自警録 / 第十二章 人生表裏の判断・表裏に善悪の区別を付する誤解
しかるに表裏という言葉を用うると、とかく従来の習慣に捉われ、表は善く、裏は悪きものと解し、ただちに是非、曲直、善悪の区別をこれに結びつけ、物の見方人の見方を誤ることが多い。しかも裏といえばきっとなにか穢い物なり悪き物なりを隠蔽してあるものとみなす。また陽といえばよかれ陰といえば気味悪く思うもあれども、はたして事物に陰陽の差があるものならば、両者の間の差は性質の差にして善悪、曲直の差ではあるまい。 実際世間の慣わしとしてはいかにも表門をりっぱにし裏門を粗末にする。表門は大いに飾り裏門はみすぼらしくしてあるが、さりとてこれがためにその家の主人が偽君子なりと判断するは酷に過ぎたる批評である。表門と裏門とに区別を設くるは世の風俗である。ゆえにたとえ裏門を立派に造り得るだけの余裕ある人でも、かえって習慣に遠慮して粗末に造るのである。かつ習慣のみならず、人を迎うるは表門よりするゆえ、客に対する礼としても表門を立派にすることは当然の事である。 表裏を区別するは必ずしも道徳的意味を付すべきものであるまい。否区別を設けぬことこそ不道徳といわれるのではあるまいか。日々得意先を回る魚屋、八百屋、豆腐屋の人々の中に裏門を通用する際、かく粗末なる木戸をくぐらすは我々を侮辱するなりと憤る民主主義の人もあるまい。またたまたまかかる人がありとするも、主人側は彼らを侮辱する意志はむろん毫末もない。むしろこういう人々のためにかえって便利なりと思えばこそ門を粗末に造ったのである。板台を担い笊を携えて出入する者が一々門番に誰何され、あるいは門を出入するごとに鄭重に挨拶されるようになれば、商売は煩くなりはせぬか。むしろ彼らの便利を標準とすれば簡便なる裏門を設け、面倒な礼を省くのが相互の便利とするのではあるまいか。
書き下し
しかるに表裏という言葉を用うると、とかく従来の習慣に捉われ、表は善く、裏は悪きものと解し、ただちに是非、曲直、善悪の区別をこれに結びつけ、物の見方人の見方を誤ることが多い。しかも裏といえばきっとなにか穢い物なり悪き物なりを隠蔽してあるものとみなす。また陽といえばよかれ陰といえば気味悪く思うもあれども、はたして事物に陰陽の差があるものならば、両者の間の差は性質の差にして善悪、曲直の差ではあるまい。 実際世間の慣わしとしてはいかにも表門をりっぱにし裏門を粗末にする。表門は大いに飾り裏門はみすぼらしくしてあるが、さりとてこれがためにその家の主人が偽君子なりと判断するは酷に過ぎたる批評である。表門と裏門とに区別を設くるは世の風俗である。ゆえにたとえ裏門を立派に造り得るだけの余裕ある人でも、かえって習慣に遠慮して粗末に造るのである。かつ習慣のみならず、人を迎うるは表門よりするゆえ、客に対する礼としても表門を立派にすることは当然の事である。 表裏を区別するは必ずしも道徳的意味を付すべきものであるまい。否区別を設けぬことこそ不道徳といわれるのではあるまいか。日々得意先を回る魚屋、八百屋、豆腐屋の人々の中に裏門を通用する際、かく粗末なる木戸をくぐらすは我々を侮辱するなりと憤る民主主義の人もあるまい。またたまたまかかる人がありとするも、主人側は彼らを侮辱する意志はむろん毫末もない。むしろこういう人々のためにかえって便利なりと思えばこそ門を粗末に造ったのである。板台を担い笊を携えて出入する者が一々門番に誰何され、あるいは門を出入するごとに鄭重に挨拶されるようになれば、商売は煩くなりはせぬか。むしろ彼らの便利を標準とすれば簡便なる裏門を設け、面倒な礼を省くのが相互の便利とするのではあるまいか。
現代語訳
ところが、表裏という言葉を使うと、とかく従来の習慣にとらわれて、表は善く裏は悪いものと解釈し、すぐに是非、曲直、善悪の区別をそれに結びつけて、物の見方、人の見方を誤ることが多くなります。しかも、裏といえば、きっと何か汚いものや悪いものを隠してあるとみなします。また、陽といえばよいもの、陰といえば気味が悪いと思う人もいますが、もし事物に陰陽の差があるのなら、両者の間の差は性質の差であって、善悪や曲直の差ではないでしょう。 実際、世間の慣わしとしては、たしかに表門を立派にして、裏門は粗末にします。表門は大いに飾り、裏門はみすぼらしくしてありますが、だからといってその家の主人を偽君子だと判断するのは、酷にすぎる批評です。表門と裏門に区別を設けるのは世の風俗です。ですから、たとえ裏門を立派に造れるだけの余裕のある人でも、かえって習慣に遠慮して粗末に造るのです。しかも習慣だけでなく、客を迎えるのは表門からですから、客に対する礼としても、表門を立派にするのは当然のことです。 表裏を区別することは、必ずしも道徳的な意味を付けるべきものではないでしょう。むしろ、区別を設けないことこそ不道徳といわれるのではないでしょうか。毎日得意先を回る魚屋、八百屋、豆腐屋の人びとの中で、裏門を通る際に、こんな粗末な木戸をくぐらせるのは我々への侮辱だと憤る民主主義の人はいないでしょう。たまたまそんな人がいたとしても、主人の側に彼らを侮辱する意志は、もちろん少しもありません。むしろこうした人びとにとってかえって便利だと思えばこそ、門を粗末に造ったのです。板台をかつぎ、ざるを持って出入りする者が、いちいち門番に誰何されたり、門を出入りするたびに丁重にあいさつされたりするようになれば、商売は煩わしくなりはしませんか。彼らの便利を基準にすれば、簡便な裏門を設けて、面倒な礼を省くのが、お互いの便利になるのではないでしょうか。
解説

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