自警録 / 第八章 世に蔓延る者は憎まる・古今の事例はこれを示す
これ我が天職なり、これ我々がまさに履むべき道なりとの確信の下に働ける人、すなわち意志の強き人は世にはびこり、ために何人かの進路を妨げ、人から邪魔視される。聖人君子のごときをもってしても、意志強く、自分の目的をあくまでも貫徹せんとする者は、必ず何人からか邪魔視される。 孔子の言えることまたは為せることは、盗跖より見れば、はなはだ邪魔になったに相違ない。 キリストが無遠慮に自分の思想の実行を力めたから、時の官憲僧侶から邪魔視され、耶蘇ほどにはびこる、嫌なものはないと思われたればこそ、十字架の上にその一生を終わったのである。 またソクラテスの言ったことや為したことが、当時の淫蕩浮華なる風俗の進歩をさえぎったから、彼は青年を毒するものなりと呼ばれて死刑に処せられたのである。 ゆえに、「憎まれもの世にはびこる」というに対照し、世にはびこる者は憎まれるということは、歴史上においてもまたお互いの日常において目撃するところによりても確実なことと思う。何人にも可愛がられるものは世にないと思う。もしかかる人がありとすれば、そは自己の意志なきものである。何人にも程よくお茶を濁すものは、憎まれもせぬ代りにはびこりもせぬ。実際の事にあたり仕事するものにして敵なきものはほとんどない。敵ある以上必ず憎まれる。 我々は目下の政治界においてよくこの事を見ることが出来る。米国の「ポリティシャン」という言葉は政治屋とでも訳すべきだが、いわゆる陣笠の意に用いられ、政治を商売とし、何の政見もなく所信もなき者の意味で軽蔑の意を含んでいる。これに反して一個の定見あり自己の所信を国是として実行する者を「ステーツメン」という。しかるにいかなる政治家にてもその生ける間は敵より政治屋と罵詈讒謗せられる。ゆえにある人が「ステーツメン」の解釈を下して「死んだポリティシャン」なりといった。すなわち世にありて活動している間は世にはびこり非難される。
書き下し
これ我が天職なり、これ我々がまさに履むべき道なりとの確信の下に働ける人、すなわち意志の強き人は世にはびこり、ために何人かの進路を妨げ、人から邪魔視される。聖人君子のごときをもってしても、意志強く、自分の目的をあくまでも貫徹せんとする者は、必ず何人からか邪魔視される。 孔子の言えることまたは為せることは、盗跖より見れば、はなはだ邪魔になったに相違ない。 キリストが無遠慮に自分の思想の実行を力めたから、時の官憲僧侶から邪魔視され、耶蘇ほどにはびこる、嫌なものはないと思われたればこそ、十字架の上にその一生を終わったのである。 またソクラテスの言ったことや為したことが、当時の淫蕩浮華なる風俗の進歩をさえぎったから、彼は青年を毒するものなりと呼ばれて死刑に処せられたのである。 ゆえに、「憎まれもの世にはびこる」というに対照し、世にはびこる者は憎まれるということは、歴史上においてもまたお互いの日常において目撃するところによりても確実なことと思う。何人にも可愛がられるものは世にないと思う。もしかかる人がありとすれば、そは自己の意志なきものである。何人にも程よくお茶を濁すものは、憎まれもせぬ代りにはびこりもせぬ。実際の事にあたり仕事するものにして敵なきものはほとんどない。敵ある以上必ず憎まれる。 我々は目下の政治界においてよくこの事を見ることが出来る。米国の「ポリティシャン」という言葉は政治屋とでも訳すべきだが、いわゆる陣笠の意に用いられ、政治を商売とし、何の政見もなく所信もなき者の意味で軽蔑の意を含んでいる。これに反して一個の定見あり自己の所信を国是として実行する者を「ステーツメン」という。しかるにいかなる政治家にてもその生ける間は敵より政治屋と罵詈讒謗せられる。ゆえにある人が「ステーツメン」の解釈を下して「死んだポリティシャン」なりといった。すなわち世にありて活動している間は世にはびこり非難される。
現代語訳
