自警録 / 第八章 世に蔓延る者は憎まる・世に蔓延る者は憎まる
「憎まれ児世にはびこる」という諺があるが、わが輩はこれを顛倒して、世にはびこる者は憎まれるということも、また真実であると思う。いったいこの「はびこる」とはいかなる意味か、『言海』を見ると横行、強梁などいう漢字を充用し、這いひろがる意とある。一般には、とかく悪い意味に用うるも、文字より考えれば必ずしも悪い意味のみでなく、延びひろがり繁る意味である。米麦を蒔いた田畑に米麦がよく繁茂するのも、害草が繁茂するのも、共に同じくはびこるのである。一は有益なる植物なるゆえにこれを喜び、一は邪魔になるゆえにこれを嫌う。喜ぶと嫌うとの差あるも、はびこるうえにおいては二者同一である。また豆を植えかつ豆を穫んと欲するところに、麦が繁茂したならば、たとえ豆よりも尊いにしても、耕作者の目的に適わぬ以上は、やはりこれを害草と同じく取扱わねばならぬ。すなわち悪い意味において麦がはびこるのである。 して見ると、はびこるという文字の意味を悪く解るか解らぬかは、これを用うる人の意によりて異うので、豆を穫んとする人には、麦が悪しき意味にはびこるのであり、麦を穫んとするところに豆が茂れば、豆が同じく悪しき意味にはびこるのである。我々がある目的を達せんとするため、あるいは何らかの欲望を充足せんとする行動に対し、妨害となるものは、我々はただちにこれを有害とみなす。しかるにはびこるほうからいえば、これ自己の天職を完うし、伸びるのである。ゆえに天より見れば彼らは悪い者でない。現に世にいわゆるはびこる人を見るに、なるほど憎まれ勝ちではあるが、親しくその人に接し、その動機や行動を察すると、必ずしも悪人でない、否むしろすこぶる感服することがたくさんある。
書き下し
「憎まれ児世にはびこる」という諺があるが、わが輩はこれを顛倒して、世にはびこる者は憎まれるということも、また真実であると思う。いったいこの「はびこる」とはいかなる意味か、『言海』を見ると横行、強梁などいう漢字を充用し、這いひろがる意とある。一般には、とかく悪い意味に用うるも、文字より考えれば必ずしも悪い意味のみでなく、延びひろがり繁る意味である。米麦を蒔いた田畑に米麦がよく繁茂するのも、害草が繁茂するのも、共に同じくはびこるのである。一は有益なる植物なるゆえにこれを喜び、一は邪魔になるゆえにこれを嫌う。喜ぶと嫌うとの差あるも、はびこるうえにおいては二者同一である。また豆を植えかつ豆を穫んと欲するところに、麦が繁茂したならば、たとえ豆よりも尊いにしても、耕作者の目的に適わぬ以上は、やはりこれを害草と同じく取扱わねばならぬ。すなわち悪い意味において麦がはびこるのである。 して見ると、はびこるという文字の意味を悪く解るか解らぬかは、これを用うる人の意によりて異うので、豆を穫んとする人には、麦が悪しき意味にはびこるのであり、麦を穫んとするところに豆が茂れば、豆が同じく悪しき意味にはびこるのである。我々がある目的を達せんとするため、あるいは何らかの欲望を充足せんとする行動に対し、妨害となるものは、我々はただちにこれを有害とみなす。しかるにはびこるほうからいえば、これ自己の天職を完うし、伸びるのである。ゆえに天より見れば彼らは悪い者でない。現に世にいわゆるはびこる人を見るに、なるほど憎まれ勝ちではあるが、親しくその人に接し、その動機や行動を察すると、必ずしも悪人でない、否むしろすこぶる感服することがたくさんある。
現代語訳
「憎まれっ子世にはばかる」という諺がありますが、わが輩はこれをひっくり返して、世にはびこる者は憎まれる、というのもまた真実だと思います。そもそもこの「はびこる」とはどういう意味でしょうか。『言海』を見ると、横行、強梁などの漢字をあて、這い広がる意とあります。一般には、とかく悪い意味に使われますが、文字から考えれば必ずしも悪い意味ばかりではなく、伸び広がって茂る意味です。米や麦をまいた田畑に米や麦がよく茂るのも、害になる草が茂るのも、同じく「はびこる」ことです。一方は有益な植物だからこれを喜び、他方は邪魔になるからこれを嫌います。喜ぶと嫌うとの差はあっても、はびこるという点では両者は同じです。また、豆を植えて豆を収穫しようとするところに麦が茂ったなら、たとえ麦が豆よりも尊いものだとしても、耕作者の目的にかなわない以上、やはり害草と同じように扱わなければなりません。つまり、悪い意味で麦がはびこるのです。 してみると、はびこるという文字の意味を悪く取るか取らないかは、これを用いる人の考えによって異なります。豆を収穫しようとする人にとっては、麦が悪い意味ではびこるのであり、麦を収穫しようとするところに豆が茂れば、豆が同じく悪い意味ではびこるのです。私たちがある目的を達しようとして、あるいは何らかの欲望を満たそうとして行動するとき、妨げになるものを、私たちはすぐに有害と見なします。しかしはびこるほうから言えば、これは自己の天職を全うし、伸びているのです。ですから、天から見れば、彼らは悪い者ではありません。現に世のいわゆるはびこる人を見ると、なるほど憎まれがちではありますが、親しくその人に接し、その動機や行動を察すると、必ずしも悪人ではなく、むしろ感服することがたくさんあります。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
