文昌帝君陰騭文 / 第二段・于公獄を治め、竇氏人を済ふ
於是訓於人曰:「昔于公治獄,大興駟馬之門;竇氏濟人,高折五枝之桂。救蟻,中狀元之選;
新字:於是訓於人曰:「昔于公治獄,大興駟馬之門;竇氏済人,高折五枝之桂。救蟻,中状元之選;
書き下し
是に於て人に訓へて曰く、「昔、于公獄を治めて、大いに駟馬の門を興す。竇氏人を済ひて、高く五枝の桂を折る。蟻を救ひて、状元の選に中る。
現代語訳
そこで人々に教えて言われました。「昔、于公は裁きを正しく行い、そのおかげで四頭立ての馬車が通れるほどの立派な門が建ちました。竇氏は人を救い、その家から五人そろって科挙に及第する者が出ました。蟻を救った者は、科挙の首席に選ばれました。
解説
陰徳が報われた例を、故事で三つ並べた段です。于公は漢の于定国の父で、裁きに冤罪を出さなかった人。いずれ立派な子孫が出るからと門を高く作らせ、実際に子の于定国が丞相になったと『漢書』に伝えられます。竇氏は五代の竇禹鈞、いわゆる竇燕山で、人を助け続けた結果、五人の子がみな科挙に通ったとされ、五子登科の語のもとになりました。蟻を救った話は宋の宋郊が水に流される蟻を助けて首席合格したという伝えです。いずれも、その場では何の得にもならない行いが、後になって思わぬ形で返ってきたという筋になっています。
この章句が説くこと
陰徳故事科挙于公報い
関連する章句
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説苑・貴德丞相西平侯于定国は、東海下邳の人なり、其の父を号して于公と曰ふ、県の獄吏決曹掾たり、獄を決し法を平らかにして、未だ嘗て冤する所有らず、郡中文法を離るる者、于公の決する所、皆敢へて情を隠さず、東海郡中于公の為に生きながら祠を立て、命じて于公祠と曰ふ。東海に孝婦有り、子無く、少くして寡り、其の姑を養ふこと甚だ謹めり、其の姑之を嫁がしめんと欲するも、終に肯んぜず、其の姑鄰の人に告げて曰く、「孝婦我を養ふこと甚だ謹めり、我其の子無く、寡を守ること日久しきを哀しむ、我老いて丁壮を累はすこと奈何せん」と。其の後母自ら経れて死す、母の女吏に告げて曰く、「孝婦我が母を殺せり」と。吏孝婦を捕へ、孝婦姑を殺さずと辞す、吏毒治せんと欲す、孝婦自ら誣服す、獄を具へて以て府に上る、于公以為へらく姑を養ふこと十年の孝聞ゆ、此れ姑を殺さざるなり、と。太守聴かず、数争ふも得る能はず、是に於て于公病と辞して吏を去る、太守竟に孝婦を殺す。郡中枯旱すること三年、後の太守至り、卜して其の故を求む、于公曰く、「孝婦当に死すべからず、前の太守強ひて之を殺す、咎当に此に在るべし」と。是に於て牛を殺して孝婦の冢を祭る、太守以下自ら至る、天大雨を立て、歳豊熟す、郡中此を以て益々于公を敬重す。于公廬舍を築治し、匠人に謂ひて曰く、「我が為に高門を為れ、我獄を治めて未だ嘗て冤する所有らず、我が後世必ず封ぜらるる者有らん、高蓋駟馬の車を容るしめよ」と。子封ぜられて西平侯と為るに及ぶ。
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