これが自分の天職である、これが自分たちの踏むべき道であるという確信のもとに働く人、つまり意志の強い人は、世にはびこり、そのために誰かの進路を妨げ、人から邪魔者扱いされます。聖人君子のような者でさえ、意志が強く、自分の目的をあくまでも貫こうとする者は、必ず誰かから邪魔者扱いされます。 孔子の言ったことや行ったことは、盗跖から見れば、きっとひどく邪魔だったに違いありません。 キリストは遠慮なく自分の思想の実行につとめたため、当時の官憲や僧侶から邪魔者扱いされ、イエスほど世にはびこる嫌なものはないと思われたからこそ、十字架の上でその一生を終えたのです。 またソクラテスの言ったことや行ったことが、当時の淫蕩で浮ついた風俗の進歩を妨げたので、彼は青年を毒する者と呼ばれて死刑に処せられたのです。 ですから、「憎まれっ子世にはばかる」に対して、世にはびこる者は憎まれる、というのは、歴史上でも、また私たちの日常に目にするところからも、確実なことだと思います。誰からも可愛がられる者は世にいないと思います。もしそのような人がいるとすれば、それは自己の意志のない者です。誰に対してもほどよくお茶を濁す者は、憎まれもしない代わりに、はびこりもしません。実際の事にあたって仕事をする者で、敵のない者はほとんどありません。敵がある以上、必ず憎まれます。 私たちは、現在の政治の世界でも、このことをよく見ることができます。アメリカの「ポリティシャン」という言葉は、政治屋とでも訳すべきものですが、いわゆる陣笠の意味で使われ、政治を商売とし、何の政見も所信もない者を指し、軽蔑の意を含んでいます。これに対して、一つの定見を持ち、自己の所信を国の方針として実行する者を「ステーツマン」といいます。ところが、どんな政治家でも、生きている間は、敵から政治屋とののしられ、そしられます。そのため、ある人が「ステーツマン」の解釈を下して、「死んだポリティシャン」だと言いました。つまり、世にあって活動している間は、世にはびこり、非難されるのです。
解説

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自警録・第八章 世に蔓延る者は憎まる・世に蔓延る者は憎まる「憎まれ児世にはびこる」という諺があるが、わが輩はこれを顛倒して、世にはびこる者は憎まれるということも、また真実であると思う。いったいこの「はびこる」とはいかなる意味か、『言海』を見ると横行、強梁などいう漢字を充用し、這いひろがる意とある。一般には、とかく悪い意味に用うるも、文字より考えれば必ずしも悪い意味のみでなく、延びひろがり繁る意味である。米麦を蒔いた田畑に米麦がよく繁茂するのも、害草が繁茂するのも、共に同じくはびこるのである。一は有益なる植物なるゆえにこれを喜び、一は邪魔になるゆえにこれを嫌う。喜ぶと嫌うとの差あるも、はびこるうえにおいては二者同一である。また豆を植えかつ豆を穫んと欲するところに、麦が繁茂したならば、たとえ豆よりも尊いにしても、耕作者の目的に適わぬ以上は、やはりこれを害草と同じく取扱わねばならぬ。すなわち悪い意味において麦がはびこるのである。 して見ると、はびこるという文字の意味を悪く解るか解らぬかは、これを用うる人の意によりて異うので、豆を穫んとする人には、麦が悪しき意味にはびこるのであり、麦を穫んとするところに豆が茂れば、豆が同じく悪しき意味にはびこるのである。我々がある目的を達せんとするため、あるいは何らかの欲望を充足せんとする行動に対し、妨害となるものは、我々はただちにこれを有害とみなす。しかるにはびこるほうからいえば、これ自己の天職を完うし、伸びるのである。ゆえに天より見れば彼らは悪い者でない。現に世にいわゆるはびこる人を見るに、なるほど憎まれ勝ちではあるが、親しくその人に接し、その動機や行動を察すると、必ずしも悪人でない、否むしろすこぶる感服することがたくさんある。
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自警録・第八章 世に蔓延る者は憎まる・読者中にも必ずかかる経験あらん仮りに読者中憫な人に逢いこれを救った人があったとする。自分は何の求むるところもなく、一片義侠の心をもってしたとするも、一方にはその事たるや偽善からやったとかあるいは慈善ぶっていると非難された経験もあろう。あるいは他に求むるところあり、この挙に出たのであろうと疑われたものもあろう。 読者中、親に孝行してことに目立ったことがあれば、同時に彼奴め親に孝行ぶってるなど批評を受けた経験もあろう。 読者中病身の細君を親切に看護する者あれば、これを褒める者があると同時に、彼奴め嚊に惚いと批評された経験もあろう。 読者中もし小児に何か教えることがあれば、褒める者あると共に、いやに物知りぶると難ぜられたこともあろう。 また読者中繊弱なる女子に助言するなりまたはその他の親切をいえば、彼奴はチト怪しいと疑われたこともあろう。 公の事に奔走すれば野心家と疑われ、老後他人の厄介になるまいと貯蓄に志せば吝嗇奴と侮られ、一挙手、一投足、何事にしても、吾人のする事なす事につき非難を揷むことのなきものはない。