法句経 / 第二十一 雑の部 二九九〜三〇一 醒めて覚る弟子
二九九 瞿曇の弟子は恆に善く醒めて覺る、彼等は晝も夜も常に身を念ず。 三〇〇 瞿曇の弟子は恆に善く醒めて覺る、彼等の意は晝も夜も不害を樂ふ。 三〇一 瞿曇の弟子は恆に善く醒めて覺る、彼等の意は晝も夜も心の安定を樂ふ。
新字:二九九 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等は昼も夜も常に身を念ず。 三〇〇 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等の意は昼も夜も不害を楽ふ。 三〇一 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等の意は昼も夜も心の安定を楽ふ。
書き下し
二九九 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等は昼も夜も常に身を念ず。 三〇〇 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等の意は昼も夜も不害を楽ふ。 三〇一 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等の意は昼も夜も心の安定を楽ふ。
現代語訳
瞿曇の弟子たちは、いつもよく目覚めて気づいている。彼らは昼も夜も常に身体を念じている。瞿曇の弟子たちは、いつもよく目覚めて気づいている。彼らの心は昼も夜も不害(生きものを傷つけないこと)を楽しむ。瞿曇の弟子たちは、いつもよく目覚めて気づいている。彼らの心は昼も夜も心の安定(瞑想による静けさ)を楽しむ。
解説
前の三偈に続く、同じ句で始まる六偈の後半である。前半が仏・法・僧という外の拠りどころを念じたのに対し、ここでは念ずる対象が内側へ移る。まず自分の身体、次に誰も傷つけないこと、最後に心の安定である。身体を念ずるとは、呼吸や姿勢や動作を見失わずにいることで、仏教の瞑想のもっとも基本的な入口とされる。そこから他者への構え(不害)へ、さらに心そのものの静けさへと進む。しかも後の二偈では「念ず」が「楽ふ」に変わっている。不害も安定も、努めて守る戒めではなく、心が自ずと喜ぶものになっている、という含みがある。仏・法・僧から身・不害・定へという六偈の並びは、外から内へ、努力から喜びへという修行の深まりとして読める。規律が負担でなく喜びになったとき、それは身についたといえるのだろう。
関連する章句
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