹起こさしめた。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・報酬を求むる手段としての務僕の知れる某貴夫人はすこぶる高潔なる家庭に人となり、貞淑をもって称せられているが、あるとき僕に、 「世間の人は芸妓をたいそう卑しみ、悪く言いますが、私は芸妓よりも卑しいものが、今の貴夫人に多くあるかと思います。芸妓はお世辞を売品とし、彼方此方に振りまき、柔しいことをいうて、その報酬にポチを貰おうとするが、彼らは明さまにこれをその職業に表していることゆえ、さらに驚くに足りません。欺される人は、招牌見ないで店に飛び込むようなもので、商品が違っていたら、それは自分が悪かったのであります。貴夫人などは貞操を招牌にかけ、むろんポチだの報酬だのを夫より受くべきはずはないが、しかし随分それを強請ろうと思い、衣服を買って貰いたいがために、心にもないことを夫に述べて目的を遂げる人があります。この点にいたっては芸妓よりも多く人を欺くもので、神仏の目より見たら、恐らくは芸妓よりはるかに劣ったものと思われましょう」 といわれたが、なになにの報酬を得るがために、事を為すくらい卑しいことはない。貴夫人と言い、学校の教師と言い、はたまた会社員でも官吏でも、月給を得んがために、礼を貰わんがために、ボーナスに与からんがために、その他なんらかのためにする手段として職務に従事することは、絶対的に悪いとまで行かずとも、決してこれで足るものとは思われぬ。世の中は聖人君子の集会でない、否、十人中九人までは小人である。与うるに利をもってするは道徳上非難すべきも、実際世の中を渡るには止むを得ざることとして、互いにその積りで無言の約束を結んだも同然であれば、あながちそれだけを非難すべきでないが、しかしある職務にあるものは、それ以上の事をなす心得を常に持ちたい。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・かかる心がけがあって人生の旅は幸福建物を建築するに、出来方は同じように出来ても、作っている間に、ある所では技師職工にいたるまで面白く快く仕事すると、他の一方には軋轢を生じ同僚を擲れとか、某がこんなことをいったとか、酒を飲ませなければ不平を起こして仕事ができぬとかいって従事するのとでは、出来上りにおいて大いにちがう。「細工は流々、仕上を御覧」というが、物件ならば、できた仕事で用にたつが、人間はそうはいかぬ。細工する間の心持ちが大切である。左甚五郎は恐らく仕上ばかりに苦心したのでなく、細工しているあいだも精神を籠めたればこそ、その霊魂が彫刻物にも移ったのであろう。 人世のことは何事にかかわらず微妙なる精神的作用があって、始めて自分の目的が達せられる。かかる事にはかくのごとき方法でやれば足れると見絞り、単に物質的方法のみによって目的が遂げられるというのでは足らぬ。個々の仕事なら、それでよいかも知らぬが、人世の目的という大きな考えは、決して意識なく機械的に動くばかりでは、その目的を達し得ぬ。価値なき仕事に目をつけねばならぬ。英語に value という字がある。近ごろの経済学者はこれを価値と訳し、これに less を加うれば価なきもの、二束三文の価もない、つまらぬものという意になる。しかるに物の価は price と称し、学者の価格と訳するものである。これは less を加えれば前例によれば価なきもの、つまらぬもののように聞こゆるが、その実意味は正反対でとても金銭に換算の出来ぬもの、あまり貴くして金銭に見積もれぬものとの意である。 最初に掲げたローエルの神のみ価なしに得られるというは、神は金銭で買うことが出来ぬというのである。前にいった轎夫の賃銭は金銭で計算されるが、壮丁の僕に対する好意は金銭をもって換算できぬものである。しかしてこれが一番貴重なる務めである。こういう価なしに務めるものがあればこそ、旅行中にも雨曝しの難を免れる。こういう心がけのものが多ければ多きほど、人生なる旅路は真の快楽幸福を増すものである。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・報酬的思想なき夫婦の関係人と人との交際に趣味のあるのとないのとは、金銭や物件で差引勘定の出来ないところにある。いわゆる商売以外のところにある。しばしばいうことだが、世の中は法治国である、法律で治まるというものもあるが、世の中は法律だけで治まるものでない。法律以外の関係があればこそ、人間らしい生活が出来る。 英国の一紳士にしてながく日本に滞在し、日本の婦人を妻とせる人がすこぶる日本贔屓で、種々の著述もして日本を世界に紹介した。