自警録 / 第四章 外は柔、内は剛・心の持方は剛柔いずれとすべきか
僕は近ごろある人が僕の知人を批評するのを聞いた。その言に曰く、 「あの男はまことによい男だが、惜しいことには、宗教家であるため、弱くて不可ぬ。あれにいっそう骨っぽいところがあれば、実に見上げた人間だのに」と。 この知人は耶蘇教信者たることを思うて、僕は、この批評が一部あたれることを考えた。一部あたれるというは、この知人は言葉遣いと言い、行動と言い、まことに柔和なところがあるゆえである。氏がかつて心を宗教に寄せる前には、剛情で始末におえぬ硬骨漢であったが、ひとたび信者となってからは手を覆したごとく温和な柔順な、涙もろい人に変った。この点より見れば彼に対する某氏の批評は一部あたれるものであるが、さるにても宗教なるものが人を柔化するの力あるも、剛化させる力はないものであろうかという問題が浮び出る。 かつこの問題は一歩を進めると、彼のいう骨っぽいとは何を意味するかという疑問も起こり、延いては近ごろ称せらるる硬教育もいかなるものであるか、疑問として胸に浮ぶ。しかしこれらは余談に流れるからしばらくこれを措き、お互いにその心の持ち方を果たして剛に向けるか柔に向けるか、いずれに重きを置くべきかは、重大なる問題で、各自が慎重なる判断を下すべきことと思う。
書き下し
僕は近ごろある人が僕の知人を批評するのを聞いた。その言に曰く、 「あの男はまことによい男だが、惜しいことには、宗教家であるため、弱くて不可ぬ。あれにいっそう骨っぽいところがあれば、実に見上げた人間だのに」と。 この知人は耶蘇教信者たることを思うて、僕は、この批評が一部あたれることを考えた。一部あたれるというは、この知人は言葉遣いと言い、行動と言い、まことに柔和なところがあるゆえである。氏がかつて心を宗教に寄せる前には、剛情で始末におえぬ硬骨漢であったが、ひとたび信者となってからは手を覆したごとく温和な柔順な、涙もろい人に変った。この点より見れば彼に対する某氏の批評は一部あたれるものであるが、さるにても宗教なるものが人を柔化するの力あるも、剛化させる力はないものであろうかという問題が浮び出る。 かつこの問題は一歩を進めると、彼のいう骨っぽいとは何を意味するかという疑問も起こり、延いては近ごろ称せらるる硬教育もいかなるものであるか、疑問として胸に浮ぶ。しかしこれらは余談に流れるからしばらくこれを措き、お互いにその心の持ち方を果たして剛に向けるか柔に向けるか、いずれに重きを置くべきかは、重大なる問題で、各自が慎重なる判断を下すべきことと思う。
現代語訳
私は近ごろ、ある人が私の知人を批評するのを聞きました。その言葉はこうです。 「あの男はまことによい男だが、惜しいことに、宗教家なので弱くていけない。あれにもう少し骨っぽいところがあれば、実に見上げた人間なのに」 と。この知人はキリスト教信者であることを思って、私はこの批評が一部当たっていると考えました。一部当たっているというのは、この知人は言葉遣いも行動も、まことに柔和なところがあるからです。彼がかつて宗教に心を寄せる前は、強情で始末におえない硬骨漢でしたが、ひとたび信者となってからは、手のひらを返したように温和で素直な、涙もろい人に変わりました。この点から見ると、彼に対するその人の批評は一部当たっているのですが、それにしても、宗教は人を柔らかくする力はあっても、剛くする力はないものだろうか、という問題が浮かんできます。 そしてこの問題は一歩進めると、彼のいう骨っぽいとは何を意味するのかという疑問も起こり、さらには近ごろ称えられる硬教育とはどういうものなのか、という疑問も胸に浮かびます。しかしこれらは余談になりますので、しばらく置いておき、お互いに、心の持ち方を剛に向けるのか柔に向けるのか、いずれに重きを置くべきかは、重大な問題で、各自が慎重に判断を下すべきことと思います。
解説

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本の中身を見るこの章句が説くこと
関連する章句
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自警録・第四章 外は柔、内は剛・剛柔、分を守りて人格が円満さて心の剛柔とは、すでに前に女という字についていえるごとく、善意にも悪意にも解せられる。剛が過ぎれば剛情となり、頑固となり、意気地となる。柔に過ぐれば木偶となり、薄志弱行となる。極端に失すればいずれも悪しくなるが、度に過ぎぬ以上は、すべからく剛毅でなければならぬ。 自分の所信を貫徹するためには、一たび固めた決心を抂げぬ、あくまでも、左右の言にも耳を借さずに猛進するくらいの強いところが必要である。さればといって、剛ばかりで、慈悲もなく、人情も捨て、全然柔和のところを失えば、これ他人に不幸を与うるのみならず、自分も心の全部を尽すわけに行かぬから、つねに不幸を感ずる。剛柔が能くその分を守りその調和を保ちて、はじめて円満なる人格を作り上げる。
