自警録 / 第十一章 人生の決勝点・標準高き勝利
かく思うと負けたことを遺憾とするははなはだ愚なりと思う。ことに勝負の標準が一時的、人為的、時勢的のものであれば、なおさらそうである。いわゆる負けたからとて自分の人格の下がる訳でもなく、また真価を傷つけるものでもない。これがためにあるいは無知の人の笑いを招くことはあろう。しかし笑いも無知の人の笑いなる以上は気にするほどのこともない。 しかるに世の中にはともするとただ勝てばよいと、決勝点の何たるを問わず一向に勝つことのみを快しとする者が多い。たとえば経済競争において勝負を争う時は金が決勝点である。この場合には善かれ悪しかれ、金さえ儲ければ勝利者と思う風がある。 今日普通に成功者と称する輩の中にも、いかなる方法によりて今日の位地を得たかというと、はなはだ怪しげな道を進んだことが分かる。少し高い決勝点に照らせば、まさしく敗北者と称すべき者で世に時めく者が少なくない。僕はあながち勝者を妬んで皮肉を吐く考えもなければ、誰がどうと具体的に指さすことを能くせぬが、かくのごとき人が世にありそうであり、またありと聞いている。世の中にはかかる人を重んじている。しかしてかかる勝利を得損なった人が失敗者に数えられる。ゆえに世間の笑いを避くるため心ならずも、標準の決勝点を引下げ、潔からずと思いながらも、俗界の喜ぶ勝鬨を挙げんとする者が多くなり、しかしていわゆる失敗者となるを不本意とするにいたる。しかし誰人が不正の名利を抱えて、心のうちに満足を覚ゆるか。世人に向かっては大きな顔もしようなれ、自己に顧みてはなはだ不安の念を抱くや疑いない。すなわち不正不義の手段によりて獲た名利すなわち勝利は、己れの本当の心に背いているに違いない。 しかして先にも述べた通り勝つとは我が意を遂ぐるの謂であるなら、不正不利の名利は敗北と称すべきもので、勝利というべきものでない。
書き下し
かく思うと負けたことを遺憾とするははなはだ愚なりと思う。ことに勝負の標準が一時的、人為的、時勢的のものであれば、なおさらそうである。いわゆる負けたからとて自分の人格の下がる訳でもなく、また真価を傷つけるものでもない。これがためにあるいは無知の人の笑いを招くことはあろう。しかし笑いも無知の人の笑いなる以上は気にするほどのこともない。 しかるに世の中にはともするとただ勝てばよいと、決勝点の何たるを問わず一向に勝つことのみを快しとする者が多い。たとえば経済競争において勝負を争う時は金が決勝点である。この場合には善かれ悪しかれ、金さえ儲ければ勝利者と思う風がある。 今日普通に成功者と称する輩の中にも、いかなる方法によりて今日の位地を得たかというと、はなはだ怪しげな道を進んだことが分かる。少し高い決勝点に照らせば、まさしく敗北者と称すべき者で世に時めく者が少なくない。僕はあながち勝者を妬んで皮肉を吐く考えもなければ、誰がどうと具体的に指さすことを能くせぬが、かくのごとき人が世にありそうであり、またありと聞いている。世の中にはかかる人を重んじている。しかしてかかる勝利を得損なった人が失敗者に数えられる。ゆえに世間の笑いを避くるため心ならずも、標準の決勝点を引下げ、潔からずと思いながらも、俗界の喜ぶ勝鬨を挙げんとする者が多くなり、しかしていわゆる失敗者となるを不本意とするにいたる。しかし誰人が不正の名利を抱えて、心のうちに満足を覚ゆるか。世人に向かっては大きな顔もしようなれ、自己に顧みてはなはだ不安の念を抱くや疑いない。すなわち不正不義の手段によりて獲た名利すなわち勝利は、己れの本当の心に背いているに違いない。 しかして先にも述べた通り勝つとは我が意を遂ぐるの謂であるなら、不正不利の名利は敗北と称すべきもので、勝利というべきものでない。
現代語訳