これが世の中である。 多く行えば行うほど非難の声が高くなる。世にはびこるというは多く行う人で、こういう人が一番に憎まれる。しかして何もせぬ、あるいはまた責任のない事をするのが一番褒められる。世の中を見渡すに何らの責任ある位地におらず、単に筆鋒なり口先きで批評のみする人が一番評判がよい。今までこれといって局に当たり意志を実行せんとする場所におらぬものは、一番悪く言われぬものである。ゆえに気の弱い者は、 笛ふかず太鼓たゝかずしゝまひの後足となる胸のやすさよ で、何事もせねば非難も憎悪も免れるのである。僕の知人にして、今は故人となったが、生前公職につき藩政に与って大いに尽した人があった。ついに怨みを買って蟄居のあいだに死んだが、自分の経験を一冊の書に綴りて『桜花物語』と題して子孫に遺したが、その人は常に左の古歌を愛吟した。 咲かざれば桜を人の折らまじを桜の仇はさくらなりけり 実にこの歌の通り大小となく仕事するものは、必ず何人かに怨みを受けるものである。いわゆる人から邪魔に思われるものである。 佐藤一斎先生の語に、 「罪なくして愆ちを得る者は非常の人、身一時に屈して、名後世に伸ぶ。罪ありて愆ちを免るる者は奸侫人、志一時に得て、名後世に辱ず。古の天定まりて人に勝つとは是れなり」
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自警録・第二十五章 理想と実現・主義を抱ける者の世渡りの覚悟一種の思想をもって世渡りを企てる者は、同じ思想を抱いている人のうちにはもっともよく受けいれられて、いわゆる調子よく世渡りもできるが、異なった思想を抱いている者、あるいはなんの思想をも抱かずに世渡りをする者に対しては、はなはだ面白からぬ印象を与えるがために、とかく彼此の批評を受けたり、あるいは、ときにはそれがために迫害も凌がねばならぬことは承知せねばならない。 普通にいう世渡りの上手だというのは、ただ無主義で無定見で無思想で、流るるままに浮かんでゆくを称するのであるが、いやしくもいずれかの主義を抱いた者は、一時調子よいことがあっても、浮き沈みのあることは覚悟せねばならない。またこの反対の勢力の風波に会わなければ、思想も練ることはできない。 僕がもっとも崇拝する人物はキリストのほかにソクラテスとリンカーンであるが、二人とも生きているあいだに名声さかんで、一時流行児となって大いにもてはやされたが、ついにその最後は世人の皆知っているとおりである。
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自警録・第十章 人生の成敗・ギリシアのソクラテスを見よむかしギリシアの哲学者ソクラテスのもとに、ある兇漢が来て、さんざん悪口を言って帰った。かたわらに聞いておった門弟が、哲学者に向かって、 「先生あいつ奴、いかにも憎い奴でございます」 といったときに、哲学者は泰然として、 「なぜにくい」といったら、 「あんなに先生を恥ずかしめたのがにくい」 といった。彼は笑いながら、 「お前は少し考え違いをしている。彼はわが輩を恥ずかしめた考えかも知れないが、俺はちっとも恥ずかしめられたとは思わない。自分が恥でも受けたような顔をしとったかね」 と答えたという。失敗もその通り、世の中で何某が大いに失敗したと四面楚歌の声が聞こえても、本の当人はどこを風が吹くかという顔をしていることがたまさかある。二千四百年前に、ソクラテスがアテネの裁判所に召喚せられ、有罪の宣告を受けて、獄屋に投ぜられたときには、アテネの者が皆々嘲り笑って、とうとうあのおしゃべり爺も、あの年になって、本性露見して畳の上でくたばりそこなったわい、と評判を立てて、もし当時アテネに新聞があったものなら、いかに当時の記者が論説やら雑報に忙しく彼の罪状を書き立て、彼がその日まで口に唱えた教訓はまったく偽善であったとか、彼の純潔なる素行はたくみに人を欺くの方法であって、その実、彼がかくのごとき事もしたであろう、ああいう事もしたと、ありとあらゆる捏造説を書き立てたであろう。 基督がゴルゴタの山上で、かの非命の最期を遂げたごときも、世人は、あの男もとうとう尻尾を現して、あのざまの死に方をしたとか、表向きには君子顔をしておっても、蔭ではだいぶ不仕末の事があったそうだ、社会主義も唱えたそうだ、某婦人と仲がよかったそうだ、謀叛の目論見さえしたそうだ、始終下等な女や悪党の仲間につき合っておったそうだ、折々は魔法みたいな事をして愚民を驚かしたそうだ、始終猫撫声をして女子供を手なずけたそうだなど、その他あらゆる悪口をもって、彼は見事に失敗したなどといったであろう。いずくんぞ知らん敗けたと思った人が最後の勝利者たることを。 負けて退く人を弱しと思ふなよ智恵の力の強き故なり