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自警録・第四章 外は柔、内は剛・身を処するには剛柔がおのおの必要先天的に剛に出来ている人と、同じく先天的に柔に出来ている人とあるは、あたかも動物にも亀もあれば海月もあり、植物にも栗もあれば苺もあるがごとくである。すでに先天的に出来ているものを、強いて俺はこれから剛にする、俺はこれから柔にすると、天賦の性質を矯め、束縛することはすこぶる難事であるが、しかし俺はあくまでも剛である、俺は何事にも柔であると一貫して遂行することも出来ぬ。これは矛盾するようであるが、人がこの世に処するあいだには、あるいは剛に出ねばならぬことあり、あるいは柔ならねばならぬことがある。 人間の体躯も骨ばかりでは用をなさぬ、筋肉もあれば脂肪もある、腹や股が柔であるから、人体は柔であるといえぬ。爪や歯牙があるから剛だともいわれぬ。ゆえに剛だとか柔だとかいって、いずれか一方を主義とすべきものでなく、事に触れ機に接して、身を処するにこれは剛にすべく、是は柔にすべく、その場合に応じて二者の調和よろしきを得て、人間は始めて円満となるのである。事によってあるいは剛となりあるいは柔となるというも、それは決して矛盾でない。前にいった橋本にしても藤田・西郷にしても、両方の性質があったから、外見と性質とがちがうように見えたのであろう。
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自警録・第四章 外は柔、内は剛・世の中には譲って差支えないことが多い柔和というと、いかにも自分に意志なく、人の意志に脆く服従するごとく思うものあるが、しかし決してそうでない。柔和は意志の弱き謂でない。もっとも一方より考えれば、かく思うも無理はない。僕の考えでは世には抂げてもよい意思がたくさんにあり、また意思を表示するに及ばぬものもたくさんあり、あるいは意思を明らかにする必要なきものもたくさんあると思う。 意志というと言葉がはなはだよく聞こゆるも、何ごとについても明白なる意思を発表するものは神経質かあるいは小心なる厄介者である。たとえば衣を着るにも、縞柄から縫い方から着ようにいたるまで一々明白した意思を表示し、かつこれを貫かんとすれば、たいていの仕立屋または細君は必ず手に余すであろう。三度食う飯さえも強い柔かいがある。この浮世を渡るに飯の炊きようについて、あまり明白な意思を有するものは、恐らくは生涯の三分の二は飯のために不満足を唱えて暮らさねばならぬだろう。 僕の信ずるところでは、世の中のことは判然たる意志をもつ必要のないことが多い。換言すればどちらでもよいことが多い。物を食うにも鮭でも鰌でもよい、沢庵でも菜葉でもよく、また味噌汁の実にしても芋でも大根でもよい。ただ特別なる場合、たとえば来客とか病気とかの時のごときには、明らかなる意思を立てて遂行するも必要だが、たいていの場合にはどちらでも差支えないことが多い。しかして朝起きて夜寝るまで、自分のなすこと、接することを一々数えたてれば、自分が頓着しなくとも善いことが多くありはせぬか。相手には非常に重大の問題でありながら、自分には何の関係ないことがありはせぬか。かく思うと無頓着というは語弊もあるが、自分から関係せず、関係深い人に譲りて差支えないことが数多ある。ここがすなわち僕の、「世を譲って渡れ」という所以である。
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自警録・第一章 男一匹・男一匹の活動しかしこの柔和なれと訓うるは独り耶蘇教に限ったことでない。道徳とさえいえば、マホメットの回々教を除き、たいてい柔和の徳を主として教えざるものはない。孔子の教えのごときは、よほど俗界に縁の近いものであるが、なお恭謙譲の三者をもって最高の徳として考えている。もちろんこれらはいずれも個人を主とし、その実行すべき徳を説いたもので、これをもってただちに国と国との関係にまで応用すべしとは、おそらくはいかなる宗教家でも説いてはおらぬであろう。