自警録 / 第十一章 人生の決勝点・勝つとは何を意味するか(1)
勝負を語るにつけ、一歩をさかのぼりてそもそも勝つとはなんであるかと考えてみたい。勝つとはなにかと尋ぬると、おそらく世人は奇怪なる質問と思うであろう。勝負ほど明瞭なものはないと思う人が世に多い。しかし相撲を見ても東西のいずれが勝ったのかはなはだ不明なる場合がある。数万の眼で見る勝負さえもかくのごとくである。また多年審判の任に当たれる行司さえも判定を下すに苦しむことがある。まして個人の行為において勝敗を決するの難きは常に見るところである。また決勝点はすべての人によりて必ずしも一致するものでない。世人が決勝点なりと認むるものを、自分は決勝点と受け兼ねることが間々ある。 中には為にするところあって、人為的形式的に定めたと思わるる決勝点なきにしもあらぬ。たとえば相撲のごときも一つの形式で勝敗を定むるものである。すなわち土俵を作り、それを標準とするが、この土俵なるものは天然に定まれる一定不易の圏でなく、人為的に仮りに定めたるに過ぎぬ。「鳳」と「朝潮」とが取組み、一方が一歩を土俵のそとに踏み出せば、それで勝敗を決する規則であるが、世界中を土俵だとすれば、勝敗あるいは地を換えることもあるであろう。 むかし淮陰の少年が韓信を侮り韓信をして袴下を匍伏せしめたことがある。市の人は皆韓信の怯懦にして負けたことを笑い、少年は勝ったと思って必ず得々としたであろう。しかし今日は当時勝ったという少年の名を知れる者がはたしてあるか。しかして韓信の名を知らぬ者が果たしてあるか。
書き下し
勝負を語るにつけ、一歩をさかのぼりてそもそも勝つとはなんであるかと考えてみたい。勝つとはなにかと尋ぬると、おそらく世人は奇怪なる質問と思うであろう。勝負ほど明瞭なものはないと思う人が世に多い。しかし相撲を見ても東西のいずれが勝ったのかはなはだ不明なる場合がある。数万の眼で見る勝負さえもかくのごとくである。また多年審判の任に当たれる行司さえも判定を下すに苦しむことがある。まして個人の行為において勝敗を決するの難きは常に見るところである。また決勝点はすべての人によりて必ずしも一致するものでない。世人が決勝点なりと認むるものを、自分は決勝点と受け兼ねることが間々ある。 中には為にするところあって、人為的形式的に定めたと思わるる決勝点なきにしもあらぬ。たとえば相撲のごときも一つの形式で勝敗を定むるものである。すなわち土俵を作り、それを標準とするが、この土俵なるものは天然に定まれる一定不易の圏でなく、人為的に仮りに定めたるに過ぎぬ。「鳳」と「朝潮」とが取組み、一方が一歩を土俵のそとに踏み出せば、それで勝敗を決する規則であるが、世界中を土俵だとすれば、勝敗あるいは地を換えることもあるであろう。 むかし淮陰の少年が韓信を侮り韓信をして袴下を匍伏せしめたことがある。市の人は皆韓信の怯懦にして負けたことを笑い、少年は勝ったと思って必ず得々としたであろう。しかし今日は当時勝ったという少年の名を知れる者がはたしてあるか。しかして韓信の名を知らぬ者が果たしてあるか。
現代語訳
勝負を語るにつけて、一歩さかのぼり、そもそも勝つとは何であるかを考えてみたいと思います。勝つとは何かと尋ねると、おそらく世の人は奇妙な質問だと思うでしょう。勝負ほど明瞭なものはないと思う人が、世には多いのです。しかし、相撲を見ても、東西どちらが勝ったのかがはなはだ不明な場合があります。数万の目で見る勝負でさえそうです。また、長年審判の任に当たっている行司でさえ、判定を下すのに苦しむことがあります。まして個人の行為において勝敗を決することの難しさは、常に見るところです。また、決勝点はすべての人にとって必ずしも一致するものではありません。世間が決勝点だと認めるものを、自分は決勝点として受け入れかねることが、ままあります。 なかには、ある目的があって、人為的、形式的に定めたと思われる決勝点もないではありません。たとえば相撲のようなものも、一つの形式で勝敗を定めるものです。すなわち土俵を作って、それを基準にしますが、この土俵というものは、天然に定まった一定不変の円ではなく、人為的に仮に定めたものにすぎません。「鳳」と「朝潮」が取り組み、一方が一歩を土俵の外に踏み出せば、それで勝敗を決める規則ですが、世界中を土俵だとすれば、勝敗はあるいは所を変えることもあるでしょう。 昔、淮陰の少年が韓信を侮り、韓信にまたの下をくぐらせたことがあります。市の人はみな韓信の臆病を笑い、少年は勝ったと思って得意になったに違いありません。しかし今日、そのとき勝ったという少年の名を知る者が、はたしているでしょうか。そして韓信の名を知らない者が、はたしているでしょうか。
解説

