自警録 / 第十章 人生の成敗・義務を完うするところに成功あり
この思想はただ戦のみに関わることではない。平生も持ちたい思想である。世には成功ほど望ましいものはない、失敗ほど恐ろしいものはないと思う人が多い。して、いわゆる成功に達せんがためには、いかなる方法も用いようし、また失敗を免れるためには、いかなる事をも憚らない人が多い。すなわち成功熱に浮かされている人が多い。しかしてその成功とは何ぞやと聞くと、多くは名利である。この成功あるいは具体的に言えば名利を貴ぶの結果として、人格を測るにさえ名利を標準とする者が多い。たとえて言うと、 「あの人は近ごろたいそう成功しました」 という。 「どう成功しましたか」 と押し返すと、 「大分金が出来ました」 とか、 「近ごろ大分名が聞こえて来ました」 という。 僕が初めて伊藤公を訪問した時、人物の大小論を試みたが、そのとき公は人物を測る標準は、事業にあると言われた。この一句を案ずれば、伊藤公は伊藤公だけの事業なる文字についての解釈があろうが、この句が凡人の耳に這入れば、ただちにいわゆる成功なる文字に翻訳せられて、俗の言葉に訳すと、 「うまくやった奴が偉い奴」 ということになり了る。僕は決して名利が悪いとは言わない。名も利も求めずして来たるものならば、拒むべきものとは思わない。しかるに名利はこちらから追い駆けて、あるいは他人を毀つけたり、また己れの本心に背いて得るものと、天より降る露のごとくにおのずから身に至るものとあろう。といって決して果報は寝て待てという意ではないが、己れの正しいと信ずる事さえやっておれば、名利が来ようが来まいが、あえて頓着すべきものではなかろう。真の成功なるものは、己れの本心に背かず、己れの義務と思うことをまっとうするの一点に存するのであって、失敗なるものは、己れの本心に背き、己れの任務を怠るにある。ゆえに成功だの失敗だのということは、世の中の人にはなかなか解るものでない。リー将軍が失敗したというが、自分では失敗を重視しなかったろう。古人の教えたことにも富貴名誉を必ずしも避けない、その代りことさら迎えもしない。 「富貴名誉、道徳より来たるものは、山林中の花の如く、おのずから是れ舒徐繁衍、功業より来たるものは盆榼中の花の如く、便ち遷徙廃興あり。若し権力をもって得たるものは、瓶鉢中の花の如く、その根植えず、その萎むこと立って待つべし」
書き下し
この思想はただ戦のみに関わることではない。平生も持ちたい思想である。世には成功ほど望ましいものはない、失敗ほど恐ろしいものはないと思う人が多い。して、いわゆる成功に達せんがためには、いかなる方法も用いようし、また失敗を免れるためには、いかなる事をも憚らない人が多い。すなわち成功熱に浮かされている人が多い。しかしてその成功とは何ぞやと聞くと、多くは名利である。この成功あるいは具体的に言えば名利を貴ぶの結果として、人格を測るにさえ名利を標準とする者が多い。たとえて言うと、 「あの人は近ごろたいそう成功しました」 という。 「どう成功しましたか」 と押し返すと、 「大分金が出来ました」 とか、 「近ごろ大分名が聞こえて来ました」 という。 僕が初めて伊藤公を訪問した時、人物の大小論を試みたが、そのとき公は人物を測る標準は、事業にあると言われた。この一句を案ずれば、伊藤公は伊藤公だけの事業なる文字についての解釈があろうが、この句が凡人の耳に這入れば、ただちにいわゆる成功なる文字に翻訳せられて、俗の言葉に訳すと、 「うまくやった奴が偉い奴」 ということになり了る。僕は決して名利が悪いとは言わない。名も利も求めずして来たるものならば、拒むべきものとは思わない。しかるに名利はこちらから追い駆けて、あるいは他人を毀つけたり、また己れの本心に背いて得るものと、天より降る露のごとくにおのずから身に至るものとあろう。といって決して果報は寝て待てという意ではないが、己れの正しいと信ずる事さえやっておれば、名利が来ようが来まいが、あえて頓着すべきものではなかろう。