またこの宗教の旨をそのままに遵奉すれば、とかく柔弱に流れ、かえって開祖の主旨に反する虞もある。現に基督のごときは前にも述べたごとく柔和主義の教えを垂れたるにかかわらず、ときには大いに憤り、綱をもって神殿を汚した商人を放逐したことがある。 この事実に徴すれば温和を主とするとはいえ、必ずしも不正なる要求に対しても唯々諾々、これに盲従せよとの意ではなかったことがわかる。ゆえに人にはあくまでも男らしい気骨がなければ宗教の主旨にも適わなくなる。人は軟骨動物ではない。愛とは単に老牛が犢を舐むるの類に止まらぬ。しかしてこれは啻に男子にかぎらず、女子においてもまた然りである。 今より六、七十年前、英国の思想家のあいだに基督教の柔弱に流るるを憤慨して、いわゆる腕力的基督教を主張したものがあった。この事業に従った主なる人には文豪キングスレー、大説教家モリース、『トムブラオン』の著者として有名な裁判官ヒュース等があった。もちろんこれら一派の紳士は腕力を縦にしたのでなく、基督の仁と称するは決して悪き意味における婦女子の愛のごとき猫可愛がりでないと説いた。そして彼らの腕力は一時ロンドンに響いたものである。ヒュースのごときは身は裁判官でありながら、ロンドンのちまたに喧嘩があると、職務柄の礼状を発することなく、みずからその渦中に飛びこみ、「サアここにヒュースが来た、ヒュースの拳骨を知らぬか」と名乗り、もってしばしば喧嘩を仲裁したという。彼らはまさしく男一匹の心持で活動したのである。わが国にていえば、まず男伊達の趣を備えた人である。
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自警録・第五章 心強くなる工夫・同病相憐むに出でたる余の気弱前章に僕は外柔内剛につき少しく述べたが、内剛については所説のいまだ竭さぬところがあったから、いま章をあらためて所感を述べたい。僕はいろいろなる人々と対談し、あるいは種々なる人々より受取る手紙により、世には階級の上下を問わず、年の老若を論ぜず、自分は気が弱くて困る、どうかもっと気を強くする工夫はあるまいかと尋ねられることがしばしばある。 この質問は僕自身が他人に接するごとに痛切に感ずることで、自分が常に気の弱きことを矯めたいと思っているくらいなれば、世人に対してこれが方法を授くるがごときは思いも及ばぬことである。しかし同病相憐むという、僕自身もはなはだ気弱いことを感知し、これにつき年来少しく工夫を凝らしている。もしその工夫を話したなら、たとえ未熟ながらも、また直接に益する人はなくても、世にもまたかくのごときものもあるか、かくのごとき考えをもってその欠点を矯正せんと努めるものがあるかと思って、新たに工夫を運らすに至る人もあろうと思い、僕は本問題を提げたのである。
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自警録・第四章 外は柔、内は剛・柔和の心は相手の柔和の心を抽き出すかく人情の大体より考うるも、そうありそうに思われる。なんとなれば諺にも、「世は情け」という通り、人情が敦厚なれば、――もっと砕いていえば親切とか思いやりとか誠とかがあると、人世は美わしきもの、生ける甲斐あるもののように思われる。しかしてこれらの親切、思いやり、誠がどういうふうに現れるかというに、こちらの親切、思いやり、誠を現すと、その反響として相手方にも現れ出ることが多い。いわゆる売りことばに買いことば、こちらが柔和におだやかなる心をもって人に接すれば、相手の柔和な心を抽き出す。鐘もうちよう、人の心も触りようである。お互いに電車に乗っても、こちらが立って席を譲れば相手も、 「ありがとうございます。まあどうぞおかけ下さいまし」 と遠慮の心も起こる。しかし無理に押し込んで入れば、なに此奴がという気が起こりやすい。世を渡るには、 「御免なさい御免なさい」 と遠慮がちなることは、必ずしも卑怯とはいわれぬ。あるいは人によりては、これはずるい方法で、猫を被るとか、猫なで声で人を瞞着するとか、西洋でいう羊の毛を被る狼のごとく、偽善の最も甚だしきもののように思うものもある。むろん偽善の一方法ともなり得るが、しかし恐らくは世の中のことで偽善になり得ないものはあるまい。柔和を偽善と誣うるならば、それと同じく剛毅もまた偽善に供することが出来る。決して偽ものがあるからとてその者を非難するわけに行かぬ、むしろ偽者を出すものは本物が善いからである。悪い者なれば偽が出来るはずはない。善ければ善いほど種々の偽も出来る。猫被りが多いというは、取も直さず柔和は何人でも重んずる証拠である。