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自警録・第八章 世に蔓延る者は憎まる・古今の事例はこれを示すこれ我が天職なり、これ我々がまさに履むべき道なりとの確信の下に働ける人、すなわち意志の強き人は世にはびこり、ために何人かの進路を妨げ、人から邪魔視される。聖人君子のごときをもってしても、意志強く、自分の目的をあくまでも貫徹せんとする者は、必ず何人からか邪魔視される。 孔子の言えることまたは為せることは、盗跖より見れば、はなはだ邪魔になったに相違ない。 キリストが無遠慮に自分の思想の実行を力めたから、時の官憲僧侶から邪魔視され、耶蘇ほどにはびこる、嫌なものはないと思われたればこそ、十字架の上にその一生を終わったのである。 またソクラテスの言ったことや為したことが、当時の淫蕩浮華なる風俗の進歩をさえぎったから、彼は青年を毒するものなりと呼ばれて死刑に処せられたのである。 ゆえに、「憎まれもの世にはびこる」というに対照し、世にはびこる者は憎まれるということは、歴史上においてもまたお互いの日常において目撃するところによりても確実なことと思う。何人にも可愛がられるものは世にないと思う。もしかかる人がありとすれば、そは自己の意志なきものである。何人にも程よくお茶を濁すものは、憎まれもせぬ代りにはびこりもせぬ。実際の事にあたり仕事するものにして敵なきものはほとんどない。敵ある以上必ず憎まれる。 我々は目下の政治界においてよくこの事を見ることが出来る。米国の「ポリティシャン」という言葉は政治屋とでも訳すべきだが、いわゆる陣笠の意に用いられ、政治を商売とし、何の政見もなく所信もなき者の意味で軽蔑の意を含んでいる。これに反して一個の定見あり自己の所信を国是として実行する者を「ステーツメン」という。しかるにいかなる政治家にてもその生ける間は敵より政治屋と罵詈讒謗せられる。ゆえにある人が「ステーツメン」の解釈を下して「死んだポリティシャン」なりといった。すなわち世にありて活動している間は世にはびこり非難される。
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自警録・第八章 世に蔓延る者は憎まる・読者中にも必ずかかる経験あらん仮りに読者中憫な人に逢いこれを救った人があったとする。自分は何の求むるところもなく、一片義侠の心をもってしたとするも、一方にはその事たるや偽善からやったとかあるいは慈善ぶっていると非難された経験もあろう。あるいは他に求むるところあり、この挙に出たのであろうと疑われたものもあろう。 読者中、親に孝行してことに目立ったことがあれば、同時に彼奴め親に孝行ぶってるなど批評を受けた経験もあろう。 読者中病身の細君を親切に看護する者あれば、これを褒める者があると同時に、彼奴め嚊に惚いと批評された経験もあろう。 読者中もし小児に何か教えることがあれば、褒める者あると共に、いやに物知りぶると難ぜられたこともあろう。 また読者中繊弱なる女子に助言するなりまたはその他の親切をいえば、彼奴はチト怪しいと疑われたこともあろう。 公の事に奔走すれば野心家と疑われ、老後他人の厄介になるまいと貯蓄に志せば吝嗇奴と侮られ、一挙手、一投足、何事にしても、吾人のする事なす事につき非難を揷むことのなきものはない。これが世の中である。 多く行えば行うほど非難の声が高くなる。世にはびこるというは多く行う人で、こういう人が一番に憎まれる。しかして何もせぬ、あるいはまた責任のない事をするのが一番褒められる。世の中を見渡すに何らの責任ある位地におらず、単に筆鋒なり口先きで批評のみする人が一番評判がよい。今までこれといって局に当たり意志を実行せんとする場所におらぬものは、一番悪く言われぬものである。ゆえに気の弱い者は、 笛ふかず太鼓たゝかずしゝまひの後足となる胸のやすさよ で、何事もせねば非難も憎悪も免れるのである。僕の知人にして、今は故人となったが、生前公職につき藩政に与って大いに尽した人があった。ついに怨みを買って蟄居のあいだに死んだが、自分の経験を一冊の書に綴りて『桜花物語』と題して子孫に遺したが、その人は常に左の古歌を愛吟した。 咲かざれば桜を人の折らまじを桜の仇はさくらなりけり 実にこの歌の通り大小となく仕事するものは、必ず何人かに怨みを受けるものである。いわゆる人から邪魔に思われるものである。 佐藤一斎先生の語に、 「罪なくして愆ちを得る者は非常の人、身一時に屈して、名後世に伸ぶ。罪ありて愆ちを免るる者は奸侫人、志一時に得て、名後世に辱ず。古の天定まりて人に勝つとは是れなり」
