自警録 / 第七章 譏謗に対する態度・言語よりも実行をもって弁解せよ(1)
かくいったならば、あるいは正直の人は、 「人より受ける悪口はそう軽く見るべきものでない。汝は軽い例ばかりを挙げたから、人をしてこれを軽い事のように思わせるが、これが歴史となって百年も二百年、千年も二千年の後までも残り、しかも誤りを伝え世に害毒を流すことが多い。 西洋歴史にていうならクロムエルのごときは、彼を憎む人の言が世に伝わり、いかにも悪党なるかのごとく、数百年間英国の歴史を汚した。また我が国にても石田三成は徳川家の御用史家により、成るべく悪しざまに書かれたため、その人格および事業はすべて曲げて世に伝えられた。教訓よりしても、歴史よりしても、はなはだ望ましからぬ影響を世に及ぼしたように思う。ゆえにいたずらに人を悪口するものがあれば、根底よりその事実を明らかにし、誤謬を改めしむべきが本分である。汝の言のごとくどうでもよい、放任せよというは怪しからぬ」 という人もある。歴史上の事実としては明らかなる証拠を世に伝うることは必要である。円形なるものを眼の悪い人が四角と伝えるものがあれば、確かに円形なりとの事実を証明することは望ましい。しかしこれを冷淡に考うれば、これは歴史上の事実を明らかにするに過ぎぬ。はたしてしからばこれ正邪の問題でなく、真偽の問題である。道徳の問題でなく、歴史上の問題である。
書き下し
かくいったならば、あるいは正直の人は、 「人より受ける悪口はそう軽く見るべきものでない。汝は軽い例ばかりを挙げたから、人をしてこれを軽い事のように思わせるが、これが歴史となって百年も二百年、千年も二千年の後までも残り、しかも誤りを伝え世に害毒を流すことが多い。 西洋歴史にていうならクロムエルのごときは、彼を憎む人の言が世に伝わり、いかにも悪党なるかのごとく、数百年間英国の歴史を汚した。また我が国にても石田三成は徳川家の御用史家により、成るべく悪しざまに書かれたため、その人格および事業はすべて曲げて世に伝えられた。教訓よりしても、歴史よりしても、はなはだ望ましからぬ影響を世に及ぼしたように思う。ゆえにいたずらに人を悪口するものがあれば、根底よりその事実を明らかにし、誤謬を改めしむべきが本分である。汝の言のごとくどうでもよい、放任せよというは怪しからぬ」 という人もある。歴史上の事実としては明らかなる証拠を世に伝うることは必要である。円形なるものを眼の悪い人が四角と伝えるものがあれば、確かに円形なりとの事実を証明することは望ましい。しかしこれを冷淡に考うれば、これは歴史上の事実を明らかにするに過ぎぬ。はたしてしからばこれ正邪の問題でなく、真偽の問題である。道徳の問題でなく、歴史上の問題である。
現代語訳
こう言えば、あるいは正直な人は、 「人から受ける悪口は、そう軽く見てよいものではない。おまえは軽い例ばかりを挙げたから、人にこれを軽いことのように思わせるが、それが歴史となって百年も二百年も、千年も二千年も後まで残り、しかも誤りを伝え、世に害毒を流すことが多い。 西洋の歴史でいえば、クロムウェルのようなものは、彼を憎む人の言葉が世に伝わり、いかにも悪党であるかのように、数百年にわたってイギリスの歴史を汚した。また我が国でも、石田三成は徳川家の御用史家によって、できるだけ悪く書かれたため、その人格や事業はすべて曲げて世に伝えられた。教訓の上からも、歴史の上からも、はなはだ望ましくない影響を世に及ぼしたように思う。だからむやみに人の悪口を言う者があれば、根本からその事実を明らかにして、誤りを改めさせるのが本分である。おまえの言うように、どうでもよい、放っておけというのはけしからん」 と言う人もあるでしょう。歴史上の事実としては、明らかな証拠を世に伝えることは必要です。丸いものを、目の悪い人が四角だと伝えるなら、確かに丸いという事実を証明することは望ましいことです。しかし冷静に考えれば、これは歴史上の事実を明らかにするにすぎません。そうだとすれば、これは正邪の問題ではなく、真偽の問題です。道徳の問題ではなく、歴史の問題です。