こう考えてくると、負けたことを残念がるのは、まことに愚かなことだと思います。とくに勝負の物差しが一時的、人為的、時勢的なものであれば、なおさらです。いわゆる負けたからといって、自分の人格が下がるわけでもなく、真価が傷つくわけでもありません。そのために、無知な人の笑いを招くことはあるでしょう。しかし、無知な人の笑いである以上、気にするほどのことではありません。 ところが世の中には、ともすると、ただ勝てばよいと、決勝点が何であるかを問わず、ひたすら勝つことだけを快いとする者が多くいます。たとえば経済競争で勝負を争うときは、金が決勝点です。この場合には、善かろうが悪かろうが、金さえ儲ければ勝利者と思う風潮があります。 今日、普通に成功者と呼ばれる人びとの中にも、どんな方法で今の地位を得たかを調べると、はなはだ怪しげな道を歩んだことが分かる者がいます。少し高い決勝点に照らせば、まさしく敗北者と呼ぶべき人で、世に時めいている者が少なくありません。私は勝者を妬んで皮肉を言う考えは少しもありませんし、誰がどうと具体的に指さすこともできませんが、このような人が世にいそうであり、また現にいると聞いています。世の中にはそうした人を重んじる風があります。そして、そうした勝利を得そこなった人が、失敗者に数えられます。そのため、世間の笑いを避けようと、心ならずも決勝点の物差しを引き下げ、潔くないと思いながらも、俗世が喜ぶ勝ちどきを上げようとする者が多くなり、いわゆる失敗者になることを不本意とするようになります。しかし、不正な名利を抱えて、心のうちに満足を覚える人がいるでしょうか。世間に向かっては大きな顔もしましょうが、自分を顧みれば、はなはだ不安な思いを抱くのは疑いありません。つまり、不正不義の手段で得た名利、すなわち勝利は、自分の本当の心に背いているに違いありません。 そして先にも述べたとおり、勝つとは我が意を遂げることをいうのなら、不正不義の名利は敗北と呼ぶべきもので、勝利というべきものではありません。
解説

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自警録・第十一章 人生の決勝点・勝敗の決勝点を高きに置けわが輩の言ったことを一言に約すれば、勝敗を定むる標準を高きに置けよというに帰着する。ことに青年時代いまだまったく心の俗化せぬとき、すなわち理想のいまだ高き時に、みずから決勝点を定めよ。しかしてこれを高きに置け。すなわち金を儲けるのも儲ける道を純白にし、卑怯な方法にて儲くれば、これ奮闘の敗北なりとみなし、また高き位地を得るにしても、他人を踏台としたり甚だしきは友人までも売って位地を占めんとしたら、これまた勝利にあらずして敗北なりと心得、よし名を挙げるにしても、卑劣な賤しき方法によりて得たならば、その名がいかに広まるとも、勝利にあらずして敗北なりと思い、これに反し自分の同僚友人が潔からざる手段を弄して巨万の富を積み、高位に上るとも、また名声を海外に轟かすとも、さらに恨むにも当たらず、また彼らに対し自分は敗北者だと卑下して小さくなる必要もない。 物質的利益に超脱し、名誉、地位、得喪の上に優游するを得ば、世間に行わるる勝敗は児戯に等しきものとなる。真の勝利者は第一己れなる者を全然破り、己れに克ち、古人の言う私心なきことこそ必勝の条件なれ。この点に意を留めたなら世間でかれこれいう勝敗などのために心を動かすことなく、勝っても笑わず、負けても泣かず、勝利のために誇らず、敗北のために歎かず、心つねに平々坦々として、定めし幸福なることであろう。 孔子のいわゆる、 「君子は坦にして蕩々たり、小人は長に戚々たり」 とはこの心をいうならん。これで基督は磔になりながら、 「われ世に勝てり」 と叫んだ心をも幾分か理解し得る。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・人生の勝利者こんなもので世の中でいわゆる勝負を測る標準は、人の実力や努力の標準とはちがう。ゆえに俗界を離れて高い立場よりこの世の競争奮闘のありさまを見れば、定めて可笑しきことがたくさんあろう。世間で得意を極める人も、高き標準から測ったならば、最も卑むべきものとなりはせぬか。耶蘇がその弟子に説いた言葉に、 「地上にありて最大たりしものも、天国にありては恐らくは最小なるものならん」 と述べたが、天国に行かずとも、同じ地球の表面においてすらも、時の移るとともに人の勝敗を定める標準が追々違って来るかと思われる。 