説苑 / 貴德
丞相西平侯于定國者,東海下邳人也,其父號曰于公,為縣獄吏決曹掾;決獄平法,未嘗有所冤,郡中離文法者,于公所決,皆不敢隱情,東海郡中為于公生立祠,命曰于公祠。東海有孝婦,無子,少寡,養其姑甚謹,其姑欲嫁之,終不肯,其姑告鄰之人曰:「孝婦養我甚謹,我哀其無子,守寡日久,我老累丁壯奈何?」其後母自經死,母女告吏曰:「孝婦殺我母。」吏捕孝婦,孝婦辭不殺姑,吏欲毒治,孝婦自誣服,具獄以上府,于公以為養姑十年之孝聞,此不殺姑也,太守不聽,數爭不能得,於是于公辭疾去吏,太守竟殺孝婦。郡中枯旱三年,後太守至,卜求其故,于公曰:「孝婦不當死,前太守強殺之,咎當在此。」於是殺牛祭孝婦冢,太守以下自至焉,天立大雨,歲豐熟,郡中以此益敬重于公。于公築治廬舍,謂匠人曰:「為我高門,我治獄未嘗有所冤,我後世必有封者,令容高蓋駟馬車。」及子封為西平侯。
新字:丞相西平侯于定国者,東海下邳人也,其父号曰于公,為県獄吏決曹掾;決獄平法,未嘗有所冤,郡中離文法者,于公所決,皆不敢隠情,東海郡中為于公生立祠,命曰于公祠。東海有孝婦,無子,少寡,養其姑甚謹,其姑欲嫁之,終不肯,其姑告鄰之人曰:「孝婦養我甚謹,我哀其無子,守寡日久,我老累丁壮奈何?」其後母自経死,母女告吏曰:「孝婦殺我母。」吏捕孝婦,孝婦辞不殺姑,吏欲毒治,孝婦自誣服,具獄以上府,于公以為養姑十年之孝聞,此不殺姑也,太守不聴,数争不能得,於是于公辞疾去吏,太守竟殺孝婦。郡中枯旱三年,後太守至,卜求其故,于公曰:「孝婦不当死,前太守強殺之,咎当在此。」於是殺牛祭孝婦冢,太守以下自至焉,天立大雨,歲豊熟,郡中以此益敬重于公。于公築治廬舎,謂匠人曰:「為我高門,我治獄未嘗有所冤,我後世必有封者,令容高蓋駟馬車。」及子封為西平侯。
書き下し
丞相西平侯于定国は、東海下邳の人なり、其の父を号して于公と曰ふ、県の獄吏決曹掾たり、獄を決し法を平らかにして、未だ嘗て冤する所有らず、郡中文法を離るる者、于公の決する所、皆敢へて情を隠さず、東海郡中于公の為に生きながら祠を立て、命じて于公祠と曰ふ。東海に孝婦有り、子無く、少くして寡り、其の姑を養ふこと甚だ謹めり、其の姑之を嫁がしめんと欲するも、終に肯んぜず、其の姑鄰の人に告げて曰く、「孝婦我を養ふこと甚だ謹めり、我其の子無く、寡を守ること日久しきを哀しむ、我老いて丁壮を累はすこと奈何せん」と。其の後母自ら経れて死す、母の女吏に告げて曰く、「孝婦我が母を殺せり」と。吏孝婦を捕へ、孝婦姑を殺さずと辞す、吏毒治せんと欲す、孝婦自ら誣服す、獄を具へて以て府に上る、于公以為へらく姑を養ふこと十年の孝聞ゆ、此れ姑を殺さざるなり、と。太守聴かず、数争ふも得る能はず、是に於て于公病と辞して吏を去る、太守竟に孝婦を殺す。郡中枯旱すること三年、後の太守至り、卜して其の故を求む、于公曰く、「孝婦当に死すべからず、前の太守強ひて之を殺す、咎当に此に在るべし」と。是に於て牛を殺して孝婦の冢を祭る、太守以下自ら至る、天大雨を立て、歳豊熟す、郡中此を以て益々于公を敬重す。于公廬舍を築治し、匠人に謂ひて曰く、「我が為に高門を為れ、我獄を治めて未だ嘗て冤する所有らず、我が後世必ず封ぜらるる者有らん、高蓋駟馬の車を容るしめよ」と。子封ぜられて西平侯と為るに及ぶ。
現代語訳
丞相で西平侯となった于定国は、東海郡下邳の人である。その父は于公と呼ばれ、県の獄吏で裁判を司る決曹掾を務めていた。裁判を裁き法を公平に運用し、これまで一度も冤罪を出したことがなかった。郡内で法に触れた者は、于公が裁く場合には誰もが実情を隠さず正直に話した。東海郡の人々は于公のために生きているうちから祠を建て、これを于公祠と名づけた。東海に孝行な嫁がいた。子はなく、若くして未亡人となり、姑をたいそう真心こめて養った。姑がこの嫁を再婚させようとしたが、嫁は最後まで応じなかった。姑は近所の人に「あの孝行な嫁は私をたいそう大事にしてくれる。私は彼女に子がなく、長く寡婦として過ごしていることを哀れに思う。私が年老いてこの若い盛りの人を苦労させ続けるのはどうしたものか」と語った。その後、姑は自ら首を吊って亡くなった。姑の娘が役人に「あの孝行な嫁が私の母を殺した」と訴え出た。役人は孝婦を捕らえたが、孝婦は姑を殺していないと言い張った。役人が拷問にかけようとしたので、孝婦はやむなく身に覚えのない罪を認めてしまった。訴訟の記録が上級の役所に提出されると、于公は、姑を十年も孝行に養ってきたことは評判になっている、この人が姑を殺すはずがない、と考えた。しかし太守はこれを聞き入れず、于公が何度も争ったが認められなかった。そこで于公は病と称して職を辞した。太守はついに孝婦を処刑した。郡内は三年にわたり日照りが続いた。後任の太守が着任し、占いによってその原因を尋ねた。于公は「あの孝婦は死罪に値しませんでした。前任の太守が無理にこれを処刑したのです。その咎はそこにあるはずです」と言った。そこで牛を殺して孝婦の墓を祭ったところ、太守以下皆が自らそこに赴くと、天は大雨を降らせ、その年は豊作となった。郡内の人々はこれによりいっそう于公を敬い重んじるようになった。于公は自邸を新築するにあたり、大工に「私のために立派な門を作ってくれ。私は裁判を治めて一度も冤罪を出したことがない。私の子孫は必ず諸侯に封じられる者が出るだろうから、大きな車ごと通れるような門にしてくれ」と言った。そして後にその子・于定国は西平侯に封じられるに至った。
