法句経 / 第二十一 雑の部 二九六〜二九八 昼も夜も仏を念ず
二九六 瞿曇の弟子は恆に善く醒めて覺る、彼等は晝も夜も常に佛を念ず。 二九七 瞿曇の弟子は恆に善く醒めて覺る、彼等は晝も夜も常に法を念ず。 二九八 瞿曇の弟子は恆に善く醒めて覺る、彼等は晝も夜も常に僧を念ず。
新字:二九六 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等は昼も夜も常に仏を念ず。 二九七 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等は昼も夜も常に法を念ず。 二九八 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等は昼も夜も常に僧を念ず。
書き下し
二九六 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等は昼も夜も常に仏を念ず。 二九七 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等は昼も夜も常に法を念ず。 二九八 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等は昼も夜も常に僧を念ず。
現代語訳
瞿曇(ゴータマ、釈尊)の弟子たちは、いつもよく目覚めて気づいている。彼らは昼も夜も常に仏を念じている。瞿曇の弟子たちは、いつもよく目覚めて気づいている。彼らは昼も夜も常に法(教え)を念じている。瞿曇の弟子たちは、いつもよく目覚めて気づいている。彼らは昼も夜も常に僧(修行者の集い)を念じている。
解説
「瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る」という同じ句で始まる六偈のうち、前半の三偈である。瞿曇はゴータマの音写で、釈尊の姓にあたる。仏・法・僧はのちに三宝と呼ばれ、仏教徒が拠りどころとする三つの柱になった。目を引くのは、念ずる対象より先に「醒めて覚る」が置かれていることだ。まずよく目覚めていることがあり、その目覚めた心が昼も夜も仏を、法を、僧を思い続ける。念ずるとは祈ることではなく、心から離さずにおくことである。同じ句を三度繰り返す作りは、唱えて覚えるための形でもあり、繰り返しそのものが修行の姿を映している。何を拠りどころにするかを持っている人は、忙しさの中でも立ち返る場所がある。組織の理念もまた、掲げるだけでなく昼夜念じられてはじめて働くものかもしれない。
関連する章句
-
『法句経』第二十一 雑の部 二九九〜三〇一 醒めて覚る弟子二九九 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等は昼も夜も常に身を念ず。 三〇〇 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等の意は昼も夜も不害を楽ふ。 三〇一 瞿曇の弟子は恒に善く醒めて覚る、彼等の意は昼も夜も心の安定を楽ふ。
-
『修証義』第三章 受戒入位次には深く仏法僧の三宝を敬ひ奉るべし。生を易へ身を易へても。三宝を供養し敬ひ奉らんことを願ふべし。西天東土仏祖正伝する所は恭敬仏法僧なり。
-
『法句経』第二十六 婆羅門の部 三八六〜三八八 静慮して照る三八六 静慮し、離貪し、堅住し、已に所作を作し、心の穢なく、最上義を獲得せる人を我は婆羅門と謂ふ。 三八七 日は昼に照り、月は夜を照らし、兵は甲を擐して照り、婆羅門は静慮して照り、仏は威光を以て一切迷妄の闇を照らす。 三八八 諸悪を去るが故に婆羅門なり、寂静行のゆゑに沙門と謂はる、己の垢を除遣せるが故に出家と謂はる。
-
『修証義』第三章 受戒入位其帰依三宝とは、正に浄信を専らにして。或は如来現在世にもあれ。或は如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱へて云く南無帰依仏。南無帰依法。南無帰依僧。仏は是れ大師なるが故に帰依す。法は良薬なるが故に帰依す。僧は勝友なるが故に帰依す。仏弟子となること必ず三帰に依る。何れの戒を受くるも、必ず三帰を受けて、其後諸戒を受くるなり。然あれば則ち三帰に依りて得戒あるなり。
-
『法句経』第二十 道の部 二七六 如来は説者なり二七六 汝等須らく勗めよ、如来は説者なり、思惟して修行する人は魔の縛を脱る。
-
『法句経』第十四 仏陀の部 一九〇〜一九二 この帰依は勝なり一九〇 仏と法と僧とに帰依し、正慧を以て四の聖き諦を観察し、 一九一 苦と、苦の起と、又苦の滅と、又苦尽に至る八支の聖道を(観察すれば)、 一九二 此の帰依は勝なり、此の帰依は尊なり、此の帰依に因つて能く衆苦を解脱す。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る