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自警録・第十一章 人生の決勝点・勝つとは何を意味するか(2)負けて勝つ智恵の力の強さにはたれも感心するぞ韓信 わが輩はしばしば思う、頸引きという遊戯は前に倒れるものが負けと定まっている。しかし実際には勝った者が勝ちに乗じて強く引くとき、かえって引っくりかえるのをしばしば見る。もし単に倒れる者を負けとすれば、勝敗の標準が異なり、従来勝った者が負けとなり、負けた者が勝ちとなる。ある狂歌師の作に曰く、 負けて勝つ心を知れや首引きのかちたる人の仆るゝを見よ ジャンケンで勝負を決するのも同様である。石と紙といずれが勝つかと、何事も知らぬ外人に質せば、恐らく石が紙よりも重く強く、かつ固いから、石が紙に勝つというであろう。 して見れば、勝つという語の定義を下すことは至難であるが、普通の考えでは他人に優る、相手より超絶るの意であろう。さらばただただ人より偉いと嬉しがるために勝つかと問わば、決して偉がるばかりが目的でない、むしろ人を服従させるのが勝つの意味である。ゆえに争わずとも自然に服従さすれば、それで勝利を得たというべきである。さらに一歩を進めて、服従させるとは何のためと問わば、これ自己の意志を行うためと答えてよかろう。しからば勝つとは吾が意を遂げるなりと定義したい。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・標準高き勝利かく思うと負けたことを遺憾とするははなはだ愚なりと思う。ことに勝負の標準が一時的、人為的、時勢的のものであれば、なおさらそうである。いわゆる負けたからとて自分の人格の下がる訳でもなく、また真価を傷つけるものでもない。これがためにあるいは無知の人の笑いを招くことはあろう。しかし笑いも無知の人の笑いなる以上は気にするほどのこともない。 しかるに世の中にはともするとただ勝てばよいと、決勝点の何たるを問わず一向に勝つことのみを快しとする者が多い。たとえば経済競争において勝負を争う時は金が決勝点である。この場合には善かれ悪しかれ、金さえ儲ければ勝利者と思う風がある。 今日普通に成功者と称する輩の中にも、いかなる方法によりて今日の位地を得たかというと、はなはだ怪しげな道を進んだことが分かる。少し高い決勝点に照らせば、まさしく敗北者と称すべき者で世に時めく者が少なくない。僕はあながち勝者を妬んで皮肉を吐く考えもなければ、誰がどうと具体的に指さすことを能くせぬが、かくのごとき人が世にありそうであり、またありと聞いている。世の中にはかかる人を重んじている。しかしてかかる勝利を得損なった人が失敗者に数えられる。ゆえに世間の笑いを避くるため心ならずも、標準の決勝点を引下げ、潔からずと思いながらも、俗界の喜ぶ勝鬨を挙げんとする者が多くなり、しかしていわゆる失敗者となるを不本意とするにいたる。しかし誰人が不正の名利を抱えて、心のうちに満足を覚ゆるか。世人に向かっては大きな顔もしようなれ、自己に顧みてはなはだ不安の念を抱くや疑いない。すなわち不正不義の手段によりて獲た名利すなわち勝利は、己れの本当の心に背いているに違いない。 しかして先にも述べた通り勝つとは我が意を遂ぐるの謂であるなら、不正不利の名利は敗北と称すべきもので、勝利というべきものでない。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・人生の勝利者こんなもので世の中でいわゆる勝負を測る標準は、人の実力や努力の標準とはちがう。ゆえに俗界を離れて高い立場よりこの世の競争奮闘のありさまを見れば、定めて可笑しきことがたくさんあろう。世間で得意を極める人も、高き標準から測ったならば、最も卑むべきものとなりはせぬか。耶蘇がその弟子に説いた言葉に、 「地上にありて最大たりしものも、天国にありては恐らくは最小なるものならん」 と述べたが、天国に行かずとも、同じ地球の表面においてすらも、時の移るとともに人の勝敗を定める標準が追々違って来るかと思われる。 この前にも述べたごとく野蛮の社会においては腕力ある者が最強者で、最大勝利者で、人も尊敬し自己もまた得意であった。社会が一定の秩序の下に治められ、腕力のみをもって優劣を定めることを止めて以来、理屈の最も分かるものが社会で勝利を得ることになった。すなわち法治国においては法を破らぬ範囲内において、自己の利益を最もよく図るものが勝利者となるに至った。しかるに社会がさらに進歩し礼をもって治められる時代に到達したならば、礼の最も厚き人が最高の勝利者となる。 いかなる世においても、種々なる形で競争が行われる。あるいは商業、あるいは学術研究、あるいは芸術、社交、その他いかなる階級にもそれぞれ競争は絶えぬ。して競争あれば必ず勝者と敗者がある。一口に勝者という者の中にも一番強い者を相手にした者は一番偉い勝者である。また同じく敵と称する者の中にも種類が数多ある。強きもあれば弱きもある。赤鬼もいれば青鬼もおろう。してあらゆる種類の敵に勝つ者は一番偉い勝者である。時には敵とは称せずとも吾人の勝つべき相手もある。それは親兄弟、妻子、朋友のごときはもちろん敵ではないが、彼らが我々の心に服さぬことがあれば、その不服の範囲において敵のごときものである。ゆえに広い意味においては親兄弟にも勝たねばならぬ。