武士道 / 第五章 仁・愛不忍の心・最も剛毅なる者は最も柔和なり
『最も剛毅なる者は、最も柔和なり。最も愛ある者は最も勇敢なり』とは、古今東西の通義なり。武士のなさけとは、人心に妙音を傳へて、高尙なる情感を覺醒するの語なりき。武夫の慈悲の質たる、他者の慈悲と其類を殊にするには非らず。されど仁の武士に於けるは、漠然たる感情より發するものに非らずして、其心に正義を忘れざるにあり。又た其仁は、啻に情緒の發現たるのみに非らずして、而も其後へには生殺與奪の權を有し、恩に兼ぬるに威を以てす。經濟學者が、需要に有効無効の別ありと云ふが如く、武士の慈悲は即ち有効なるものと稱すべくして、之を受くるものに對して、或は利益を生じ、或は損毫を來たすの力を有せり。武士は獸力を榮とし、之を用ふるの特權に誇りたりと雖も、又た深く孟子が仁の力を說くに服するものなりき。
新字:『最も剛毅なる者は、最も柔和なり。最も愛ある者は最も勇敢なり』とは、古今東西の通義なり。武士のなさけとは、人心に妙音を伝へて、高尚なる情感を覚醒するの語なりき。武夫の慈悲の質たる、他者の慈悲と其類を殊にするには非らず。されど仁の武士に於けるは、漠然たる感情より発するものに非らずして、其心に正義を忘れざるにあり。又た其仁は、啻に情緒の発現たるのみに非らずして、而も其後へには生殺与奪の権を有し、恩に兼ぬるに威を以てす。経済学者が、需要に有効無効の別ありと云ふが如く、武士の慈悲は即ち有効なるものと称すべくして、之を受くるものに対して、或は利益を生じ、或は損毫を来たすの力を有せり。武士は獣力を栄とし、之を用ふるの特権に誇りたりと雖も、又た深く孟子が仁の力を説くに服するものなりき。
書き下し
『最も剛毅なる者は、最も柔和なり。最も愛ある者は、最も勇敢なり』とは、古今東西の通義なり。武士のなさけとは、人心に妙音を伝へて、高尚なる情感を覚醒するの語なりき。武夫の慈悲の質たる、他者の慈悲と其類を殊にするには非らず。されど仁の武士に於けるは、漠然たる感情より発するものに非らずして、其心に正義を忘れざるにあり。又た其仁は、ただに情緒の発現たるのみに非らずして、而も其後へには生殺与奪の権を有し、恩に兼ぬるに威を以てす。経済学者が、需要に有効無効の別ありと云ふが如く、武士の慈悲は即ち有効なるものと称すべくして、之を受くるものに対して、或は利益を生じ、或は損害を来たすの力を有せり。武士は獣力を栄とし、之を用ふるの特権に誇りたりと雖も、又た深く孟子が仁の力を説くに服するものなりき。
現代語訳
最も剛毅な者は最も柔和である。最も愛ある者は最も勇敢である、というのは古今東西に通じる道理です。武士のなさけとは、人の心に妙なる音を伝えて高尚な感情を呼び覚ます言葉でした。武士の慈悲の性質が、他の人の慈悲と種類を異にするわけではありません。しかし仁が武士にあっては、ぼんやりした感情から出るのではなく、その心に正義を忘れないところにあります。またその仁はただ情緒の現れであるだけでなく、その背後に生殺与奪の権を持ち、恩に加えて威を備えています。経済学者が需要に有効と無効の別があると言うように、武士の慈悲は有効なものと呼ぶべきで、それを受ける者に対して、利益を生むこともあれば損害をもたらすこともある力を持っていました。武士は獣のような力を誇りとし、それを用いる特権に誇りを持ちましたが、同時に孟子が仁の力を説くのに深く服したのです。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
論語・雍也篇宰我問いて曰く、「仁者は之に告げて『井に仁有り』と曰うと雖も、其れ之に従わんか。」子曰く、「何為れぞ其れ然らんや。君子は逝かしむ可きも、陥る可からず。欺く可きも、罔う可からず。」
-
論語・八佾篇子曰く、人にして仁ならずんば、礼を如(いかん)せん;人にして仁ならずんば、楽を如せん。
-
論語・憲問篇「克・伐・怨・欲、行われずんば、以て仁と為す可きか。」子曰く、「以て難しと為す可し。仁は則ち吾知らざるなり。」
-
論語・里仁篇子曰わく、不仁者は久しく約に処るべからず、長く楽に処るべからず。仁者は仁に安んじ、知者は仁を利とす。
-
論語・里仁篇子曰わく、ただ仁者のみよく人を好み、よく人を悪む。
-
論語・微子篇微子これを去り、箕子これに為に奴となり、比干諫めて死す。孔子曰わく、殷に三仁有り。