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自警録 / 第一章 男一匹・男一匹の活動

しかしこの柔和なれと訓うるは独り耶蘇教に限ったことでない。道徳とさえいえば、マホメットの回々教を除き、たいてい柔和の徳を主として教えざるものはない。孔子の教えのごときは、よほど俗界に縁の近いものであるが、なお恭謙譲の三者をもって最高の徳として考えている。もちろんこれらはいずれも個人を主とし、その実行すべき徳を説いたもので、これをもってただちに国と国との関係にまで応用すべしとは、おそらくはいかなる宗教家でも説いてはおらぬであろう。またこの宗教の旨をそのままに遵奉すれば、とかく柔弱に流れ、かえって開祖の主旨に反する虞もある。現に基督のごときは前にも述べたごとく柔和主義の教えを垂れたるにかかわらず、ときには大いに憤り、綱をもって神殿を汚した商人を放逐したことがある。 この事実に徴すれば温和を主とするとはいえ、必ずしも不正なる要求に対しても唯々諾々、これに盲従せよとの意ではなかったことがわかる。ゆえに人にはあくまでも男らしい気骨がなければ宗教の主旨にも適わなくなる。人は軟骨動物ではない。愛とは単に老牛が犢を舐むるの類に止まらぬ。しかしてこれは啻に男子にかぎらず、女子においてもまた然りである。 今より六、七十年前、英国の思想家のあいだに基督教の柔弱に流るるを憤慨して、いわゆる腕力的基督教を主張したものがあった。この事業に従った主なる人には文豪キングスレー、大説教家モリース、『トムブラオン』の著者として有名な裁判官ヒュース等があった。もちろんこれら一派の紳士は腕力を縦にしたのでなく、基督の仁と称するは決して悪き意味における婦女子の愛のごとき猫可愛がりでないと説いた。そして彼らの腕力は一時ロンドンに響いたものである。ヒュースのごときは身は裁判官でありながら、ロンドンのちまたに喧嘩があると、職務柄の礼状を発することなく、みずからその渦中に飛びこみ、「サアここにヒュースが来た、ヒュースの拳骨を知らぬか」と名乗り、もってしばしば喧嘩を仲裁したという。彼らはまさしく男一匹の心持で活動したのである。わが国にていえば、まず男伊達の趣を備えた人である。

書き下し

しかしこの柔和なれと訓うるは独り耶蘇教に限ったことでない。道徳とさえいえば、マホメットの回々教を除き、たいてい柔和の徳を主として教えざるものはない。孔子の教えのごときは、よほど俗界に縁の近いものであるが、なお恭謙譲の三者をもって最高の徳として考えている。もちろんこれらはいずれも個人を主とし、その実行すべき徳を説いたもので、これをもってただちに国と国との関係にまで応用すべしとは、おそらくはいかなる宗教家でも説いてはおらぬであろう。またこの宗教の旨をそのままに遵奉すれば、とかく柔弱に流れ、かえって開祖の主旨に反する虞もある。現に基督のごときは前にも述べたごとく柔和主義の教えを垂れたるにかかわらず、ときには大いに憤り、綱をもって神殿を汚した商人を放逐したことがある。 この事実に徴すれば温和を主とするとはいえ、必ずしも不正なる要求に対しても唯々諾々、これに盲従せよとの意ではなかったことがわかる。ゆえに人にはあくまでも男らしい気骨がなければ宗教の主旨にも適わなくなる。人は軟骨動物ではない。愛とは単に老牛が犢を舐むるの類に止まらぬ。しかしてこれは啻に男子にかぎらず、女子においてもまた然りである。 今より六、七十年前、英国の思想家のあいだに基督教の柔弱に流るるを憤慨して、いわゆる腕力的基督教を主張したものがあった。この事業に従った主なる人には文豪キングスレー、大説教家モリース、『トムブラオン』の著者として有名な裁判官ヒュース等があった。もちろんこれら一派の紳士は腕力を縦にしたのでなく、基督の仁と称するは決して悪き意味における婦女子の愛のごとき猫可愛がりでないと説いた。そして彼らの腕力は一時ロンドンに響いたものである。ヒュースのごときは身は裁判官でありながら、ロンドンのちまたに喧嘩があると、職務柄の礼状を発することなく、みずからその渦中に飛びこみ、「サアここにヒュースが来た、ヒュースの拳骨を知らぬか」と名乗り、もってしばしば喧嘩を仲裁したという。彼らはまさしく男一匹の心持で活動したのである。わが国にていえば、まず男伊達の趣を備えた人である。

現代語訳

しかしこの柔和であれという教えは、キリスト教に限ったことではありません。道徳と言えば、マホメットの回教を除き、たいてい柔和の徳を主として教えないものはありません。孔子の教えは、かなり俗世に縁の近いものですが、それでもなお、恭・謙・譲の三つを最高の徳と考えています。もちろんこれらはいずれも個人を主として、その実行すべき徳を説いたもので、これをそのまま国と国との関係にまで応用すべきだとは、おそらくどんな宗教家も説いてはいないでしょう。またその宗教の趣旨をそのまま守ろうとすれば、とかく柔弱に流れて、かえって開祖の主旨に反するおそれもあります。現にキリストは、前にも述べたとおり柔和主義の教えを垂れましたが、ときには大いに憤り、縄で神殿を汚した商人を追い出したことがあります。 この事実に照らせば、温和を主とするとはいっても、不正な要求にまで唯々諾々と盲従せよという意味ではなかったことがわかります。だから人には、あくまでも男らしい気骨がなければ、宗教の主旨にも適わなくなります。人は軟骨動物ではありません。愛とは、単に老いた牛が子牛をなめるようなものにとどまりません。そしてこれは男子だけでなく、女子においても同じです。 今から六、七十年前、英国の思想家のあいだに、キリスト教が柔弱に流れるのを憤って、いわゆる腕力的キリスト教を主張した者がいました。この運動に携わった主な人には、文豪キングスレー、大説教家モリース、『トムブラオン』の著者として有名な裁判官ヒュースらがいました。もちろんこれらの紳士は腕力を振るったのではなく、キリストの仁とは決して悪い意味での、婦女子の愛のような猫かわいがりではないと説いたのです。そして彼らの腕力は、一時ロンドンに響いたものでした。ヒュースなどは、裁判官でありながら、ロンドンの街で喧嘩があると、職務上の礼状を出すこともなく、自ら渦中に飛び込み、「さあ、ここにヒュースが来た。ヒュースの拳骨を知らぬか」と名乗って、しばしば喧嘩を仲裁したそうです。彼らはまさしく男一匹の心持ちで活動したのです。日本で言えば、男伊達の趣を備えた人です。

解説

柔和を説くのはキリスト教だけでなく、孔子の恭・謙・譲も同じだが、それは不正への盲従を意味しないと新渡戸は述べます。神殿で商人を追い出したキリストの怒りと、ヒュースら英国の腕力的キリスト教を例に、愛には気骨が要ると言います。ヒュースらを指す運動名は新渡戸の語をそのまま写しました。腕力は現代の組織には持ち込めませんが、優しさと毅然さを併せ持つことは今も要件です。関係を壊さず、おかしいことにはおかしいと言う姿勢の手本になります。
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この章句が説くこと

柔和気骨腕力的キリスト教男伊達孔子盲従

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