法句経 / 第二十五 比丘の部 三七三〜三七五 空屋に入る比丘
三七三 空屋に入り心寂靜なる比丘は、正しく法を觀じて人中に無き樂を享く。 三七四 人苟も蘊の生滅を思惟することあらば不死を證得せし人の喜樂を得ん。 三七五 現世に於ける聰慧ある比丘の初とは謂く、感官を護り、滿足し、道徳の規律を擁護し、生活正しく、善友を侶とするにあり。
新字:三七三 空屋に入り心寂静なる比丘は、正しく法を観じて人中に無き楽を享く。 三七四 人苟も蘊の生滅を思惟することあらば不死を証得せし人の喜楽を得ん。 三七五 現世に於ける聰慧ある比丘の初とは謂く、感官を護り、満足し、道徳の規律を擁護し、生活正しく、善友を侶とするにあり。
書き下し
三七三 空屋に入り心寂静なる比丘は、正しく法を観じて人中に無き楽を享く。 三七四 人苟も蘊の生滅を思惟することあらば不死を証得せし人の喜楽を得ん。 三七五 現世に於ける聡慧ある比丘の初とは謂く、感官を護り、満足し、道徳の規律を擁護し、生活正しく、善友を侶とするにあり。
現代語訳
人のいない空き家に入り、心が静まった比丘は、正しく法を観察して、人の世にはない楽しみを味わう。人がもし、蘊(因縁によって寄り集まったもの)の生じ滅するさまを思いめぐらすならば、不死(涅槃)を悟った人の喜びと楽しみを得るであろう。この世において智慧ある比丘がまず初めにすべきことは、感覚の器官を守り、足ることを知り、戒律を守り、正しい暮らしを立て、善い友を伴侶とすることである。
解説
三七三偈の「空屋」は文字どおりの空き家というより、荻原の注が言うように静かな場所で定に入ることを指す。そこで味わう楽しみは「人中に無き楽」、つまり人づきあいや所有からは得られない種類の楽だという。三七四偈の「蘊」は色・受・想・行・識の五蘊、人間を形づくる寄り集まりのことである。それが生じては滅するのを見つめるだけで、不死を得た人の喜びに触れられるという。三七五偈はそこから足元に降りてくる。修行の「初」は、感官を護る、満足する、規律を守る、暮らしを正す、善き友と交わる。高い境地の話のあとに、生活の基本が並ぶ構成が誠実だ。静かに考える時間は、暮らしの土台が整ってはじめて持てるものなのだろう。
関連する章句
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