自警録 / 第十二章 人生表裏の判断・表と裏とは物の存立条件
人生の言葉はとかく相対的になる。たとえ思想は絶対的であっても、これを言葉に発するときには、思想の上も下も、前も後も、表も裏も、ことごとく同時に言い現すことは出来ぬ。それゆえに口外に放つ言語が、胸中で考えることと正反対の意味にとられることも間々ある。私は花が好きですといっても、聞く人によりてはこれを悪意に解し、華美を好むという印象を受けるものもあり、はなはだしきは物いう花と早合点する人さえある。言葉尻を捉えたり揚足を取る人ならば、花を好むというは、「戊申詔書」の華を去り実に就くというご趣旨に反く、違勅の逆臣なりなどいうこともあろう。世の中には実際この筆法をもって人を罪せんとするものがたくさんある。 また普通に甘党といえばいわゆる下戸を指し、酒を好まぬことを意味するのであるが、実際社会においては両刀遣いする人もあり、甘党であると同時にまた酒を呑む、上戸下戸を兼ぬる人は決して少なくない。こういう例を挙ぐれば限りなきも、僕のここに述べたき要点は、人がある言葉を用うれば、ただちにその反対の意味を排除するものでないことを説くのである。 およそいかなる物でも物として表裏なきものはあるまい。いかに薄き平面にても苟くも実物である以上は必ず表と裏とがある。表裏なき表面は、ただ幾何学上に現れた理想的の形たるにとどまる。幾何学上に称する点や線などは大きさなきものと説いてあるが、しかし針の尖でさえも一分一厘の何分の一というように必ず量り得る大きさを有するものである。線にしてもまた長さのみありて巾なしというは、幾何学上の理想たるにとどまり、実際目に見ゆるものであれば、必ず計り得るものである。ましてある面積を有する平面を備うるものは必ず両面がある。雁皮紙のごとき薄い紙でも表裏はある。綿衣、袷はいうまでもなく、単衣さえも表裏がある。独り衣服のみに限らず一家においても表もあれば裏もある。人体においても表と裏とがあって脊と胸とになっている。ゆえに表裏はあらゆる物の存立の必要条件なることは、あたかもなにごとにも内外の区別あると同然であって、むかしの人はなにものによらず必ず陰陽の二様に考えたると同じであると思う。
書き下し
人生の言葉はとかく相対的になる。たとえ思想は絶対的であっても、これを言葉に発するときには、思想の上も下も、前も後も、表も裏も、ことごとく同時に言い現すことは出来ぬ。それゆえに口外に放つ言語が、胸中で考えることと正反対の意味にとられることも間々ある。私は花が好きですといっても、聞く人によりてはこれを悪意に解し、華美を好むという印象を受けるものもあり、はなはだしきは物いう花と早合点する人さえある。言葉尻を捉えたり揚足を取る人ならば、花を好むというは、「戊申詔書」の華を去り実に就くというご趣旨に反く、違勅の逆臣なりなどいうこともあろう。世の中には実際この筆法をもって人を罪せんとするものがたくさんある。 また普通に甘党といえばいわゆる下戸を指し、酒を好まぬことを意味するのであるが、実際社会においては両刀遣いする人もあり、甘党であると同時にまた酒を呑む、上戸下戸を兼ぬる人は決して少なくない。こういう例を挙ぐれば限りなきも、僕のここに述べたき要点は、人がある言葉を用うれば、ただちにその反対の意味を排除するものでないことを説くのである。 およそいかなる物でも物として表裏なきものはあるまい。いかに薄き平面にても苟くも実物である以上は必ず表と裏とがある。表裏なき表面は、ただ幾何学上に現れた理想的の形たるにとどまる。幾何学上に称する点や線などは大きさなきものと説いてあるが、しかし針の尖でさえも一分一厘の何分の一というように必ず量り得る大きさを有するものである。線にしてもまた長さのみありて巾なしというは、幾何学上の理想たるにとどまり、実際目に見ゆるものであれば、必ず計り得るものである。ましてある面積を有する平面を備うるものは必ず両面がある。雁皮紙のごとき薄い紙でも表裏はある。綿衣、袷はいうまでもなく、単衣さえも表裏がある。独り衣服のみに限らず一家においても表もあれば裏もある。人体においても表と裏とがあって脊と胸とになっている。ゆえに表裏はあらゆる物の存立の必要条件なることは、あたかもなにごとにも内外の区別あると同然であって、むかしの人はなにものによらず必ず陰陽の二様に考えたると同じであると思う。
現代語訳
