自警録 / 第十一章 人生の決勝点・勝った時には精神上に保険をつけよ
分かりやすく例を取りてみれば、商戦に従事する者はもくろみ通りに成功し、いわゆるトントン拍子に身代をふやし、または営業を拡張することあるも、これは決していつまでもつづくものではない。よいほどに儲けてやめぬ以上は必ず営業上の困難を来たす時節の来ることは、何人も知るところである。艱難なしに成功した例はない。艱難とはある意味においては失敗である。もちろん全然の失敗ならなくとも、勝敗の怪しき謂である。ゆえにさかんに繁昌するとき、万一の場合を慮りてあるいは貯蓄するなり、あるいは新事業に手を出すことを慎むなり、あるいは繁昌に乗じて驕奢を極むることを矯めたりすれば、不幸にして利あらぬ事ありとするも、右のごとき謹慎を加えなかった者に比すれば失態を演ずることが少ない。これは我々が社会を見ても、あるいは各自の友人の履歴に徴しても、必ずその例に乏しからざるを感ずる。 勝てるあいだに負けた時の準備をすることは商事会社が準備金を積み立てるか、あるいは個人が火災なり、生命なりを保険するようなもので、勝ちつつある時に、「待てよ」と一歩を控えることは、わが輩はこれを精神上の保険と名づけたい。
書き下し
分かりやすく例を取りてみれば、商戦に従事する者はもくろみ通りに成功し、いわゆるトントン拍子に身代をふやし、または営業を拡張することあるも、これは決していつまでもつづくものではない。よいほどに儲けてやめぬ以上は必ず営業上の困難を来たす時節の来ることは、何人も知るところである。艱難なしに成功した例はない。艱難とはある意味においては失敗である。もちろん全然の失敗ならなくとも、勝敗の怪しき謂である。ゆえにさかんに繁昌するとき、万一の場合を慮りてあるいは貯蓄するなり、あるいは新事業に手を出すことを慎むなり、あるいは繁昌に乗じて驕奢を極むることを矯めたりすれば、不幸にして利あらぬ事ありとするも、右のごとき謹慎を加えなかった者に比すれば失態を演ずることが少ない。これは我々が社会を見ても、あるいは各自の友人の履歴に徴しても、必ずその例に乏しからざるを感ずる。 勝てるあいだに負けた時の準備をすることは商事会社が準備金を積み立てるか、あるいは個人が火災なり、生命なりを保険するようなもので、勝ちつつある時に、「待てよ」と一歩を控えることは、わが輩はこれを精神上の保険と名づけたい。
現代語訳
分かりやすく例を取れば、商いの戦いに従事する者は、もくろみどおりに成功し、いわゆるとんとん拍子に身代を増やし、あるいは営業を拡張することがあっても、これは決していつまでも続くものではありません。ほどよく儲けてやめない限り、必ず営業上の困難が来る時期があることは、誰もが知っています。艱難なしに成功した例はありません。艱難とは、ある意味では失敗です。もちろん全面的な失敗でなくとも、勝敗の怪しいという意味です。ですから、大いに繁盛するとき、万一の場合を考えて、貯蓄するなり、新事業に手を出すことを慎むなり、あるいは繁盛に乗じて奢りを極めることを控えるなりすれば、不幸にして利益が上がらないことがあっても、こうした慎みを加えなかった者に比べて、失態を演じることが少なくなります。これは、私たちが社会を見ても、あるいは各自の友人の履歴に照らしても、必ず例に事欠かないと感じます。 勝っているあいだに負けたときの準備をすることは、商事会社が準備金を積み立て、あるいは個人が火災や生命の保険をかけるようなもので、勝ちつつあるときに「待てよ」と一歩引くことを、私は精神上の保険と名づけたいと思います。
解説

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自警録・第十一章 人生の決勝点・負けた時の用心昔の、経験ある武士の言葉に、 「勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身にいたる」 とある。戦いに臨む者は勝利を期待することは当然であるが、万一期待に背く事あるときはかくかくすると予め覚悟なくてはならぬ。連戦連勝は、いかなる国の歴史、いかなる勇将の伝記においても、永続した戦役にはあり得ない。そのこれあるは勝敗の早く決する戦争にのみあるのである。孫子も、 「兵に常勢なきことは、水に常の形なきが如し」 と繰り返し教えている。しかして人生の戦争においては、太く短く世を渡るを望む者あるも、望み通りになるやならぬや誰も保証出来ぬ。みずから手を下して自己の生命を短うするにあらざる以上、人はいつまで生きるものか予想し難い。