楠正成の歌に、 我にかちみかたに勝ちて敵にかつこれを武将の三勝といふ とあるのが、ちょうど僕の今いう勝つべき相手の種類である。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・勝敗の決勝点を高きに置けわが輩の言ったことを一言に約すれば、勝敗を定むる標準を高きに置けよというに帰着する。ことに青年時代いまだまったく心の俗化せぬとき、すなわち理想のいまだ高き時に、みずから決勝点を定めよ。しかしてこれを高きに置け。すなわち金を儲けるのも儲ける道を純白にし、卑怯な方法にて儲くれば、これ奮闘の敗北なりとみなし、また高き位地を得るにしても、他人を踏台としたり甚だしきは友人までも売って位地を占めんとしたら、これまた勝利にあらずして敗北なりと心得、よし名を挙げるにしても、卑劣な賤しき方法によりて得たならば、その名がいかに広まるとも、勝利にあらずして敗北なりと思い、これに反し自分の同僚友人が潔からざる手段を弄して巨万の富を積み、高位に上るとも、また名声を海外に轟かすとも、さらに恨むにも当たらず、また彼らに対し自分は敗北者だと卑下して小さくなる必要もない。 物質的利益に超脱し、名誉、地位、得喪の上に優游するを得ば、世間に行わるる勝敗は児戯に等しきものとなる。真の勝利者は第一己れなる者を全然破り、己れに克ち、古人の言う私心なきことこそ必勝の条件なれ。この点に意を留めたなら世間でかれこれいう勝敗などのために心を動かすことなく、勝っても笑わず、負けても泣かず、勝利のために誇らず、敗北のために歎かず、心つねに平々坦々として、定めし幸福なることであろう。 孔子のいわゆる、 「君子は坦にして蕩々たり、小人は長に戚々たり」 とはこの心をいうならん。これで基督は磔になりながら、 「われ世に勝てり」 と叫んだ心をも幾分か理解し得る。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・負けた時の用心昔の、経験ある武士の言葉に、 「勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身にいたる」 とある。戦いに臨む者は勝利を期待することは当然であるが、万一期待に背く事あるときはかくかくすると予め覚悟なくてはならぬ。連戦連勝は、いかなる国の歴史、いかなる勇将の伝記においても、永続した戦役にはあり得ない。そのこれあるは勝敗の早く決する戦争にのみあるのである。孫子も、 「兵に常勢なきことは、水に常の形なきが如し」 と繰り返し教えている。しかして人生の戦争においては、太く短く世を渡るを望む者あるも、望み通りになるやならぬや誰も保証出来ぬ。みずから手を下して自己の生命を短うするにあらざる以上、人はいつまで生きるものか予想し難い。何人も生命の長きを望む。しかしてこの望みの存する限り、人生の奮闘もまた連戦連勝を望むことは出来ぬ。ゆえにはなはだ縁起の悪いことながら、人間は予め負けた時の考えを用意して置かねばならぬ。この考えある者は勝った時はなお慎みて油断なく、負けた時にもみすぼらしい風情に陥らぬ。
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自警録・第十一章 人生の決勝点・勝敗は長年月を経て始めて決定す僕はつねに失望する人を慰めんとするとき、あるいは自ら失望し落胆せんとするとき、みずから励まして、「マア十年待て」といっている。ついこの間もしばらく会わなかった友人が来訪し、こういうことをいった。 「僕の友人で一時世にもて囃され、名望一時に高まったものがある。僕は友人にそれを喜んだとき、なるほど僕を褒める声があちこちに聞こゆるようであるが、これはすでに極度に達したのであろう。二、三ヵ月経てばそろそろ悪口が始まり、四、五年の後には犯罪者のごとき批評を受けるであろう。しかしてまたその後にいたり相当の位地に帰るであろう。そのサイクル(循環期)は十年は出ない。七、八年ならんといったが、いかにも今日まで五ヵ年になるが、彼のいったごとき傾向が現れんとしつつある」 と。これは尋常の人であるから、その批評もまた七、八年で一循環するのである。もし非常の人物であるならば、彼に対する誤解も五年七年では済むまい。あるいは百年二百年もつづくであろうし、また真価の充分に認めらるるには百年二百年を要することであろう。富士山の測量はいまだ綿密に出来ていないごとく、大人物であればあるほど、その高さも大きさも容易に凡人の見分け得るものでない。 普通の人についてもその真価は即座に決することは出来ぬ。まずは七、八年はかかる。むかしの人のいったごとく人生は棺を覆うて始めて定まるものである。しかして勝敗も人の真価で計るべきものである。真の力ある人はいやゆる投げられても負けぬ。真の力がより以上の真の力のために圧迫されて始めて負けたということになる。その時々に行わるる標準をもって勝敗を定むることはほんの一時的で、市中の屠者が韓信に勝ったといって得々たると同じである。