人生の言葉は、とかく相対的になります。たとえ思想は絶対的であっても、それを言葉にするときには、思想の上も下も、前も後ろも、表も裏も、すべてを同時に言い表すことはできません。そのため、口に出した言葉が、胸の中で考えていることと正反対の意味にとられることもしばしばあります。私は花が好きですと言っても、聞く人によっては悪意に解釈して、華美を好むという印象を受ける人もいますし、はなはだしいのは、ものを言う花(美人)のことと早合点する人さえいます。言葉じりをとらえたり、揚げ足をとったりする人なら、花を好むというのは、戊申詔書の「華を去り実に就く」というご趣旨に背く、勅命違反の逆臣だ、などと言うこともあるでしょう。世の中には、実際にこうしたやり方で人を罪に陥れようとする者がたくさんいます。 また、普通に甘党といえば下戸、つまり酒を好まないことを意味しますが、実際の社会では両刀使いもあり、甘党であると同時に酒も飲む、上戸と下戸を兼ねた人は決して少なくありません。こうした例を挙げれば限りがありませんが、私がここで述べたい要点は、人がある言葉を使ったからといって、すぐにその反対の意味を排除するわけではない、ということです。 およそどんなものでも、物である以上、表裏のないものはないでしょう。どんなに薄い平面でも、実物である以上は必ず表と裏があります。表裏のない面は、ただ幾何学の上に現れた理想の形にとどまります。幾何学でいう点や線は大きさのないものと説かれますが、針の先でさえ、一分一厘の何分の一というように、必ず測ることのできる大きさがあります。線にしても、長さだけあって幅がないというのは幾何学上の理想にとどまり、実際に目に見えるものであれば、必ず測れます。まして一定の面積を持つ平面なら、必ず両面があります。雁皮紙のような薄い紙にも表裏はあります。綿入れや袷はいうまでもなく、単衣でさえ表裏があります。衣服だけではなく、一家にも表もあれば裏もあります。人の体にも表と裏があって、背と胸になっています。だから、表裏はあらゆる物が存在するための必要条件であって、何事にも内外の区別があるのと同じです。昔の人が、何ごとも必ず陰陽の二つで考えたのと同じだと思います。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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自警録・第十二章 人生表裏の判断・表裏に善悪の区別を付する誤解しかるに表裏という言葉を用うると、とかく従来の習慣に捉われ、表は善く、裏は悪きものと解し、ただちに是非、曲直、善悪の区別をこれに結びつけ、物の見方人の見方を誤ることが多い。しかも裏といえばきっとなにか穢い物なり悪き物なりを隠蔽してあるものとみなす。また陽といえばよかれ陰といえば気味悪く思うもあれども、はたして事物に陰陽の差があるものならば、両者の間の差は性質の差にして善悪、曲直の差ではあるまい。 実際世間の慣わしとしてはいかにも表門をりっぱにし裏門を粗末にする。表門は大いに飾り裏門はみすぼらしくしてあるが、さりとてこれがためにその家の主人が偽君子なりと判断するは酷に過ぎたる批評である。表門と裏門とに区別を設くるは世の風俗である。ゆえにたとえ裏門を立派に造り得るだけの余裕ある人でも、かえって習慣に遠慮して粗末に造るのである。かつ習慣のみならず、人を迎うるは表門よりするゆえ、客に対する礼としても表門を立派にすることは当然の事である。 表裏を区別するは必ずしも道徳的意味を付すべきものであるまい。否区別を設けぬことこそ不道徳といわれるのではあるまいか。日々得意先を回る魚屋、八百屋、豆腐屋の人々の中に裏門を通用する際、かく粗末なる木戸をくぐらすは我々を侮辱するなりと憤る民主主義の人もあるまい。またたまたまかかる人がありとするも、主人側は彼らを侮辱する意志はむろん毫末もない。むしろこういう人々のためにかえって便利なりと思えばこそ門を粗末に造ったのである。板台を担い笊を携えて出入する者が一々門番に誰何され、あるいは門を出入するごとに鄭重に挨拶されるようになれば、商売は煩くなりはせぬか。むしろ彼らの便利を標準とすれば簡便なる裏門を設け、面倒な礼を省くのが相互の便利とするのではあるまいか。