何人も生命の長きを望む。しかしてこの望みの存する限り、人生の奮闘もまた連戦連勝を望むことは出来ぬ。ゆえにはなはだ縁起の悪いことながら、人間は予め負けた時の考えを用意して置かねばならぬ。この考えある者は勝った時はなお慎みて油断なく、負けた時にもみすぼらしい風情に陥らぬ。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・標準高き勝利かく思うと負けたことを遺憾とするははなはだ愚なりと思う。ことに勝負の標準が一時的、人為的、時勢的のものであれば、なおさらそうである。いわゆる負けたからとて自分の人格の下がる訳でもなく、また真価を傷つけるものでもない。これがためにあるいは無知の人の笑いを招くことはあろう。しかし笑いも無知の人の笑いなる以上は気にするほどのこともない。 しかるに世の中にはともするとただ勝てばよいと、決勝点の何たるを問わず一向に勝つことのみを快しとする者が多い。たとえば経済競争において勝負を争う時は金が決勝点である。この場合には善かれ悪しかれ、金さえ儲ければ勝利者と思う風がある。 今日普通に成功者と称する輩の中にも、いかなる方法によりて今日の位地を得たかというと、はなはだ怪しげな道を進んだことが分かる。少し高い決勝点に照らせば、まさしく敗北者と称すべき者で世に時めく者が少なくない。僕はあながち勝者を妬んで皮肉を吐く考えもなければ、誰がどうと具体的に指さすことを能くせぬが、かくのごとき人が世にありそうであり、またありと聞いている。世の中にはかかる人を重んじている。しかしてかかる勝利を得損なった人が失敗者に数えられる。ゆえに世間の笑いを避くるため心ならずも、標準の決勝点を引下げ、潔からずと思いながらも、俗界の喜ぶ勝鬨を挙げんとする者が多くなり、しかしていわゆる失敗者となるを不本意とするにいたる。しかし誰人が不正の名利を抱えて、心のうちに満足を覚ゆるか。世人に向かっては大きな顔もしようなれ、自己に顧みてはなはだ不安の念を抱くや疑いない。すなわち不正不義の手段によりて獲た名利すなわち勝利は、己れの本当の心に背いているに違いない。 しかして先にも述べた通り勝つとは我が意を遂ぐるの謂であるなら、不正不利の名利は敗北と称すべきもので、勝利というべきものでない。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・勝敗の決勝点を高きに置けわが輩の言ったことを一言に約すれば、勝敗を定むる標準を高きに置けよというに帰着する。ことに青年時代いまだまったく心の俗化せぬとき、すなわち理想のいまだ高き時に、みずから決勝点を定めよ。しかしてこれを高きに置け。すなわち金を儲けるのも儲ける道を純白にし、卑怯な方法にて儲くれば、これ奮闘の敗北なりとみなし、また高き位地を得るにしても、他人を踏台としたり甚だしきは友人までも売って位地を占めんとしたら、これまた勝利にあらずして敗北なりと心得、よし名を挙げるにしても、卑劣な賤しき方法によりて得たならば、その名がいかに広まるとも、勝利にあらずして敗北なりと思い、これに反し自分の同僚友人が潔からざる手段を弄して巨万の富を積み、高位に上るとも、また名声を海外に轟かすとも、さらに恨むにも当たらず、また彼らに対し自分は敗北者だと卑下して小さくなる必要もない。 物質的利益に超脱し、名誉、地位、得喪の上に優游するを得ば、世間に行わるる勝敗は児戯に等しきものとなる。真の勝利者は第一己れなる者を全然破り、己れに克ち、古人の言う私心なきことこそ必勝の条件なれ。この点に意を留めたなら世間でかれこれいう勝敗などのために心を動かすことなく、勝っても笑わず、負けても泣かず、勝利のために誇らず、敗北のために歎かず、心つねに平々坦々として、定めし幸福なることであろう。 孔子のいわゆる、 「君子は坦にして蕩々たり、小人は長に戚々たり」 とはこの心をいうならん。これで基督は磔になりながら、 「われ世に勝てり」 と叫んだ心をも幾分か理解し得る。
