抱朴子外篇 / 用刑
「但當先令而後誅,得情而勿喜,使伯氏無怨於失邑,虞芮知恥而無訟耳。若強暴掩容,操繩而不憚,誘於含垢,莫蔓而不除,恃藏疾之大言,忘膏肓之近急,何異焦喉之渴切身,而遙指滄海於萬里之外,滔天之水已及,而方造舟於長洲之林,安得免誇父之禍,脫淪水之害哉!世人薄申韓之實事,嘉老莊之誕談。然而為政莫能錯刑,殺人者原其死,傷人者赦其罪,所謂土木半瓦胾,無救朝饑者也。道家之言,高則高矣,用之則弊,遼落迂闊,譬猶幹將不可以縫線,巨象不可使鼠,金舟不能淩陽侯之波,玉馬不任騁千里之跡也。
新字:「但当先令而後誅,得情而勿喜,使伯氏無怨於失邑,虞芮知恥而無訟耳。若強暴掩容,操縄而不憚,誘於含垢,莫蔓而不除,恃蔵疾之大言,忘膏肓之近急,何異焦喉之渇切身,而遥指滄海於万里之外,滔天之水已及,而方造舟於長洲之林,安得免誇父之禍,脱淪水之害哉!世人薄申韓之実事,嘉老荘之誕談。然而為政莫能錯刑,殺人者原其死,傷人者赦其罪,所謂土木半瓦胾,無救朝饑者也。道家之言,高則高矣,用之則弊,遼落迂闊,譬猶幹将不可以縫線,巨象不可使鼠,金舟不能淩陽侯之波,玉馬不任騁千里之跡也。
書き下し
「但だ当に先ず令して後に誅し、情を得て喜ぶ勿かるべく、伯氏をして邑を失うに怨む無からしめ、虞・芮をして恥を知りて訟えざらしむるのみ。若し強暴は容を掩い、縄を操りて憚らず、含垢に誘われて、蔓を莫んじて除かず、藏疾の大言を恃みて、膏肓の近急を忘れば、何ぞ喉を焦す渇の身に切なるに、遥かに滄海を万里の外に指さし、滔天の水已に及びて、方に舟を長洲の林に造るに異ならんや。安んぞ夸父の禍を免れ、淪水の害を脱するを得んや。世人は申・韓の実事を薄んじ、老・荘の誕談を嘉す。然れども政を為して刑を錯く能わず、人を殺す者は其の死を原し、人を傷つくる者は其の罪を赦す。所謂土木・半瓦・胾は、朝の饑えを救う無き者なり。道家の言は、高きは則ち高し、之を用うれば弊あり、遼落迂闊なること、譬えば干将は以て線を縫う可からず、巨象は鼠を使う可からず、金舟は陽侯の波を凌ぐ能わず、玉馬は千里の跡を騁するに任えざるが猶し。
現代語訳
「ただ、先に命令を出してから後に誅罰し、実情を得ても喜ばず、伯氏に領邑を失った恨みを持たせず、虞・芮の人々に恥を知らせて訴えさせないようにするだけである。もし強暴な者が姿を隠し、縄を握っても憚らず、垢を含む寛容に誘われて、蔓を放置して除かず、疾を抱えるのも大度のうちという大言を恃み、膏肓に迫る急を忘れるなら、喉が焼けて渇きが身に切迫しているのに、遠く万里の外の滄海を指さし、天に届く洪水がすでに及んでから、ようやく長洲の林で舟を造るのと変わらない。どうして夸父の禍いを免れ、淪水の害を脱することができようか。世の人は申不害・韓非の実際の事を軽んじ、老荘の大げさな談を良しとする。しかし政治を行って刑を措くことはできず、人を殺した者はその死を許し、人を傷つけた者の罪を赦している。いわゆる土や木、半端な瓦、肉片では、朝の飢えを救えないのと同じだ。道家の言葉は高くはあるが、用いれば弊害があり、遠く現実離れして迂遠であることは、干将の名剣で糸を縫えず、巨象に鼠を使えず、金の舟は陽侯の波を越えられず、玉の馬は千里を駆けられないのと同じである。
解説
この章句が説くこと
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