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自警録・第十二章 人生表裏の判断・人の性質上の表裏しからば表は礼儀、裏は礼を省いた意味とし、家にあるときも、裏でなく表でいたとしたらどうであろう。聖賢と言わるる人は家にありて、言葉遣いも苟くもせず、「男女七歳にして席を同じゅうせず」の主義で、七歳以上は自分の娘でも同座せず、しかして早朝より裃をつけて四角四面に端座しているか。かくのごとき人がはたして理想の人であろうか、かかる人を父とした者は真に不憫なものであり、また父たるその人もゆるりと寛ぐ場所も時間もなく、さなきだに重荷を荷う人生において、かかる態度は重荷の上にがらくた荷を一層積むようなものである。礼儀正しきは人生の表なりとせば、裏は無礼不儀なりとは言われぬ。裏は礼を略し儀式を除くに過ぎない。 人の性質においてもまた同じような表裏がある。しかしてこの人となりの表裏は、他の事柄と異って、一も二もなく卑しきもののように思われる。あの男は表裏があるという一言にて、他の事を聞くまでもなく、あてにならぬ偽君子なりと解せられる。これは文字の使いようがかかる意味になりしまでにて、僕も文字の用法を改めよと主張するわけではないが、人の性質には道徳的意味のほかに表裏あることを記憶せねばならぬと思う。 我々は友人中に時々新しき事実を発見して驚くことがある。たとえば無骨一偏の人と思った者にして、案外にも美音を発して追分を唄う、これも一つの表裏ではあるまいか。また髯もやもやの鹿爪らしき爺が娘の結婚の席上で舞を舞いて祝うことがある。無骨一偏の者が測らぬ時に優しき歌を詠うとか、石部金吉と思われた者に艶聞があるとか、いずれも人生の表裏であるまいか。しかしこれあるは決して矛盾でない、あるこそ当然である。またこれあるところに人生の興味が深いのである。すなわちある意味においてこの類の表裏ならば奨励したいくらいなものである。
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自警録・第十二章 人生表裏の判断・人生に表裏あるはむしろ当然人間の生計あるいは生活あるいは品行においていわゆる表裏(ことにいわゆるなる文字を使うことに注意を促したい)あるは、一家の門に表裏の両者があると同じ事情の場合がたくさんある。僕は決していかなる場合においても表裏の存在は止むを得ぬといって、これを奨励せんとする意ではないが、攻撃的に表裏々々と非難する中には、往々にして非難に値せぬものがある。むしろ表裏あるのが当然で、表裏なければはなはだしく自己および他人に迷惑を与うることもあると思う。たとえば日常の生活について見るに、家族のみで食事するならば塩物と香の物ぐらいで済まされるが、突然の来客でもあれば、急に刺身とか茶碗蒸しとかを注文する。これは生計上の表裏ではないか。 また家庭にありて一家団欒している際は、寒ければ綿袍を着ても用が足り、主人も気楽なれば細君も衣服の節倹なりと喜ぶが、ふと客があれば急に紋付に取替える。これも生活上における表裏の一つではないか。かく時に応じてその態度を改むることは、強いて偽君子の行為といわんよりは、むしろ世上における普通の礼である。表裏の区別を全然無視せんとて、会社なり役所なりに出勤するに綿袍を着て行き、夏の日に真裸で行くものはあるまい。かくのごときは物に表裏あることを弁えぬので、かえって世の秩序を紊すものである。 世にはとかく、天真爛漫などと称し、世に行わるる作法に反するをもって快しとするものがある。かかる人は我は表裏なしと誇り、無礼な挙動を振舞って得意がるが、これは表は善で、裏は悪なりという前提に捉われたるより起こる誤解であって、幽明の区別を論ずる者が、幽とか暗とか称すれば、それだけで悪感をいだき、明といえばそれだけで善良と信ずるに等しい。しかし暗夜は暗夜の徳あって、孟子のいわゆる「夜気」は暗黒の賜である。古の学者の言に、「好悪の良は夜気に萠す」と。
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自警録・第十二章 人生表裏の判断・悪い意味における表裏我々が各自の友人を一人ずつ挙げて考えたならすぐに両面あることを悟るであろうと思う。表と裏とは思想上においては反対と思われるも、実際においては同一物なりともいえる。反対と思えば表のなすことを裏で取消したり、裏の性質を表で消したり、相互に利益を異にするように聞こゆれども、そういうように意味を取ると、とかく性質が悪ざまになりて、表向きでは一滴の酒を飲まぬと言いながら、裏面ではこっそりとちびちび飲む。外では勉強に見せて内では怠ける。表向きではすこぶる謹厳の風を装いながら、裏面ではすこぶる放蕩する。あるいはまた表面節倹で裏面濫費する。 こういう意味において表裏の差を生ずるはもちろん望ましからぬことで、いわゆる狼が羊の皮を被るがごときもの、俗にいう猫を被るのである。これは前にいった一家に表門と裏門とある例とは事情を異にしている。