自警録 / 第七章 譏謗に対する態度・かかる悪口は自然に消える
世間だの世評だのということは、はなはだ漠としたことで、ために一身を処するとか、あるいは思想を変えるとかする価値なきものと思う。しかるに自分をよく知るものが、自分を見捨てることがあるなら、これぞ実に由々しき大事といわねばならぬ。 たとえば学校を預かれる校長に対して、世間がかれこれ非難しても、校長にして生徒に対する関係が依然良好であるならば、世評などはあえて意とするに足らぬ。また会社社長あるいは店の主人に対して種々なる動機より悪口を吐き、その会社の信用を傷つけ、その店を顛覆させる計画あるも、社長なり主人なりが、その部下、重役、株主、すなわち関係の最も近いものに対し、何の不義もなく、何の不正もないならば、一向に意とするに足らぬ。あるいはために一時迷惑を受けることあるも、その迷惑は永遠に継続するものでない。ゆえに種々なる批評があっても、それらは意とするに足らぬ。 西郷南洲翁が慶応年間、京都に集まった薩摩の勇士の挙動はなはだ不穏なりと聞き、これが鎮撫に取りかかったとき、日ごろ西郷に快からぬ人々が西郷の挙動をもって正反対の意味あるがごとくに言い放ち、西郷は名を浪士の鎮撫に藉るが、実はこれを煽動するものであると、島津久光公に告口した。公はこれを聞かれて非常に怒られ、西郷の帰り次第、何人でも差支えなきゆえ、手討にせよとの命令を下した。これを聞いた大久保はそもそも西郷を久光公に推薦したのは自分である。彼が不埒を働いたとすれば、自分もまたその責任を分かたねばならぬと思い、西郷が来るや否や、ただちに彼を兵庫に引連れ、明日君が君公の前に侍すれば、生命はないぞ。到底助からぬものと思えば、むしろここで刺し互えて死する積りだといった時、西郷は、 「ウン、二人死ぬのはつまらぬ。二人が死ねば島津家は真っ暗になってしまう。一人残るがよい。俺は罪を得たから死ぬが、汝は生き残って俺の代りに君公に仕え、二人前を働いてくれ」 といって出仕した。幸いにして何のこともなく一命は助かり、引き続き国事に奔走したが、世には随分念の入った讒言悪口がある。しかしこれがために軽々しく一命を捨て、ヤケとなり、あるいは他を怨むことを要せぬ。ジッとしてそれを放任すれば、自然にその悪口も消え、真実のみが残って、最後の勝利を得る。
書き下し
世間だの世評だのということは、はなはだ漠としたことで、ために一身を処するとか、あるいは思想を変えるとかする価値なきものと思う。しかるに自分をよく知るものが、自分を見捨てることがあるなら、これぞ実に由々しき大事といわねばならぬ。 たとえば学校を預かれる校長に対して、世間がかれこれ非難しても、校長にして生徒に対する関係が依然良好であるならば、世評などはあえて意とするに足らぬ。また会社社長あるいは店の主人に対して種々なる動機より悪口を吐き、その会社の信用を傷つけ、その店を顛覆させる計画あるも、社長なり主人なりが、その部下、重役、株主、すなわち関係の最も近いものに対し、何の不義もなく、何の不正もないならば、一向に意とするに足らぬ。あるいはために一時迷惑を受けることあるも、その迷惑は永遠に継続するものでない。ゆえに種々なる批評があっても、それらは意とするに足らぬ。 西郷南洲翁が慶応年間、京都に集まった薩摩の勇士の挙動はなはだ不穏なりと聞き、これが鎮撫に取りかかったとき、日ごろ西郷に快からぬ人々が西郷の挙動をもって正反対の意味あるがごとくに言い放ち、西郷は名を浪士の鎮撫に藉るが、実はこれを煽動するものであると、島津久光公に告口した。公はこれを聞かれて非常に怒られ、西郷の帰り次第、何人でも差支えなきゆえ、手討にせよとの命令を下した。