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自警録・第八章 世に蔓延る者は憎まる・善事の背後にも敵があるついでに加えて述べたきことは、与一の場合にも彼が扇を覗うあいだには、必ず彼の失敗を祈ったものがあったであろう。しかもそれは平家方のみでなかったであろう。また奥州より出て来たあの田舎武士が、御大将の眼前で晴れの武術を示すなど分に過ぎたる果報者だと羨んだものもあったろう。また彼の技倆を疑える者は、彼が遣り損えばよい、自分が代って見事に遣って見ようというものもあったであろう。あまり邪推をまわすようではあるが、ふつうの人情より考えてかくありそうに思われる。彼が成功したと同時に、大喝采を受けたことは歌にも歴史にも記してある通りであるが、またその後においてただちに彼の名誉を傷つけんとしたり、彼を怨み嫉んだ者から見れば、彼が人目を惹き世にはびこったことを喜ばぬものがいかに多かったであろう。 わが輩は話にまぎれてとかく昔時のことのみを述べたが、我々が今日においてしかも毎日、些細なことにおいてもそれぞれに所信と決心とをつらぬくにはどこかに喜ばぬ人あり、確かに自分と衝突しているものがあると覚悟する必要がある。僕は性来臆病なるゆえ、僕自身の為すことにおいてこれは万遍なく済んだなと思うごとに、その結果、必ず不愉快なることを数多聞かねばならぬと思わぬことはない。またたまたま善事を為したと心の底に喜ぶときに、これがためにいかなるところに、いかなる人が如何なることを企て、この善事を覆さんとするものがあろうと、恐れを懐かぬことはない。 こういう考えが善いというのではない。聖人ならこんな考えなく、何の憚るところなく善事を行るであろうが、普通人はしばしば善事をするのでなく、たまたま衷心より世のためだと思うことをすると、一方に臆病の考えが起こり、これを害する人も必ず起こると覚悟するを要す。僕自身のわずかの経験においてもそういうことが多い。しかしてまた世上聖人君子が少なき以上、同じ経験を履めるものが多いであろう。
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自警録・第七章 譏謗に対する態度・知らぬ人の批評には弁解が要らぬもっとも悪口でも右のごとく軽いものばかりと限らぬ。ときには念の入った、しかも非常に念入りのものもあり、中には道具立てした悪口もあり、数人かかって、それぞれ手を廻わし、こちらに罠をかけ、あちらに垣を結び、もって他を陥れんとする、手配り広き悪口もある。 こういう悪計にかかってはよほどの知者ならねば、とうていこれを免れられぬものである。しかし五人かかろうが、十人かかろうが、知恵を絞り出して吐く悪口は、つまりそれ以上の知恵さえあれば、ことごとくこれを無効ならしむることが出来る。しかし人の批評や悪口を取消すために、自分がそんなに骨折って知恵を運らす必要があるか、むろん悪口の種類にもよるが、同じく脳漿を絞るなら、悪口に対し弁護するよりもまだまだ適切な用途が多くあると思う。 僕もしばしば人から種々の批評を受け、家族や友人からこれを弁解するように勧められたこともあるが、僕よりも知恵のすぐれた人に対し、毀謗の理由は薄弱なりとしても、自分の受けた悪口を弁護すればするほど、ますます自分が言い負かされる。しからば僕よりも知恵の劣った人が悪口するなら、自分より劣ったものを相手とし、事々しく弁解する労を取るだけの価値がない。加之時日の進行中において自然に消滅する悪口と思えば、さほど気にかけることはない。ことに自分をよく知らぬものが、彼是批評することは、当を得ないことが多いから、自分を知れる人にその判断を任すれば事は足る。 四、五年前、ある青年が僕を訪ね来て、自分は非常に窮境に陥り衣服にも窮している、どうか助力を乞いたいと訴えたが、彼がその窮境に陥ったことの説明として世間はすべて自分を誤解したといったから、僕は彼の談を遮り、世間が君を誤解しても、君の知己が誤解しなければよいではないか。 世間とは君を知らぬ人の謂いである。君を知らぬ人がかれこれ批評することは、さほど意に介するに及ばぬ。失敬ながら君のことはいかなる事があったか知らぬが、よし新聞等に二、三回掲げられたことがあっても、僕ら別に耳にしたこともないし、したがって君に対して愛憎の念も何もない。すなわち君を知らぬわが輩は君のいわゆる世間であるが、わが輩は君を何とも思わぬといった。