真の成功なるものは、己れの本心に背かず、己れの義務と思うことをまっとうするの一点に存するのであって、失敗なるものは、己れの本心に背き、己れの任務を怠るにある。ゆえに成功だの失敗だのということは、世の中の人にはなかなか解るものでない。リー将軍が失敗したというが、自分では失敗を重視しなかったろう。古人の教えたことにも富貴名誉を必ずしも避けない、その代りことさら迎えもしない。 「富貴名誉、道徳より来たるものは、山林中の花の如く、おのずから是れ舒徐繁衍、功業より来たるものは盆榼中の花の如く、便ち遷徙廃興あり。若し権力をもって得たるものは、瓶鉢中の花の如く、その根植えず、その萎むこと立って待つべし」
現代語訳
この思想は、戦争にだけ関わることではありません。平生も持ちたい思想です。世には、成功ほど望ましいものはない、失敗ほど恐ろしいものはない、と思う人が多くいます。そして、いわゆる成功に達するためには、どんな方法でも用いるし、また失敗を免れるためには、どんなことでも憚らない人が多いのです。つまり成功熱に浮かされている人が多いのです。ところが、その成功とは何かと聞くと、たいていは名誉と利益です。この成功、具体的に言えば名利を貴ぶ結果として、人格を測るのにさえ名利を基準にする者が多いのです。たとえば、 「あの人は近ごろ、たいそう成功しました」 と言う。 「どう成功したのですか」 と問い返すと、 「だいぶ金ができました」 とか、 「近ごろだいぶ名が聞こえてきました」 と言う。 私が初めて伊藤公を訪問したとき、人物の大小論を試みたことがありますが、そのとき公は、人物を測る基準は事業にある、と言われました。この一句を考えると、伊藤公には伊藤公なりの事業という文字の解釈があるでしょうが、この句が凡人の耳に入ると、ただちにいわゆる成功という文字に翻訳され、俗な言葉に直すと、 「うまくやった奴が偉い奴」 ということになってしまいます。私は決して名利が悪いとは言いません。名も利も求めずに来たものなら、拒むべきものとは思いません。ところが、名利には、こちらから追いかけたり、他人を傷つけたり、自分の本心に背いて得たりするものと、天から降る露のようにひとりでに身に至るものとがあります。かといって、決して果報は寝て待てという意味ではありませんが、自分が正しいと信じることさえやっていれば、名利が来ようが来まいが、あえて気にかけるべきではないでしょう。真の成功とは、自分の本心に背かず、自分の義務と思うことをまっとうする、その一点にあるのであって、失敗とは、自分の本心に背き、自分の任務を怠ることにあります。ですから、成功だの失敗だのということは、世の人にはなかなか分かるものではありません。リー将軍が失敗したというが、本人は失敗を重く見なかったでしょう。古人の教えにも、富貴や名誉を必ずしも避けない、その代わりことさらに迎えもしない、とあります。 「富貴や名誉が道徳から来るものは、山林の中の花のようで、おのずと伸びやかに繁茂する。功績や事業から来るものは、鉢植えの花のようで、移し替えられたり廃れたりすることがある。権力によって得たものは、花瓶に挿した花のようで、根を張らず、しおれるのを立って待つほどである」
解説

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
-
自警録・第十章 人生の成敗・輿論を標準として成敗は測られぬリー将軍の治績を顧みても、これに変わったことはない。彼に私淑する者は、彼の寡をもって北方の衆に敵し得たとか、南軍の貧をもって北軍の富に当たった、某戦場においては某将軍を破った、某月某日には某所において漲る流れを冒して川越えをなしたとか、その他かくのごとき逸事がある、かくのごとき軍功があると、言を極めて彼の徳と彼の力を称揚する。これらの賛辞が将軍の耳に入ったときは、十里歩いてほめられる僕の感とさらに変わった事はなかったろう。 