これを聞いた大久保はそもそも西郷を久光公に推薦したのは自分である。彼が不埒を働いたとすれば、自分もまたその責任を分かたねばならぬと思い、西郷が来るや否や、ただちに彼を兵庫に引連れ、明日君が君公の前に侍すれば、生命はないぞ。到底助からぬものと思えば、むしろここで刺し互えて死する積りだといった時、西郷は、 「ウン、二人死ぬのはつまらぬ。二人が死ねば島津家は真っ暗になってしまう。一人残るがよい。俺は罪を得たから死ぬが、汝は生き残って俺の代りに君公に仕え、二人前を働いてくれ」 といって出仕した。幸いにして何のこともなく一命は助かり、引き続き国事に奔走したが、世には随分念の入った讒言悪口がある。しかしこれがために軽々しく一命を捨て、ヤケとなり、あるいは他を怨むことを要せぬ。ジッとしてそれを放任すれば、自然にその悪口も消え、真実のみが残って、最後の勝利を得る。
現代語訳
世間だの世評だのということは、はなはだ漠然としたもので、そのために身の処し方を変えたり、思想を変えたりする価値のないものだと思います。しかし、自分をよく知る者が自分を見捨てることがあるなら、これこそ由々しい大事といわなければなりません。 たとえば学校を預かる校長に対して、世間があれこれ非難しても、校長と生徒の関係が相変わらず良好であれば、世評などは意に介するに足りません。また会社の社長や店の主人に対して、さまざまな動機から悪口を吐き、その会社の信用を傷つけ、その店をつぶそうとする計画があっても、社長や主人が、その部下、重役、株主、つまり関係の最も近い者に対して何の不義もなく、何の不正もなければ、少しも意に介する必要はありません。あるいはそのために一時迷惑を受けることがあっても、その迷惑は永遠に続くものではありません。ですから、さまざまな批評があっても、それらは気にするに足りません。 西郷南洲翁が慶応年間、京都に集まった薩摩の勇士たちの挙動がはなはだ不穏だと聞き、これを鎮めに取りかかったとき、日ごろ西郷をよく思わない人々が、西郷の行動を正反対の意味であるかのように言いふらし、西郷は浪士の鎮撫に名を借りているが、実はこれを煽動しているのだと、島津久光公に告げ口しました。公はこれを聞いて非常に怒り、西郷が帰り次第、誰でも差し支えないから手討ちにせよとの命令を下しました。これを聞いた大久保は、そもそも西郷を久光公に推薦したのは自分である、彼が不埒を働いたのなら、自分もその責任を分かたなければならないと思い、西郷が来るやいなや、すぐに彼を兵庫に連れて行き、明日君が殿の前に出れば命はない、とうてい助からないと思うので、むしろここで刺し違えて死ぬつもりだ、と言いました。そのとき西郷は、 「うん、二人死ぬのはつまらない。二人が死ねば島津家は真っ暗になってしまう。一人は残るがよい。俺は罪を得たから死ぬが、おまえは生き残って、俺の代わりに殿にお仕えし、二人前の働きをしてくれ」 と言って出仕しました。幸いにして何事もなく一命は助かり、引き続き国事に奔走しましたが、世にはずいぶん念の入った讒言や悪口があるものです。しかしそのために軽々しく命を捨て、やけになり、あるいは他を恨むには及びません。じっとそれを放っておけば、自然にその悪口も消え、真実だけが残って、最後の勝利を得ます。
解説

