自警録 / 第一章 男一匹・男一匹とは何を意味するか
しからば男という言葉もまた人もしくは女というように善意にも悪意にも用いらるるかというに、これは奇態に悪意に用うることがほとんどない。単に男というときは、ただちに男らしいとかあるいは剛毅とか、あるいは大胆不敵、あるいは果断勇猛、あるいは任侠というような一種の印象を惹起す。 「天川屋儀兵衛は男でござる」 と一喝すれば捕手の者も閉息する。 男一匹なる句は一種爽快なる感想を人に与える。わが輩はその出所を知らぬが、おそらくは徳川時代の産物であろう。普通動物に用いる一匹なる言葉をそのままに、万物の霊長たるしかも女に優れたる男子に応用するは、一見男子を侮辱せるかの疑惑を促すが、おそらく動物としても優勝なるものの資格を嘆美するために用いた言葉ではあるまいか。すなわち前に述べた勇猛とか任侠とかという勇ましいところに重きをおいてこの句を用いたのではあるまいか。いわば動物として最も微妙なる知能を有する者、または才能によりて力の足らぬところを、武器をもって補い、豺狼虎豹も遠く及ばぬ力を逞しゅうするさまをいいあらわしたものであろう。 右のごとく考え来たれば一匹なる言葉には、やはり幾分か侮辱の意が含まれているごとく思われる。けだし聖人君子高僧等より見れば、普通にわれわれの賞賛する武勇は猛獣の勇気に類したもので、孟子のいうところの匹夫の勇に過ぎぬ。わが武士道においてもかくのごとき勇気をもって猪勇と称し、深く尊敬しなかったものである。しかしこれは高き見地より見てのことであって、社会がいまだ法治の階段に進まない時代には、武勇は社会の安全に対する保障で、武勇なければ生命も財産も危険に瀕するばかりである。今でも一朝事ある際には、たちまち一国が猛烈なる所為に出る。沙翁の言に、 「ラッパの音のわが耳に響く時は吾人のまさに騎虎の行動を倣うの時なり」 と。暴虎馮河の徒には孔子は与せずといったが、世俗はいまだ彼らに敬服する。昔時、ローマ時代には徳という字と勇気という字とは二つ別々に存在しなかった。勇すなわち徳、徳すなわち勇と考えられていた。かかる時代にはよしや動物性が混じ、匹夫の勇以上に昇らずとも、それが尊かった。しかして男子として褒むべきはこの種の勇を有したからで、国がやや進歩し、法律をもって善悪曲直を判別する時代にいたっても、依然としてなお匹夫の勇が尊ばれ、男を褒むるに一匹の言葉をもってしたものであろう。
書き下し
しからば男という言葉もまた人もしくは女というように善意にも悪意にも用いらるるかというに、これは奇態に悪意に用うることがほとんどない。単に男というときは、ただちに男らしいとかあるいは剛毅とか、あるいは大胆不敵、あるいは果断勇猛、あるいは任侠というような一種の印象を惹起す。 「天川屋儀兵衛は男でござる」 と一喝すれば捕手の者も閉息する。 男一匹なる句は一種爽快なる感想を人に与える。わが輩はその出所を知らぬが、おそらくは徳川時代の産物であろう。普通動物に用いる一匹なる言葉をそのままに、万物の霊長たるしかも女に優れたる男子に応用するは、一見男子を侮辱せるかの疑惑を促すが、おそらく動物としても優勝なるものの資格を嘆美するために用いた言葉ではあるまいか。すなわち前に述べた勇猛とか任侠とかという勇ましいところに重きをおいてこの句を用いたのではあるまいか。いわば動物として最も微妙なる知能を有する者、または才能によりて力の足らぬところを、武器をもって補い、豺狼虎豹も遠く及ばぬ力を逞しゅうするさまをいいあらわしたものであろう。 右のごとく考え来たれば一匹なる言葉には、やはり幾分か侮辱の意が含まれているごとく思われる。けだし聖人君子高僧等より見れば、普通にわれわれの賞賛する武勇は猛獣の勇気に類したもので、孟子のいうところの匹夫の勇に過ぎぬ。わが武士道においてもかくのごとき勇気をもって猪勇と称し、深く尊敬しなかったものである。しかしこれは高き見地より見てのことであって、社会がいまだ法治の階段に進まない時代には、武勇は社会の安全に対する保障で、武勇なければ生命も財産も危険に瀕するばかりである。今でも一朝事ある際には、たちまち一国が猛烈なる所為に出る。沙翁の言に、 「ラッパの音のわが耳に響く時は吾人のまさに騎虎の行動を倣うの時なり」 と。暴虎馮河の徒には孔子は与せずといったが、世俗はいまだ彼らに敬服する。昔時、ローマ時代には徳という字と勇気という字とは二つ別々に存在しなかった。勇すなわち徳、徳すなわち勇と考えられていた。かかる時代にはよしや動物性が混じ、匹夫の勇以上に昇らずとも、それが尊かった。しかして男子として褒むべきはこの種の勇を有したからで、国がやや進歩し、法律をもって善悪曲直を判別する時代にいたっても、依然としてなお匹夫の勇が尊ばれ、男を褒むるに一匹の言葉をもってしたものであろう。