またこれに反しなにゆえに彼が某戦場において、某将軍を某地に向けなかったか、なにゆえに某月某日に、北方軍を某地において衝かなかったか、なにゆえに彼は某所の包囲の時に、かくかくの作戦をしなかったかと、岡目八目や、あとから出る下司知恵を振りまわして、彼を非難する声がさかんになった時は、彼の心に起こった考えは、恐らく僕が十里以上の遠足をしなかったと非難されると同じことであったろう。 世を渡るにはまったく輿論を無視するわけにはいかぬけれども、世人の考えをのみ標準として成敗を測ることは、はなはだはかなき業である。勝つも敗くるも、失敗するも成功するも、その基は各自の心のうちに置いてこそ、真の成敗の味わいが分かるものである。成敗を慮るには立脚の地歩によりてどうとも考え得らるる場合が多い。これはしまったと思うことも静かに見つめ、自己の心に顧みて悪意なきを悟れば、いわゆる失敗は恥ずかしくもなければ、痛くもないことがしばしばある。自己の心の据えどころこそ成敗を測る尺度であって、この尺度が曲がらぬ以上は、いかなる失敗に遭遇しても心に憂うることがない、これ霊丹一粒、鉄を点じて金と成すものか。
-
自警録・第十一章 人生の決勝点・標準高き勝利かく思うと負けたことを遺憾とするははなはだ愚なりと思う。ことに勝負の標準が一時的、人為的、時勢的のものであれば、なおさらそうである。いわゆる負けたからとて自分の人格の下がる訳でもなく、また真価を傷つけるものでもない。これがためにあるいは無知の人の笑いを招くことはあろう。しかし笑いも無知の人の笑いなる以上は気にするほどのこともない。 しかるに世の中にはともするとただ勝てばよいと、決勝点の何たるを問わず一向に勝つことのみを快しとする者が多い。たとえば経済競争において勝負を争う時は金が決勝点である。この場合には善かれ悪しかれ、金さえ儲ければ勝利者と思う風がある。 今日普通に成功者と称する輩の中にも、いかなる方法によりて今日の位地を得たかというと、はなはだ怪しげな道を進んだことが分かる。少し高い決勝点に照らせば、まさしく敗北者と称すべき者で世に時めく者が少なくない。僕はあながち勝者を妬んで皮肉を吐く考えもなければ、誰がどうと具体的に指さすことを能くせぬが、かくのごとき人が世にありそうであり、またありと聞いている。世の中にはかかる人を重んじている。しかしてかかる勝利を得損なった人が失敗者に数えられる。ゆえに世間の笑いを避くるため心ならずも、標準の決勝点を引下げ、潔からずと思いながらも、俗界の喜ぶ勝鬨を挙げんとする者が多くなり、しかしていわゆる失敗者となるを不本意とするにいたる。しかし誰人が不正の名利を抱えて、心のうちに満足を覚ゆるか。世人に向かっては大きな顔もしようなれ、自己に顧みてはなはだ不安の念を抱くや疑いない。すなわち不正不義の手段によりて獲た名利すなわち勝利は、己れの本当の心に背いているに違いない。 しかして先にも述べた通り勝つとは我が意を遂ぐるの謂であるなら、不正不利の名利は敗北と称すべきもので、勝利というべきものでない。
-
自警録・第十章 人生の成敗・米国南北戦争における名将かねて米国に遊学していたころから、見物してみたいと思っておったいわゆる南部地方に、四年前しばらく滞在し、かの南北戦争の舞台とも言うべき場所を視察し、また当時、事に当たった人々の子弟に交わって旧事を聞き、またなお今日戦争の傷の癒えない情態を見て、種々なる感想を起こした。経済学者や社会学者・政治家・経世家の眼をもって見たならば、学ぶべき廉が多々あろうと思う。しかし凡庸の眼をもって視察し、平凡の耳をもって歴史を聴く僕のことであるから、やかましい議論はしばらく措いて、いささか個人的の教訓に資すべき事柄を談したいと思う。 なかんずく僕の心を最も強く打ったものは、南軍の総司令官でありしリー(R. E. Lee)将軍の人格である。僕はこの人の名と性格とを青年時代より聞いて、彼の伝記を読む前に、すでに彼に対する敬愛の念が深かった。正直にいうと、僕はこの敗軍の将に対する同情と敬愛の念は、彼の軍を敗り、彼をして軍門に降らしめたグラント将軍より、いっそう強く常に懐しく思っている。 彼が三十万の兵をもって、百万の兵に当たった古戦場に足を留め、彼の破れて北軍に降ったのち、ほとんど名も無き田舎中学の校長となって身を終ったその地方を巡回して、いよいよ同氏の人格の高朗なるを知って、いよいよ追慕の念が深くなった。しかし今ここにリー将軍の伝記を述べる考えはない。僕は彼のいわゆる失敗せるに鑑みて、そもそも失敗とはいかなるものであるかという事について、少しく感じたことを述べたい。