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自警録・第八章 世に蔓延る者は憎まる・意志の遂行と社交の遠慮はいかに調和するか人がこの世を渡るに、人からかれこれと批評され憎まれるのは、何人も嫌である。嫌だからとて「瓢箪の川流れ」のごとく浮世のまにまに流れて行くことは志ある者の快しとせざるところ、むしろ愧ずるところである。ゆえにすでに自分に所信あれば反対を受くる覚悟をもってこれを実行するに力めねばならぬ。もちろんかくいったからとて何事につけても無遠慮に勝手放題に傍若無人に行えというにあらぬ。独り孤立して世渡りの出来ぬ以上、他人に相当に遠慮することは、社会生存の必要条件である。 山から山に渡るには頂上より頂上まで行くのが最も近道であるが、実際山より山に遷るには、一度麓の渓間に降りてまたまた嶮しき峰をよじ登らねばならぬ。一直線に行けば近くとも、自分の前に人があらば迂廻して行くだけの遠慮がなくてはならぬ。しかし迂廻の必要があるからとて、進むことを中止するのは卑怯である。かれこれ言われるからとて遠慮するのも卑怯である。 しからばどの程度まで遠慮せねばならぬか。この程度は概括的に定むることは出来ぬ。周囲の状態やら各自の性質やらあるいは為さんとする目的やらによりて度合いが異るので、我々の犠牲として払うべき意志は我々が衣服を買うときの代価のごときものである。いったい衣服はなんぼするものかという質問に対しては何人も一口に答えかねる。なぜなれば衣服にも単衣あり綿衣あり、木綿物もあれば絹織物もある。和服もあれば洋服もある。具体的に個々の衣服について始めて価がきまるのである。単に衣服というただけでは何とも決することが出来ぬ。それと同じく遠慮と遂行の程度は概括的に定めることはほとんど不可能である。 わが輩は折々知人や未知の人より相談を受けるが、その要点は己れの意志と親の意志と相い投合せぬとか、あるいは自分の望むところを世間が容れてくれぬとか、かかる場合にいかなる態度にいずべきかということが多い。わが輩はこれらの相談に対しつねに答える、その事情を詳細に知るにあらざれば、到底門外漢の解決し得るところでないと。
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自警録・第八章 世に蔓延る者は憎まる・善事の背後にも敵があるついでに加えて述べたきことは、与一の場合にも彼が扇を覗うあいだには、必ず彼の失敗を祈ったものがあったであろう。しかもそれは平家方のみでなかったであろう。また奥州より出て来たあの田舎武士が、御大将の眼前で晴れの武術を示すなど分に過ぎたる果報者だと羨んだものもあったろう。また彼の技倆を疑える者は、彼が遣り損えばよい、自分が代って見事に遣って見ようというものもあったであろう。あまり邪推をまわすようではあるが、ふつうの人情より考えてかくありそうに思われる。彼が成功したと同時に、大喝采を受けたことは歌にも歴史にも記してある通りであるが、またその後においてただちに彼の名誉を傷つけんとしたり、彼を怨み嫉んだ者から見れば、彼が人目を惹き世にはびこったことを喜ばぬものがいかに多かったであろう。 わが輩は話にまぎれてとかく昔時のことのみを述べたが、我々が今日においてしかも毎日、些細なことにおいてもそれぞれに所信と決心とをつらぬくにはどこかに喜ばぬ人あり、確かに自分と衝突しているものがあると覚悟する必要がある。僕は性来臆病なるゆえ、僕自身の為すことにおいてこれは万遍なく済んだなと思うごとに、その結果、必ず不愉快なることを数多聞かねばならぬと思わぬことはない。またたまたま善事を為したと心の底に喜ぶときに、これがためにいかなるところに、いかなる人が如何なることを企て、この善事を覆さんとするものがあろうと、恐れを懐かぬことはない。 こういう考えが善いというのではない。聖人ならこんな考えなく、何の憚るところなく善事を行るであろうが、普通人はしばしば善事をするのでなく、たまたま衷心より世のためだと思うことをすると、一方に臆病の考えが起こり、これを害する人も必ず起こると覚悟するを要す。僕自身のわずかの経験においてもそういうことが多い。しかしてまた世上聖人君子が少なき以上、同じ経験を履めるものが多いであろう。