解説
この章句が説くこと
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説苑・說叢命を知る者は天を怨みず、己を知る者は人を怨みず。人にして愛せざれば則ち仁なる能わず、佞にして巧ならざれば則ち信なる能わず。善を言うに身に及ぶ毋かれ、惡を言うに人に及ぶ毋かれ。上清くして欲無ければ、則ち下正しくして民樸なり。來事は追うべきなり、往事は及ぶべからず。思慮の心無ければ則ち達せず、談說の辭無ければ則ち樂しからず。
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尚書・說命中惟れ治乱は庶官に在り。官は私昵に及ぼさず、惟れ其の能のみ。爵は悪徳に及ぼす罔く、惟れ其の賢のみ。
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論語 憲問篇或るひと曰く、「徳を以て怨みに報ゆるは、何如」と。子曰く、「何を以てか徳に報いん。直を以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」と。
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風憲忠告・紏彈苐七夫れ臺憲(たいけん)の職は、內外遠鄉鄉邇(ないがいえんきょうきょうじ)の分無く、凡そ知る所有れば、皆盡言以て上に聞するを得。外に在りと雖も、苟しくも居中の人に非ざるを知らば、紏(ただ)してこれを言うも可なり。內に在りと雖も、苟しくも外官の不法なる者を知らば、紏してこれを言うも亦た可なり。大率惟だ公を盡し私無きを務む、斯れこれを得ん。夫れ人の仕うるや、貴近有り、疏遠有り。貴近なる者を少しも貸さざれば、則ち位卑くして罪微なる者は、劾(がい)を待たずして艾(おさ)まらん。故に前輩謂う「豺狼(さいろう)道に當る、安んぞ狐狸を問わん」と、亦た此の義なり。切に甞て謂う、薦舉の軆(たい)は則ち宜しく小官を先にすべく、紏彈の軆は則ち宜しく貴官を先にすべしと。然れども又た當に其の素行を審(つまび)らかにし、君子為るか小人為るかを見るべし。如し誠に小人ならば、長ずる所有りと雖も、亦た必ずしも舉げず。何となれば則ち、其の平日不善なる者多ければなり。况んや刑憲は本(もと)小人を待つを以てす、君子の過ちは、苟しくも甚だしきに至らざれば、殆ど輕易にこれを加うべからず、數十年作飬(さくいく)の功をして、一旦に掃地せしむればなり。盖し人才は得難く、全才は尤も得難しと為す。昔趙清獻公(ちょうせいけんこう)言路に在り、彈劾權貴を避けず、亰師號して「鐵面御史」と為す。甞て朝廷をして君子小人を別白せしめんと欲す。其の言に曰く、「小人は小過有りと雖も、當に力めてこれを排絕すべし、後乃ち患無し。君子不幸にして詿誤(かいご)有れば、則ち當に國家の為に保持愛護し、以て其の德を全うすべし」と。於戲、趙公の言は、深識遠慮、真に大軆を知るの論と謂うべし。故に余これを表して出し、以て當路者の楷式(かいしき)と為す。
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論語 為政篇人の行いを見て、その動機を観察し、心が安らぐところを見れば、その人の本性は隠せない。
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説苑・貴德孔子曰く、「里は仁を美と為す、択びて仁に処らずんば、焉んぞ智を得ん」と。夫れ仁者は、必ず恕して然る後に行ふ、行ひ一たび不義にして、一無罪を殺さば、以て高官大位を得と雖も、仁者は為さざるなり。夫れ大仁は、近きを愛して以て遠きに及び、其の諧はざる所有るに及びては、則ち小仁を虧きて以て大仁に就く。大仁は、恩四海に及ぶ、小仁は、妻子に止まる。妻子は、其の知の利を営むを以て、婦人の恩を以て之を撫し、其の内情を飾り、其の偽を雕画す、孰か其の真に非ざるを知らんや。時に栄を蒙ると雖も、然れども士君子は以て大辱と為す。故に共工・驩兜・符里・鄧析、其の智識する所無きに非ざるなり、然れども聖王の誅する所と為る者は、徳無くして苟くも利するを以てなり。豎刁・易牙、体を毀ち子を殺して以て利を干む、卒に賊と斉に為る。故に人臣仁ならざれば、篡弑の乱生じ、人臣にして仁なれば、国治まり主栄ゆ。明主焉を察すれば、宗廟大いに寧し。夫れ人臣すら猶ほ仁を貴ぶ、況んや人主に於てをや。故に桀紂は不仁を以て天下を失ひ、湯武は積徳を以て海土を有つ。是を以て聖王は徳を貴びて之を務め行ふ。孟子曰く、「恩を推せば以て四海に及ぶに足り、恩を推さざれば以て妻子を保つに足らず。古人の大いに人に過ぐる所以の者は他無し、善く其の有る所を推すのみ」と。