法句経 / 第十六 愛好の部 二〇九〜二一一 愛を造る勿れ
二〇九 不相應に相應し、相應に相應せず、實義を捨てて可愛を執取する人は自ら相應する人を妬む。 二一〇 所愛と會ふ勿れ、決して非愛と(會ふ勿れ)、所愛を見ざるは苦なり、又非愛を見るも(苦なり)。 二一一 故に愛を造る勿れ、所愛を失ふは災なり、愛非愛なき人には諸の繋累あることなし。
新字:二〇九 不相応に相応し、相応に相応せず、実義を捨てて可愛を執取する人は自ら相応する人を妬む。 二一〇 所愛と会ふ勿れ、決して非愛と(会ふ勿れ)、所愛を見ざるは苦なり、又非愛を見るも(苦なり)。 二一一 故に愛を造る勿れ、所愛を失ふは災なり、愛非愛なき人には諸の繋累あることなし。
書き下し
二〇九 不相応に相応し、相応に相応せず、実義を捨てて可愛を執取する人は自ら相応する人を妬む。 二一〇 所愛と会ふ勿れ、決して非愛と(会ふ勿れ)、所愛を見ざるは苦なり、又非愛を見るも(苦なり)。 二一一 故に愛を造る勿れ、所愛を失ふは災なり、愛非愛なき人には諸の繋累あることなし。
現代語訳
ふさわしくないことに励み、ふさわしいことに励まず、真の目的を捨てて好ましいものに執着する人は、自ら(道に)励む人をうらやむ。愛する者と会ってはならない。決して愛さない者と(会っては)ならない。愛する者に会えないのは苦しみであり、愛さない者に会うのもまた(苦しみである)。それゆえ愛するものを造ってはならない。愛するものを失うのは災いである。愛も非愛もない人には、もろもろの束縛はない。
解説
第十六章「愛好の部」の冒頭の三偈である。「相応」の原語はヨーガで、荻原の注は観行、起行の二義を挙げる。心を向けるべきものに向けず、向けるべきでないものに向けて、真の目的を捨てた者が、道に励む人をうらやむ。二一〇偈では、仏教でいう「愛別離苦」と「怨憎会苦」が並ぶ。愛する者に会えない苦しみと、嫌な者に会う苦しみである。そこから「愛を造る勿れ」という結論が出る。これは冷たく聞こえるが、ここでの「愛」は好きなものへの執着を指す。好きと嫌いを強く造るほど、失う苦しみと避けられない苦しみの両方が増える。好悪をなくせば束縛もない、という論理である。人を好き嫌いで見ると、その分だけ自分が縛られる。人事や評価に私情が入るとき、縛られているのは誰かを考えさせる。
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