現代語訳
それでは、「男」という言葉も、「人」や「女」のように、善い意味にも悪い意味にも使われるのかというと、これは不思議なほど、悪い意味に使うことがほとんどありません。単に「男」と言うときは、すぐに男らしいとか、剛毅だとか、大胆不敵だとか、果断で勇猛だとか、任侠だとかいう、ある種の印象を呼び起こします。 「天川屋儀兵衛は男でござる」 と一喝すれば、捕り手の者も息をのみます。 「男一匹」という句は、人にある爽快な感じを与えます。私はその出どころを知りませんが、おそらく徳川時代の産物でしょう。ふつう動物に使う「一匹」という言葉を、万物の霊長であり、しかも女より優れた男にそのまま当てはめるのは、一見すると男を侮辱するかのような疑いを招きますが、おそらくは、動物としても優れたものの資格を賛美するために使った言葉ではないでしょうか。つまり前に述べた勇猛とか任侠とかいう勇ましいところに重きを置いて、この句を使ったのではないでしょうか。いわば、動物として最も微妙な知能をもつ者、あるいは才能によって力の足りないところを武器で補い、豺狼虎豹も遠く及ばない力をふるうさまを言い表したものでしょう。 このように考えてくると、「一匹」という言葉には、やはり多少の侮辱の意味が含まれているように思われます。思うに、聖人君子や高僧から見れば、ふつう私たちが賞賛する武勇は猛獣の勇気に近いもので、孟子の言う「匹夫の勇」にすぎません。日本の武士道でもこうした勇気を「猪勇」と呼び、深く尊敬しませんでした。しかしこれは高い見地から見てのことで、社会がまだ法による支配の段階に進んでいない時代には、武勇は社会の安全を保障するもので、武勇がなければ生命も財産も危うくなるばかりです。今でも、一朝事があるときには、たちまち一国が猛烈な行動に出ます。シェークスピアの言葉に、 「ラッパの音が私の耳に響くときは、虎にまたがる行動をまねるときである」 とあります。素手で虎を打ち、徒歩で大河を渡るような無謀な者に孔子は与しないと言いましたが、世間はいまだにそういう人々に敬服します。昔のローマ時代には、徳という字と勇気という字は別々に存在しませんでした。勇すなわち徳、徳すなわち勇と考えられていたのです。そういう時代には、たとえ動物性が混じり、匹夫の勇以上に上れなくても、それが尊ばれました。そして男として褒められるのはこの種の勇があったからで、国がやや進歩し、法律で善悪曲直を判別する時代になっても、やはり匹夫の勇が尊ばれ、男を褒めるのに「一匹」の語を使ったのでしょう。
解説

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『翁問答』上卷之末体充曰、儒門の心学をきはめずして、軍法に達し軍法をたてゝ、その名たかき大将、倭漢ともに古来多く候へば、心学のみがきなくても、軍法のまなびはなり申べく候、しかるにまづ儒門の心学をきはめてのちに軍法をまなびたるがよしと仰せられ候は不審に存候。師の曰、よきうたがひにて候、大将の才を逞じく生れたる人は、心学のみがきなくても、軍法に達し軍功をば立るといへども、その徳なきゆへに才のたくまじきに迷ひ、必ず人を殺す事を好み、不義無道のふるまひあれば、万民その毒にあたりなげき悲むによつて、終には天罰をかうぶり、其身もほろび国も必ず絶滅するものなり、その証拠はもろこしにても我朝にても、其徳なくて才のみ逞しき大将に、其身難なく子孫繁昌したる人まれなり倭漢の史書にて考へ見るべし、
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