解説

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自警録・第七章 譏謗に対する態度・言語よりも実行をもって弁解せよ(2)歴史上の事実としては真実を伝うることは無論必要であるが、お互いの日々の心得としての立場より見て、いかなる心がけにてこの場合に処するかといえば、僕はやはり弁解説明する必要がないと思う。もしこれがために他人に迷惑を及ぼすことがあれば、それは説明する必要もあるが、しからざればこれまた放任して置くべきものと思う。もし強いて弁解するなら、言語をもってせず実行をもって示すべきであると思う。 白隠和尚はその檀家の娘が妊娠して和尚の種子を宿したと白状したとき、世人から生ぐさ坊主と非難されても、平然として、 「ああそうかい」 と言い、生まれた後は、自分でその子を懐きなどしていたが、後、和尚の種子でなく、娘は一時のがれに和尚の名を汚したことが明らかになった時も、また、 「ああそうかい」 といって世間の毀誉褒貶に無頓着であったという。僕は悪口に対してはこの心がけをもって世に処したい。 僕の日ごろ愛読する書物にこういう言がある。 「何をもって謗を熄むる、曰く無弁。何をもって怨を止むる、曰く争わず」 と、また、 「人の我を謗るやその能く弁ぜんよりは、能く容るるに如かず。人の我を侮るや、その能く防がんよりは、能く化するに如かず」と。 実に尽せる言である。
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自警録・第七章 譏謗に対する態度・知らぬ人の批評には弁解が要らぬもっとも悪口でも右のごとく軽いものばかりと限らぬ。ときには念の入った、しかも非常に念入りのものもあり、中には道具立てした悪口もあり、数人かかって、それぞれ手を廻わし、こちらに罠をかけ、あちらに垣を結び、もって他を陥れんとする、手配り広き悪口もある。 こういう悪計にかかってはよほどの知者ならねば、とうていこれを免れられぬものである。しかし五人かかろうが、十人かかろうが、知恵を絞り出して吐く悪口は、つまりそれ以上の知恵さえあれば、ことごとくこれを無効ならしむることが出来る。しかし人の批評や悪口を取消すために、自分がそんなに骨折って知恵を運らす必要があるか、むろん悪口の種類にもよるが、同じく脳漿を絞るなら、悪口に対し弁護するよりもまだまだ適切な用途が多くあると思う。 僕もしばしば人から種々の批評を受け、家族や友人からこれを弁解するように勧められたこともあるが、僕よりも知恵のすぐれた人に対し、毀謗の理由は薄弱なりとしても、自分の受けた悪口を弁護すればするほど、ますます自分が言い負かされる。しからば僕よりも知恵の劣った人が悪口するなら、自分より劣ったものを相手とし、事々しく弁解する労を取るだけの価値がない。加之時日の進行中において自然に消滅する悪口と思えば、さほど気にかけることはない。ことに自分をよく知らぬものが、彼是批評することは、当を得ないことが多いから、自分を知れる人にその判断を任すれば事は足る。 四、五年前、ある青年が僕を訪ね来て、自分は非常に窮境に陥り衣服にも窮している、どうか助力を乞いたいと訴えたが、彼がその窮境に陥ったことの説明として世間はすべて自分を誤解したといったから、僕は彼の談を遮り、世間が君を誤解しても、君の知己が誤解しなければよいではないか。 世間とは君を知らぬ人の謂いである。君を知らぬ人がかれこれ批評することは、さほど意に介するに及ばぬ。失敬ながら君のことはいかなる事があったか知らぬが、よし新聞等に二、三回掲げられたことがあっても、僕ら別に耳にしたこともないし、したがって君に対して愛憎の念も何もない。すなわち君を知らぬわが輩は君のいわゆる世間であるが、わが輩は君を何とも思わぬといった。