-
自警録・第十章 人生の成敗・彼は成敗よりも任務の遂行に力めた(1)歴史は彼をして失敗の人と命名する。みずからも敗軍の将たることを承認している。彼が前記の中学校の校長であったとき、不勉強な生徒を譴責する折があった。その節彼はこの青年に向かって、 「君はもっと勉強しないと、やりそこなう(fail)から、大いに奮発せんといかんぞ」 と言ったときに、この青年が、 「将軍、あなたは、やりそこなった(failure)方ではありませんか」 と答えた。これを聞いた将軍は、 「君の言う通りだからわが輩のごとき経験を君にさせたくない」 と述べたという。この青年ははなはだ無礼な過言を述べたように見えるが、その実、将軍に対して同情と敬畏の念を顕す考えであったという。すなわちやりそこない、失敗なるものは、恥ずるものじゃありましょうが、あなたのごとき人でも、なお失敗は免れないではありませんかと言う意味であったという。どれほど深い考えをもって、この青年が自分の不勉強なることを言いわけする考えであったか判らんが、とにかく世のいわゆる失敗なるものは、英雄にも聖人にも君子にも、免れ難きものであるという観念は、彼の言葉の裏に顕れている。リー将軍がこれしきの事が判らぬではない。 ちかごろ出版になった有名なる文豪ページ(W. H. Page)氏のリーの伝記を見ると、幾度となく戦場から、あるいは南方のときの連邦大統領あるいは夫人に送った手紙の内に、
-
自警録・第十章 人生の成敗・成敗は世人の眼に見えぬ(1)その他歴史に現れて失敗した人で、その実みずからは失敗せぬと思った人もたくさんあろう。成敗は実に世の眼には見えないものである。如何となれば当人の標準とする事と、世の標準とする事とたいそう違う。たとえば僕が朝起きて今日は天気もよいし、気分もいいから、一奮発して十里先へ遠足する、とこう心の内に十里塚を目的として出発する。夕刻に目的地に達すれば、これすなわち僕が成功したのである。自分の心に期しただけの事を遂げたのである。 しかるに世間はこれを見て成功と言うか言わぬか。世間ではこれをもって失敗と笑う人もある、また成功と褒むる人もある。しかして褒める人のうちにもこれを僕と同じような考えをもって、まあまあ思っただけのことをやったと、平易にいわばあたり前に考える人は少なかろう。如何となれば僕のその日の心持ちを知らんから、その日ことさら気分がよかった、天気が清朗であったなどということは考えの内に入れてくれぬから、同じく成功とみなしても、僕が思う程度に成功と思ってくれる人ははなはだ少ない。
-
『論語と算盤』成敗と運命・失敗らしき成功これらの事実より推して考えると、世のいわゆる成功は必ずしも成功でなく、世のいわゆる失敗は必ずしも失敗でないということがすこぶる明瞭になるが、会社事業その他一般営利事業のごとき、物質上の効果を挙げるのを目的とするものにあっては、もし失敗すると、出資者その他の多くの人にも迷惑を及ぼし多大の損害を掛ける事があるから、何が何でも成功するように努めねばならぬものであるが、精神上の事業においては、成功を眼前に収めようとするごとき浅慮をもってすれば、世の糟を喫するがごとき弊に陥って、毫も世道人心の向上に貢献するを得ず、永遠の失敗に終わるものである。例えば新聞雑誌のごときものを発行して、一世を覚醒せんとしても、この目的を達するがために時流に逆らって反抗すれば、時にあるいは奇禍を買って、世のいわゆる失敗に陥り、苦い経験をなめねばならぬごとき場合がないとも限らぬのである。しかしそれは決して失敗ではない。