つまり身分不相応に力を表門に注ぎて美麗宏壮に築き上げ、人目を驚かし、しかして裏門は柱が曲り、戸が朽ち、満足に開閉することも出来ず、出入りにも危険ならしむるがごときものである。これでは裏門においてかえって人に迷惑を与うるものである。表門にのみかく力を用うることは悪い意味における表裏といわねばならぬ。 近ごろ我が国民全体が激昂したことは、表向きでは愛国を口にし、一身の名利などは毫も眼中にない、否むしろ名利を犠牲に供して国防の充実を計るという看板をかけた人が、裏面においてはこれによりて窃に私腹を肥すことがあったからである。かくのごとき事こそ悪い意味における表裏の最もはなはだしいものである。 またある党派のために一身を捧げるようなことを外部に標榜しながら、内部においてはひそかに欵を反対の党派に通ずることがあれば、これまた悪い意味における表裏のはなはだしきものである。こういうような実際矛盾している表裏的の事柄と、個人々々の性格なりあるいは生計なりにおけるいわゆる矛盾とは、よくこれを判別しなければ、人を判断するにおいて正鵠を失し、混乱を免れぬ。
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自警録・第十二章 人生表裏の判断・表裏の善悪を判断する標準(1)しからば表裏という文字を仮りに用うるとして、善き意味の表裏と、悪き意味――というのが過言であるならば、少なくとも自然的表裏とは、何を標準として区別すべきか。僕はこれは表裏を備うる人の意志によるものであると思う。僕のここにいう意志とは天性というにあい対して用いたのである。ただ堅い一方と思えるものが案外弱いところもあるというのは天性両面を備うるのである。もしこの同じ人が自己のやわらかいことを仮りに他人を欺かんがために隠し、すなわち悪意をもって硬骨を衒ったならば、これ悪い意味における表裏の初段である。 しかしもしこの人が己れの弱点を制せんとする意志に基づいて、これを隠しあるいは包むとすれば、さほどに咎むべきことではないと思う。むしろ場合によりては褒むべきで、消極的修養の努力であると思う。元来普通の人はすべて幾分かの弱点を備うるものである。この弱点に打ち克たんか、あるいはこれを包まんとするは、むしろ褒むべき努力であって、その人が果たして包みきれるか制しきれるかは別問題とし、ともかく己れの弱点を意識し、ために過失に陥らざらんと心づくことは諒とすべきことである。こういう目的であれば、表裏があっても、たいして咎むべき必要なきも、一歩を進めて、裏面あるのに、なきがごとくして相手を欺くの意志あれば、悪い意味における表裏の罪の成立する時である。
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自警録・第十二章 人生表裏の判断・表裏の善悪を判断する標準(2)しかしその当人が果たして欺く意志であるかどうかは容易に判断の出来るものでない。とかく我々が思わぬことを聞いたり見たりすると、一時案外の驚きに打たれて、その人が故意に我を欺けりと判断することがある。しかるに冷静にこれを考えると、欺かんとする意志があったのでなく、かえって我々のまったく知らなかったことが落度で、彼はことさらに隠しもせねば包んでもいなかったが、吾人がそれを発見しなかったのが、我々の不注意であるということが折々ある。人の衣服を見ても、裏をつぎはぎしているものもある。着ている人は裏につぎはぎしていると吹聴することもなく、また他人にそう思わせようとも力めず、自分の着物の裏は間に合せものである。おそらく他人も知っているだろうぐらいに思い流しているのである。しかるに彼があまりに平気であるために、見る人は定めしあの人だから表に優る裏をつけているだろうと推量し、ことさら尋ねもせずに独り合点している間に、真相を始めて見て、彼は長日月間我々を欺いた、表裏のはなはだしい奴だと詈る者を多く見る。先方が欺いたのでなく、当方が不注意のために知らなかったに過ぎぬ。ゆえに一口にいえば悪い意味における裏面の有無を判断する者は当事者一人というべく、他人は容易にこれを断定し得るものではない。 近ごろ世間に海軍とやら本願寺とやら何々党とやらに関して、種々面白からざる表裏ばなしを聞くが、罪は悪むべきも、その関係者の人については、慈悲の心をもって当たりたい。いわんや吾人は平素交わる人々について、図らざる事を見、予期せざる事を聞くこと少なくない。そのつど友人の心事や性格を疑うごときは不見識のはなはだしきものなれば、つねづね、なにものにも表と裏と、外と内と、皮と肉との別あるを心得ておきたい。