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自警録・第七章 譏謗に対する態度・譏謗の大部分は介意の価なししかるに少し気の小さな人が、自分のことを噂され、あるいは新聞雑誌に悪く掲げらるれば、再び起つ能わざる窮地に陥るごとく歎く。かくのごとき時には、少しく度胸を大きく持ち、今日あって明日なき言の葉の、一風吹けば散り果てるものだと思うと、悪口もさほど不愉快に感ぜぬのみならず、かえって為に一種のおかし味を感ずるものである。自分に対して非難するものあるを、直接または間接に聞くことあるも、その難者はいかなる人かと聞けば、怒ったり怨んだりするより、むしろ一種のおかし味を感ずる。 あの男が一ぱい機嫌で悪口するはアルコールの蒸発が喉を過って来るから、人の言葉として顕われるが、一種のガスの作用にほかならぬ。我々の耳に達したころはちょうど消えてなくなる。彼の男にしてそういう言を弄するは、ちょっと奇抜で、面白いが、あまりガラに似合わぬ、真のことでもあるまい。またさらに力あるとも認められぬと思うと、悪口を受けても苦痛でなく、犬の遠吠えぐらいに聞こえる。ちょっとは耳に障っても、あとに残らない。 しかるにこれを一々真面目に解し、言葉通りに直訳して考うれば由々しいことになるが、人はなかなか大いに考えて悪口することは少ない。ただその場合々々に好き勝手な熱を吐くほうが多いから、為に人を怨み、あるいはみずから怒り、あるいは落胆し、あるいはヤケになったりする価値はない。ゆえに世に処するものは悪口の六、七分は聞流しにすべきもの、意に介する価値なきものと僕は信ずる。 折々は濁るも水の習ひぞと思ひ流して月は澄むらん
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自警録・第七章 譏謗に対する態度・悪口は一時的のものが多い多くの悪口には一時的流言に過ぎずして、ほとんど一顧の値いなきものがある。俗諺にいう、「人の噂も七十五日」。その語るところを聞くと根底深いらしいが、その実は根も葉もないことが多い。これは我々がしばしば新聞雑誌に見ることによりてもよく分かる。すなわち新聞雑誌に掲げられる月旦とか人物評論とかあるいはいわゆる三面記事を見ると、某はかくのごときことをなし、国賊であるとか、その肉を食っても饜たらぬとか、倶に天を戴くを恥じとするとか極端の言葉を用い、あるいは某が某女性と関係したる始末を細々と記してある。 これを読む者が真面目に考えれば、とても読み流すことは出来ぬ。国のためにかかる人は一刀の下に刺し殺すべしとまで思うようなことが載せてあれば、三、四日もすると、そんなことも忘れ、翌月になると、同じ新聞雑誌がこの同じ人を恐ろしく褒め立てることがある。いわゆる輿論なるものは実に軽薄なものである。また我々の友人中にも甲が乙の噂をして、はなはだ怪しからぬ奴だと罵る。その語るところを聞くと、その間の関係が、絶交しても饜たらぬように思われるが、翌日甲乙が互いに話し合うところを見ると、前夜用いた罵詈の言は、いずれにあったかを解するに苦しむことがある。誰しもまた必ずかかることを経験したであろう。