さて数年前、有力なる某外人が外国の有力な新聞に一書を寄せて、外国人と日本人との雑婚を論難し、中にもっぱら夫婦間の法律上の不備ある点を述べて、財産の監理権あるいは遺産に関する条文を説いたに対して、この紳士が答えて長文を寄せた。 その最後の句において今まで述べたことは某に対する法律論に過ぎぬが、「他の人はいざ知らず、余が日本の婦人を妻とする理由は男女同権論とか財産権が如何とか、こういう水臭い関係より偕老の契りを結べるにあらず、夫婦間の関係は法律以外に属するものが多い。法律関係をまっとうするために同棲するものは真の夫婦にあらず」と。 この言を味わうと夫婦間の親密とか貞操なるものは、自分ら以外の者のほとんど知るべからざるものである。その間の務めは報酬なしに、あるいは法律観念なしに行われる、すなわち温かき愛情より溢れ出たもので、朝夕この間の関係をまっとうせんがために、こうすれば法に触れる、ああすれば「民法」何条に差支えないかといっていれば、一家存在の基礎がどうなるであろう。またよしかくのごとく冷淡に法律的制裁のみによりて動くほどに堕落しなくとも、夫婦間に報酬的思想をもって交あったとしたら、その間にいかなる社会が出来るであろうか。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・職業に当たる人の三段の区別元来いかなる職業にありても、これに当たる人に三段の区別がある。報酬だけの仕事をせぬすなわち曠職の人。次は報酬に値するだけの務めする人、いくら気づいたことがあっても、それ以上のことを為さず、また気づかずに馬車馬的に自分の命ぜられたこと以上には出来ぬ人。第三は報酬以上のことを為す人である。しかるに世の中を渡るには、報酬以上の仕事を為す心がけがなければ、報酬だけの仕事は出来ぬと思う。すなわち金を払っても出来ないくらいの仕事を為すものにあらざれば、払った金も多過ぎるように思う。 たとえばここにある会社の社長が、新たに五十円の給料で一人の書記を雇ったとする。この書記の給料は五十円が相当とは何人が定めるか、いかなる標準によりて決せられるか、いかにしてこの人の職務が五十円と定められるかと尋ねれば、その標準ははなはだ漠として当てにならぬ。なんとなれば同級生が若干で某所に務めているから若干というのが普通の標準であって、個人々々の特長の有無のごとき問題は計算に入れぬ。経済学者に言わすれば、これ需要供給の然らしむるところと、大雑把に一言で解決するであろうが、これを個人々々の場合に当て嵌めると、人の問題は死んだ物件の需要供給とは大いに異う。 苟くも人格を有するものには、経済学の教える労銀論は決して当を得たとはいわれぬことが多い。ことに使われる人は、その不当なることを適切に感ずるから、世の中の不満は多くこの点より起こる。 「僕は彼と同じく見られて困る」 とか、 「彼らの仲間と同等視されては迷惑である」 とかいうことはしばしば聞くところである。 また自分の長所はいっそうこれを過大に吹聴したがるものがある。自分の学力は某と同じであるが、自分の字は子供のときより妙に褒められたといって筆蹟を誇り、あるいは自分の交際術においては、彼らに比べられては困る、硬骨なる点においては彼らに負けぬ、従順なる点においては決して彼らに劣らぬと、各自がその特長とするところをいっそう多く吹聴し、したがって高値に他に売らんとする考えがある。
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自警録・第十四章 報酬以上の務め・報瓊の志(1)『詩経』に、 「我に投ずるに木瓜を以てせば、之に報ゆるに瓊琚を以てせん」と。 瓊も琚も、玉の名である。人が我に贈るに、つまらぬ物をもってするなら、我は彼に与うるに貴重なる品をもってすべしとの意で、かえって出来難きことながら、この句は世を渡るに常に心得べきことである。 折々新聞に伝えられる某学者は何千円の俸給を取るが、毎日教場に臨み授業するとき、たまたま生徒が何か質問をすると、それはむずかしい、字引を引いてもちょっと分かるまい、俺が解いてやってもよいが、しかしそれは俺の月給では勿体ない問題である。俺以上の月給取りでも、きっと分からぬだろう。俺の月給が三千円となれば答えるという。 これは一場の戯談に過ぎぬが、ともかくそういう考えが何人にもある。もちろん今述べたごとく、露骨なる形式に現れなくとも、如何ほど地位ある人にも起こり得る思想である。しかし何事を為すにも報酬だけの仕事をする考えでは、つまり仕事する人の全部が仕事に入っていないで、ただその人の一部、しかも劣等なる一部なる欲が入っているのだから、出来上ったときには何らかの欠点が感ぜられる。よく世間でいうことに、「欲と二人で挊ぐ」というが、報酬のみを得る考えのものは、二人挊ぐのでなく、いわば欲のみ挊いで自分は何もせぬようなものである。