この前にも述べたごとく野蛮の社会においては腕力ある者が最強者で、最大勝利者で、人も尊敬し自己もまた得意であった。社会が一定の秩序の下に治められ、腕力のみをもって優劣を定めることを止めて以来、理屈の最も分かるものが社会で勝利を得ることになった。すなわち法治国においては法を破らぬ範囲内において、自己の利益を最もよく図るものが勝利者となるに至った。しかるに社会がさらに進歩し礼をもって治められる時代に到達したならば、礼の最も厚き人が最高の勝利者となる。 いかなる世においても、種々なる形で競争が行われる。あるいは商業、あるいは学術研究、あるいは芸術、社交、その他いかなる階級にもそれぞれ競争は絶えぬ。して競争あれば必ず勝者と敗者がある。一口に勝者という者の中にも一番強い者を相手にした者は一番偉い勝者である。また同じく敵と称する者の中にも種類が数多ある。強きもあれば弱きもある。赤鬼もいれば青鬼もおろう。してあらゆる種類の敵に勝つ者は一番偉い勝者である。時には敵とは称せずとも吾人の勝つべき相手もある。それは親兄弟、妻子、朋友のごときはもちろん敵ではないが、彼らが我々の心に服さぬことがあれば、その不服の範囲において敵のごときものである。ゆえに広い意味においては親兄弟にも勝たねばならぬ。楠正成の歌に、 我にかちみかたに勝ちて敵にかつこれを武将の三勝といふ とあるのが、ちょうど僕の今いう勝つべき相手の種類である。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・勝つとは何を意味するか(1)勝負を語るにつけ、一歩をさかのぼりてそもそも勝つとはなんであるかと考えてみたい。勝つとはなにかと尋ぬると、おそらく世人は奇怪なる質問と思うであろう。勝負ほど明瞭なものはないと思う人が世に多い。しかし相撲を見ても東西のいずれが勝ったのかはなはだ不明なる場合がある。数万の眼で見る勝負さえもかくのごとくである。また多年審判の任に当たれる行司さえも判定を下すに苦しむことがある。まして個人の行為において勝敗を決するの難きは常に見るところである。また決勝点はすべての人によりて必ずしも一致するものでない。世人が決勝点なりと認むるものを、自分は決勝点と受け兼ねることが間々ある。 中には為にするところあって、人為的形式的に定めたと思わるる決勝点なきにしもあらぬ。たとえば相撲のごときも一つの形式で勝敗を定むるものである。すなわち土俵を作り、それを標準とするが、この土俵なるものは天然に定まれる一定不易の圏でなく、人為的に仮りに定めたるに過ぎぬ。「鳳」と「朝潮」とが取組み、一方が一歩を土俵のそとに踏み出せば、それで勝敗を決する規則であるが、世界中を土俵だとすれば、勝敗あるいは地を換えることもあるであろう。 むかし淮陰の少年が韓信を侮り韓信をして袴下を匍伏せしめたことがある。市の人は皆韓信の怯懦にして負けたことを笑い、少年は勝ったと思って必ず得々としたであろう。しかし今日は当時勝ったという少年の名を知れる者がはたしてあるか。しかして韓信の名を知らぬ者が果たしてあるか。
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自警録・第十章 人生の成敗・義務を完うするところに成功ありこの思想はただ戦のみに関わることではない。平生も持ちたい思想である。世には成功ほど望ましいものはない、失敗ほど恐ろしいものはないと思う人が多い。して、いわゆる成功に達せんがためには、いかなる方法も用いようし、また失敗を免れるためには、いかなる事をも憚らない人が多い。すなわち成功熱に浮かされている人が多い。しかしてその成功とは何ぞやと聞くと、多くは名利である。この成功あるいは具体的に言えば名利を貴ぶの結果として、人格を測るにさえ名利を標準とする者が多い。たとえて言うと、 「あの人は近ごろたいそう成功しました」 という。 「どう成功しましたか」 と押し返すと、 「大分金が出来ました」 とか、 「近ごろ大分名が聞こえて来ました」 という。 僕が初めて伊藤公を訪問した時、人物の大小論を試みたが、そのとき公は人物を測る標準は、事業にあると言われた。