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自警録・第七章 譏謗に対する態度・かかる悪口は自然に消える世間だの世評だのということは、はなはだ漠としたことで、ために一身を処するとか、あるいは思想を変えるとかする価値なきものと思う。しかるに自分をよく知るものが、自分を見捨てることがあるなら、これぞ実に由々しき大事といわねばならぬ。 たとえば学校を預かれる校長に対して、世間がかれこれ非難しても、校長にして生徒に対する関係が依然良好であるならば、世評などはあえて意とするに足らぬ。また会社社長あるいは店の主人に対して種々なる動機より悪口を吐き、その会社の信用を傷つけ、その店を顛覆させる計画あるも、社長なり主人なりが、その部下、重役、株主、すなわち関係の最も近いものに対し、何の不義もなく、何の不正もないならば、一向に意とするに足らぬ。あるいはために一時迷惑を受けることあるも、その迷惑は永遠に継続するものでない。ゆえに種々なる批評があっても、それらは意とするに足らぬ。 西郷南洲翁が慶応年間、京都に集まった薩摩の勇士の挙動はなはだ不穏なりと聞き、これが鎮撫に取りかかったとき、日ごろ西郷に快からぬ人々が西郷の挙動をもって正反対の意味あるがごとくに言い放ち、西郷は名を浪士の鎮撫に藉るが、実はこれを煽動するものであると、島津久光公に告口した。公はこれを聞かれて非常に怒られ、西郷の帰り次第、何人でも差支えなきゆえ、手討にせよとの命令を下した。これを聞いた大久保はそもそも西郷を久光公に推薦したのは自分である。彼が不埒を働いたとすれば、自分もまたその責任を分かたねばならぬと思い、西郷が来るや否や、ただちに彼を兵庫に引連れ、明日君が君公の前に侍すれば、生命はないぞ。到底助からぬものと思えば、むしろここで刺し互えて死する積りだといった時、西郷は、 「ウン、二人死ぬのはつまらぬ。二人が死ねば島津家は真っ暗になってしまう。一人残るがよい。俺は罪を得たから死ぬが、汝は生き残って俺の代りに君公に仕え、二人前を働いてくれ」 といって出仕した。幸いにして何のこともなく一命は助かり、引き続き国事に奔走したが、世には随分念の入った讒言悪口がある。しかしこれがために軽々しく一命を捨て、ヤケとなり、あるいは他を怨むことを要せぬ。ジッとしてそれを放任すれば、自然にその悪口も消え、真実のみが残って、最後の勝利を得る。
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自警録・第七章 譏謗に対する態度・悪口に対する理想的態度(2)これを見たるクエーカー宗以外の人々も、私もクエーカー、私もクエーカーというものが多く、政府はその真偽を弁別するに苦しみ、一々その人の日ごろの行状を審査し、たとえクエーカー宗に入れるものにしても、日ごろその主義を完うせざるものは、無遠慮に罰し、日ごろの行状が正しく、徳望高き人は特に穏便に取扱い、戦時だけ自分に都合よき主義を唱えたとても、平生の行状がこれに伴わないものは、ただ一場の言い前に過ぎずとして採用されなかった。白隠和尚は日ごろ修養を積み、平生の言行が正しく聖人たる資格あることを証明したゆえ、一時疑いを受けたことも、数年ならずして解けたのである。 ゆえにかかる場合に身を処すること同一筆法に出ても、日ごろの修養如何によりてその価値が著しく違う。白隠の談は美事であるが、僕はこの筆法をすぐに各自に応用するを憚かる。しからば何ゆえにこの例を掲げたかというに、日ごろの行状を謹み、日常の信用を厚うするだけの慎みをなさねばならぬことを勧めたいからである。この点に謹慎し、修養していれば、一時いかなる非難非譏を受けたとても、何らの弁解を試みずして能く晴天白日の身となり得ると思う。悪口に対する吾人の理想的態度は無言実行の弁解をもってすべきであると思う。いかに人はかれこれいうとも己れさえ道を蹈むことを怠らずば、何の策を弄せずとも、いつの間にか黒白判然するものである。要は「本来清浄」を守るにある。さすれば人為人工を用うるに及ばぬ。かく思うと左の歌は教訓的に解しても面白い。 人住まぬ山里なれど春くれば柳はみどり花はくれなゐ