法句経 / 第十六 愛好の部 二一二・二一三
二一二 愛より憂を生じ、愛より畏を生ず、愛を離れたる人に憂なし、何の處にか畏あらん。 二一三 親愛より憂を生じ、親愛より畏を生ず、親愛を離れたる人に憂なし、何の處にか畏あらん。
新字:二一二 愛より憂を生じ、愛より畏を生ず、愛を離れたる人に憂なし、何の処にか畏あらん。 二一三 親愛より憂を生じ、親愛より畏を生ず、親愛を離れたる人に憂なし、何の処にか畏あらん。
書き下し
二一二 愛より憂を生じ、愛より畏を生ず、愛を離れたる人に憂なし、何の処にか畏あらん。 二一三 親愛より憂を生じ、親愛より畏を生ず、親愛を離れたる人に憂なし、何の処にか畏あらん。
現代語訳
愛より憂いが生じ、愛より畏れが生ずる。愛を離れた人に憂いはない。どこに畏れがあろうか。親愛より憂いが生じ、親愛より畏れが生ずる。親愛を離れた人に憂いはない。どこに畏れがあろうか。
解説
第十六章「愛好の部」には、同じ形の偈が六つ並ぶ。愛・親愛・愛楽・愛欲・渇愛と語を替えながら、「〜より憂を生じ、〜より畏を生ず」を繰り返す。ここは現代の読者がもっとも抵抗を覚える箇所だろう。愛するなと言われているように読めるからだ。ただし原語のここでの「愛」は、対象に執着して離れられなくなる心の働きを指す。失うことを恐れる心が生まれるのは、握っているからだという分析である。誰かを大切に思うことを否定しているのではなく、大切に思うことと、失う恐怖に支配されることを切り分けている。「何の處にか畏あらん」——恐れの居場所が無くなる、という言い方が示すのは、恐れを克服する話ではなく、恐れが立つ足場のほうを見ている話である。
この章句が説くこと
愛より憂を生ず渇愛恐れの足場執着