この一句を案ずれば、伊藤公は伊藤公だけの事業なる文字についての解釈があろうが、この句が凡人の耳に這入れば、ただちにいわゆる成功なる文字に翻訳せられて、俗の言葉に訳すと、 「うまくやった奴が偉い奴」 ということになり了る。僕は決して名利が悪いとは言わない。名も利も求めずして来たるものならば、拒むべきものとは思わない。しかるに名利はこちらから追い駆けて、あるいは他人を毀つけたり、また己れの本心に背いて得るものと、天より降る露のごとくにおのずから身に至るものとあろう。といって決して果報は寝て待てという意ではないが、己れの正しいと信ずる事さえやっておれば、名利が来ようが来まいが、あえて頓着すべきものではなかろう。真の成功なるものは、己れの本心に背かず、己れの義務と思うことをまっとうするの一点に存するのであって、失敗なるものは、己れの本心に背き、己れの任務を怠るにある。ゆえに成功だの失敗だのということは、世の中の人にはなかなか解るものでない。リー将軍が失敗したというが、自分では失敗を重視しなかったろう。古人の教えたことにも富貴名誉を必ずしも避けない、その代りことさら迎えもしない。 「富貴名誉、道徳より来たるものは、山林中の花の如く、おのずから是れ舒徐繁衍、功業より来たるものは盆榼中の花の如く、便ち遷徙廃興あり。若し権力をもって得たるものは、瓶鉢中の花の如く、その根植えず、その萎むこと立って待つべし」
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自警録・第十一章 人生の決勝点・負けた時の用心昔の、経験ある武士の言葉に、 「勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身にいたる」 とある。戦いに臨む者は勝利を期待することは当然であるが、万一期待に背く事あるときはかくかくすると予め覚悟なくてはならぬ。連戦連勝は、いかなる国の歴史、いかなる勇将の伝記においても、永続した戦役にはあり得ない。そのこれあるは勝敗の早く決する戦争にのみあるのである。孫子も、 「兵に常勢なきことは、水に常の形なきが如し」 と繰り返し教えている。しかして人生の戦争においては、太く短く世を渡るを望む者あるも、望み通りになるやならぬや誰も保証出来ぬ。みずから手を下して自己の生命を短うするにあらざる以上、人はいつまで生きるものか予想し難い。何人も生命の長きを望む。しかしてこの望みの存する限り、人生の奮闘もまた連戦連勝を望むことは出来ぬ。ゆえにはなはだ縁起の悪いことながら、人間は予め負けた時の考えを用意して置かねばならぬ。この考えある者は勝った時はなお慎みて油断なく、負けた時にもみすぼらしい風情に陥らぬ。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・勝つとは何を意味するか(2)負けて勝つ智恵の力の強さにはたれも感心するぞ韓信 わが輩はしばしば思う、頸引きという遊戯は前に倒れるものが負けと定まっている。しかし実際には勝った者が勝ちに乗じて強く引くとき、かえって引っくりかえるのをしばしば見る。もし単に倒れる者を負けとすれば、勝敗の標準が異なり、従来勝った者が負けとなり、負けた者が勝ちとなる。ある狂歌師の作に曰く、 負けて勝つ心を知れや首引きのかちたる人の仆るゝを見よ ジャンケンで勝負を決するのも同様である。石と紙といずれが勝つかと、何事も知らぬ外人に質せば、恐らく石が紙よりも重く強く、かつ固いから、石が紙に勝つというであろう。 して見れば、勝つという語の定義を下すことは至難であるが、普通の考えでは他人に優る、相手より超絶るの意であろう。さらばただただ人より偉いと嬉しがるために勝つかと問わば、決して偉がるばかりが目的でない、むしろ人を服従させるのが勝つの意味である。ゆえに争わずとも自然に服従さすれば、それで勝利を得たというべきである。さらに一歩を進めて、服従させるとは何のためと問わば、これ自己の意志を行うためと答えてよかろう。しからば勝つとは吾が意を遂げるなりと定義したい。