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史記 越王句践世家二歳にして呉、蠡を帰す。句践、会稽より帰りて七年、其の士民を拊循し、用ひて以て呉に報いんと欲す。大夫逢同諫めて曰く、「国新たに流亡し、今乃ち復た殷給す。繕飾して利を備へば、呉必ず懼れん。懼るれば則ち難必ず至らん。且つ鷙鳥の撃つや、必ず其の形を匿す。今夫れ呉は兵を斉・晋に加へ、怨みは楚・越に深く、名は天下に高く、実は周室を害す。徳少なくして功多く、必ず淫して自ら矜らん。越の為に計るに、斉に結び、楚に親しみ、晋に附きて、以て呉を厚くするに若くは莫し。呉の志広ければ、必ず戦ひを軽んぜん。是れ我其の権を連ね、三国之を伐ち、越其の弊に承ずれば、克つべきなり」と。句践曰く、「善し」と。居ること二年、呉王将に斉を伐たんとす。子胥諫めて曰く、「未だ可ならず。臣聞く、句践は食に味を重ねず、百姓と苦楽を同じくすと。此の人死せずんば、必ず国の患と為らん。呉に越有るは、腹心の疾なり。斉の呉に与けるは、疥癬なり。願はくは王、斉を釈きて越を先にせよ」と。呉王聴かず、遂に斉を伐ち、之を艾陵に敗り、斉の高・国を虜にして以て帰る。子胥を譲む。子胥曰く、「王喜ぶ毋かれ」と。王怒り、子胥自殺せんと欲す。王聞きて之を止む。越の大夫種曰く、「臣、呉王の政を観るに驕れり。請ふ試みに之に粟を貸らんことを嘗み、以て其の事を卜せん」と。貸らんことを請ふ。呉王与へんと欲し、子胥与ふる勿かれと諫む。王遂に之に与ふ。越乃ち私かに喜ぶ。子胥言ひて曰く、「王諫めを聴かず、後三年にして呉其れ墟とならんか」と。太宰嚭之を聞き、乃ち数々子胥と越の議を争ひ、因りて子胥を讒して曰く、「伍員は貌は忠なれども実は忍人なり。其の父兄をすら顧みず、安んぞ能く王を顧みんや。王前に斉を伐たんと欲するや、員彊く諫む。已にして功有り、是を用て反りて王を怨む。王、伍員に備へずんば、員必ず乱を為さん」と。逢同と共に謀り、之を王に讒す。王始め従はず。乃ち子胥を斉に使はす。其の子を鮑氏に託するを聞き、王乃ち大いに怒りて曰く、「伍員果たして寡人を欺けり」と。役より反り、人をして子胥に属鏤の剣を賜ひて以て自殺せしむ。
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説苑・雜言祁射子、秦の惠王に見え、惠王之を說ぶ。是に於いて唐姑之を讒し、復た見ゆるに、惠王怒りを懷きて以て之を待つ。其の說く所異なるに非ざるなり、聽く所の易わればなり。故に徵を以て羽と為すは、絃の罪に非ざるなり。甘きを以て苦しと為すは、味を限るの過ちなり。
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『春秋左氏伝』昭公二十一年 華多僚の讒言宋の華費遂、華貙・華多僚・華登を生む。貙は少司馬為り。多僚は御士為り。貙と相惡む。乃ち諸を公に譖して曰く、「貙將に亡人を納れんとす」と。亟(しばしば)之を言ふ。公曰く、「司馬吾が故を以って、其の良子を亡へり。死亡は命有り。吾以って再び之を亡ふ可からず」と。對へて曰く、「君若し司馬を愛せば、則ち如(しか)ず亡げんには。死如し逃る可くんば、何の遠きことか之れ有らん」と。公懼れ、侍人をして司馬の侍人宜僚を召さしめ、之に酒を飲ましめて、司馬に告げしむ。司馬歎じて曰く、「必ず多僚ならん。吾讒子有りて、殺すこと能はず。吾又死せず。抑君命有り、若何す可き」と。乃ち公と謀りて、華貙を逐はんとし、將に孟諸に田せしめて之を遣らんとす。公之に酒を飲ましめ、厚く之に酬い、賜從者に及ぶ。司馬も亦た之の如くす。張匄之を尤(あや)しみて曰く、「必ず故有らん」と。子皮をして宜僚に承(むか)ふるに劍を以ってして之を訊はしむ。宜僚盡く以って告ぐ。張匄多僚を殺さんと欲す。子皮曰く、「司馬老いたり。登の謂(ため)に甚だし。吾又之を重ねば、亡ぐるに如かざるなり」と。
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