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自警録・第八章 世に蔓延る者は憎まる・意志の遂行と社交の遠慮はいかに調和するか人がこの世を渡るに、人からかれこれと批評され憎まれるのは、何人も嫌である。嫌だからとて「瓢箪の川流れ」のごとく浮世のまにまに流れて行くことは志ある者の快しとせざるところ、むしろ愧ずるところである。ゆえにすでに自分に所信あれば反対を受くる覚悟をもってこれを実行するに力めねばならぬ。もちろんかくいったからとて何事につけても無遠慮に勝手放題に傍若無人に行えというにあらぬ。独り孤立して世渡りの出来ぬ以上、他人に相当に遠慮することは、社会生存の必要条件である。 山から山に渡るには頂上より頂上まで行くのが最も近道であるが、実際山より山に遷るには、一度麓の渓間に降りてまたまた嶮しき峰をよじ登らねばならぬ。一直線に行けば近くとも、自分の前に人があらば迂廻して行くだけの遠慮がなくてはならぬ。しかし迂廻の必要があるからとて、進むことを中止するのは卑怯である。かれこれ言われるからとて遠慮するのも卑怯である。 しからばどの程度まで遠慮せねばならぬか。この程度は概括的に定むることは出来ぬ。周囲の状態やら各自の性質やらあるいは為さんとする目的やらによりて度合いが異るので、我々の犠牲として払うべき意志は我々が衣服を買うときの代価のごときものである。いったい衣服はなんぼするものかという質問に対しては何人も一口に答えかねる。なぜなれば衣服にも単衣あり綿衣あり、木綿物もあれば絹織物もある。和服もあれば洋服もある。具体的に個々の衣服について始めて価がきまるのである。単に衣服というただけでは何とも決することが出来ぬ。それと同じく遠慮と遂行の程度は概括的に定めることはほとんど不可能である。 わが輩は折々知人や未知の人より相談を受けるが、その要点は己れの意志と親の意志と相い投合せぬとか、あるいは自分の望むところを世間が容れてくれぬとか、かかる場合にいかなる態度にいずべきかということが多い。わが輩はこれらの相談に対しつねに答える、その事情を詳細に知るにあらざれば、到底門外漢の解決し得るところでないと。
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自警録・第十三章 広く世を渡る心がけ・狭き己れの好き嫌いで世に処するは危険僕の友人に甲という人がある、この人のもとに同じ友人の乙が行き、 「甲君、君は丙君と仲がよいか」 と聞く。甲は、 「別に仲の悪いことはない、永い間の友人だから」 といえば、乙はやや驚いた顔して、 「何のためだろう、丙はあちこちで君の悪口を言い歩くよ」 と告げたので、甲はいかにも意外に思い、しばしば会っているに丙は自分に対し別に悪意を懐かぬようだが、それでかれこれ自分を非難するのは合点がゆかぬと思うと同時に、して見ると丙は余程、二心あるもので、僕に向かってはよい顔しながら、蔭にまわると悪口する、はなはだ卑むべき人であると思って以来、丙を見てもロクに挨拶しなくなった。ところがあるとき丁より、丙はたいへん親切な男である、今これこれの人を世話しているが、まことに感心だと聞き、甲は始めて翻然として悟るところあり、ああ、やはり丙は善い人である。しかし己れを嫌っている。己れとは性質が違うから彼は僕を非難するのであろう、僕を嫌うからとて悪人とはいわれぬ。やはり丙は善い人だと考え直して以来、甲はいっそう丙を尊敬して、交わるようになったことがある。 僕は人と交わるにはこの甲のごとき心持ちをもってしたいと思う。よし甲が僕を嫌っても、好き嫌いは各自の性質に存するもので、我が甲に嫌われたとて我は悪い人でなく、またその代わり彼も僕を嫌うために彼を悪人と称することはできぬ。かく思えば世の中は広くなる。嫌いな者でも正しく見えたり、嫌な者でもかえって善く見えたり、人のなす事することが美しく見えて来る。到るところ青山ありと昔の人のいったのは、かくのごとき心の持ち方をいうのではないか。 せまき己れの好き嫌いを標準として世を渡る以上は、さなきだにせまき世の中がますますせまくなり、さなきだに憂き世の中がいっそう憂くなって、人を恨み己れを恨み、天を怨み、晴天にわざと暗雲を作りて不愉快に一生を送るようなものである。