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『論語と算盤』処世と信条・得意時代と失意時代「名を成すは常に窮苦の日にあり、事を敗るは多く得意の時に因す」と古人も言っているが、この言葉は真理である。困難に処する時はちょうど大事に当たったと同一の覚悟をもってこれに臨むから、名を成すはそういう場合に多い。世に成功者と目せられる人には、必ず「あの困難をよくやり遂げた」「あの苦痛をよくやり抜いた」というようなことがある。これすなわち心を締めて掛かったという証拠である。しかるに失敗は多く得意の日にその兆しをなしている。人は得意時代に処しては、あたかもかの小事の前に臨んだ時のごとく、天下何事か成らざらんやの気概をもって、いかなることをも頭から呑んで掛かるので、ややもすれば目算が外れてとんでもない失敗に落ちてしまう。それは小事から大事を醸すと同一義である。だから人は得意時代にも調子に乗るということ無く、大事小事に対して同一の思慮分別をもってこれに臨むがよい。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・勝敗は長年月を経て始めて決定す僕はつねに失望する人を慰めんとするとき、あるいは自ら失望し落胆せんとするとき、みずから励まして、「マア十年待て」といっている。ついこの間もしばらく会わなかった友人が来訪し、こういうことをいった。 「僕の友人で一時世にもて囃され、名望一時に高まったものがある。僕は友人にそれを喜んだとき、なるほど僕を褒める声があちこちに聞こゆるようであるが、これはすでに極度に達したのであろう。二、三ヵ月経てばそろそろ悪口が始まり、四、五年の後には犯罪者のごとき批評を受けるであろう。しかしてまたその後にいたり相当の位地に帰るであろう。そのサイクル(循環期)は十年は出ない。七、八年ならんといったが、いかにも今日まで五ヵ年になるが、彼のいったごとき傾向が現れんとしつつある」 と。これは尋常の人であるから、その批評もまた七、八年で一循環するのである。もし非常の人物であるならば、彼に対する誤解も五年七年では済むまい。あるいは百年二百年もつづくであろうし、また真価の充分に認めらるるには百年二百年を要することであろう。富士山の測量はいまだ綿密に出来ていないごとく、大人物であればあるほど、その高さも大きさも容易に凡人の見分け得るものでない。 普通の人についてもその真価は即座に決することは出来ぬ。まずは七、八年はかかる。むかしの人のいったごとく人生は棺を覆うて始めて定まるものである。しかして勝敗も人の真価で計るべきものである。真の力ある人はいやゆる投げられても負けぬ。真の力がより以上の真の力のために圧迫されて始めて負けたということになる。その時々に行わるる標準をもって勝敗を定むることはほんの一時的で、市中の屠者が韓信に勝ったといって得々たると同じである。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・人生の勝利者こんなもので世の中でいわゆる勝負を測る標準は、人の実力や努力の標準とはちがう。ゆえに俗界を離れて高い立場よりこの世の競争奮闘のありさまを見れば、定めて可笑しきことがたくさんあろう。世間で得意を極める人も、高き標準から測ったならば、最も卑むべきものとなりはせぬか。耶蘇がその弟子に説いた言葉に、 「地上にありて最大たりしものも、天国にありては恐らくは最小なるものならん」 と述べたが、天国に行かずとも、同じ地球の表面においてすらも、時の移るとともに人の勝敗を定める標準が追々違って来るかと思われる。 この前にも述べたごとく野蛮の社会においては腕力ある者が最強者で、最大勝利者で、人も尊敬し自己もまた得意であった。社会が一定の秩序の下に治められ、腕力のみをもって優劣を定めることを止めて以来、理屈の最も分かるものが社会で勝利を得ることになった。すなわち法治国においては法を破らぬ範囲内において、自己の利益を最もよく図るものが勝利者となるに至った。しかるに社会がさらに進歩し礼をもって治められる時代に到達したならば、礼の最も厚き人が最高の勝利者となる。 いかなる世においても、種々なる形で競争が行われる。あるいは商業、あるいは学術研究、あるいは芸術、社交、その他いかなる階級にもそれぞれ競争は絶えぬ。して競争あれば必ず勝者と敗者がある。一口に勝者という者の中にも一番強い者を相手にした者は一番偉い勝者である。また同じく敵と称する者の中にも種類が数多ある。強きもあれば弱きもある。赤鬼もいれば青鬼もおろう。してあらゆる種類の敵に勝つ者は一番偉い勝者である。時には敵とは称せずとも吾人の勝つべき相手もある。それは親兄弟、妻子、朋友のごときはもちろん敵ではないが、彼らが我々の心に服さぬことがあれば、その不服の範囲において敵のごときものである。ゆえに広い意味においては親兄弟にも勝たねばならぬ。楠正成の歌に、 我にかちみかたに勝ちて敵にかつこれを武将の三勝といふ とあるのが、ちょうど僕の今いう勝つべき相手の種類である。