秘本玉くしげ / 上 質素は続かず
その中に、たまたま世上奢の長じぬる事に心づきて、物事質素を心がくるものもあれ共、世間並をはづれては、却て變なるやうに云なされ、人にわろく思はるるによりて、せんかたなくおのづから世間にしたがふ事多き故に、これもおごりをまぬかるる事能はず。又時時儉約儉約といひたてて省略する事共もあれ共、或は省略すまじき事をまづ省略し、或は止めてもさのみ爲にもならぬ事を止などして、惣体の奢は相替らず。又しばらく儉約を加へても、世間みな然るにあらざれば、世間につれて又いつのほどにかゆるみて、本のごとくになりなどして、すべて質素にかへる事はつゆほどもなくて、年年月月に世上華美にのみなりゆくほどに、貧しき者も世上につれて、おのづから物入多く困窮する者のみ多き也。さて世間のおごりにつきては、商事もおほく、世のにぎはひにもなりて、金銀融通すれば、さのみ困窮はすまじきやうなるものなれ共、左樣にはあらず。
新字:その中に、たまたま世上奢の長じぬる事に心づきて、物事質素を心がくるものもあれ共、世間並をはづれては、却て変なるやうに云なされ、人にわろく思はるるによりて、せんかたなくおのづから世間にしたがふ事多き故に、これもおごりをまぬかるる事能はず。又時時倹約倹約といひたてて省略する事共もあれ共、或は省略すまじき事をまづ省略し、或は止めてもさのみ為にもならぬ事を止などして、惣体の奢は相替らず。又しばらく倹約を加へても、世間みな然るにあらざれば、世間につれて又いつのほどにかゆるみて、本のごとくになりなどして、すべて質素にかへる事はつゆほどもなくて、年年月月に世上華美にのみなりゆくほどに、貧しき者も世上につれて、おのづから物入多く困窮する者のみ多き也。さて世間のおごりにつきては、商事もおほく、世のにぎはひにもなりて、金銀融通すれば、さのみ困窮はすまじきやうなるものなれ共、左様にはあらず。
書き下し
その中に、たまたま世上奢の長じぬる事に心づきて、物事質素を心がくるものもあれ共、世間並をはづれては、却て変なるやうに云なされ、人にわろく思はるるによりて、せんかたなくおのづから世間にしたがふ事多き故に、これもおごりをまぬかるる事能はず。又時時倹約倹約といひたてて省略する事共もあれ共、或は省略すまじき事をまづ省略し、或は止めてもさのみ為にもならぬ事を止などして、惣体の奢は相替らず。又しばらく倹約を加へても、世間みな然るにあらざれば、世間につれて又いつのほどにかゆるみて、本のごとくになりなどして、すべて質素にかへる事はつゆほどもなくて、年年月月に世上華美にのみなりゆくほどに、貧しき者も世上につれて、おのづから物入多く困窮する者のみ多き也。さて世間のおごりにつきては、商事もおほく、世のにぎはひにもなりて、金銀融通すれば、さのみ困窮はすまじきやうなるものなれ共、左様にはあらず。
現代語訳
(そうした世の中にあって、)その中には、たまたま世の奢りが募ってきたことに気づいて、何事も質素を心がける者もあるけれども、世間並みから外れると、かえって変わり者のように言いふらされ、人に悪く思われるので、しかたなく自然と世間に従うことが多く、それゆえこの者も奢りを免れることができない。また時々「倹約、倹約」と言い立てて省く事柄もあるけれども、あるいは省いてはならない事をまっ先に省き、あるいはやめてもさほど益にもならない事をやめたりして、全体の奢りは相変わらずである。また、しばらく倹約を加えても、世間がみなそうしているわけではないので、世間につられてまたいつのまにか緩んで、元のようになったりして、およそ質素に立ち返ることは露ほどもなく、年ごと月ごとに世の中は華美にばかりなってゆくので、貧しい者も世の中につられて、自然と出費が多くなり困窮する者ばかりが多いのである。さて、世間が奢ることについては、商いも多く、世の賑わいにもなって、金銀が融通するのだから、それほど困窮はしないはずのように思えるものだが、そうではない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『秘本玉くしげ』上 奢りは法で止まらず然れば、これをよきほどにせんと思ふときは、万事を大にそぎすてて、狂人かと人に笑はるるほどに落さざれば、おのおの身分相応の所へは当りがたし。然れども、さほどまでにはとてもおとしがたきものにて、たとひ自分一人は人にかまはず右の如くにおとしても、家内までにも行とどきがたく、又上よりいかほど厳しく命令を下しても、これを制せられても、時世の勢は中中防ぎがたく、人力の及びがたきところあるもの也。たとひしばらくは命令に恐れてこれを慎しむやうにても、末とげがたく、又うはべは命令を守るやうにても、内内にては皆これを破る。衣服の制などみな然也。又一国ぎりこれを制しても、天下一同ならざれば、その制立がたき事も多し。又惣体表向へは出ざる家内のこまかなる事の奢の甚しきを、一つ一つ吟味をとげてこれを禁ずべき由なければ、とにかくに此世上一同の華美おごりは、いかやうにしても俄には停めがたく、年年月月に長じゆくばかり也。
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『秘本玉くしげ』上 倹約と悋嗇又倹約を心がくれば、おのづから悋(嗇)きかたに流れやすきものにて、必ずすべき事をも止てせず、人にとらすべきものをも惜みてとらさず、甚しき者は人のものをさへ奪はまほしく思ふやうの心にもなりやすし。然に此所をよく心得て、倹約にしてしかも悋嗇に流れぬやうにはありにくきもの也。殊に上にたつ人など、此わきまへなくして悋嗇なるときは、下の潤ひかはきて甚よろしからず。されば倹約も実には宜しき事にあらず。とかく上中下、各身分相応にくらすがよき也。然りといへども、その相応といふはいかほどが相応なるや、手本のなきものなれば、よきほどは知がたき事なるに、惣じて華美なるかたにはうつりやすく、すこしも質素なる方へはうつりにくきものなれば、治平の久しくつづける世は、一同に段段華美の長ずるならひにして、上にも申せる如く、今の世ほど下が下まで華美なることは古今の間になき事なれば、今の世にこれぞ分限相応のよきほどならんと思ふ事は、皆大に分限には過てある也。
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『秘本玉くしげ』上 少しづつ質素へ然れ共、ものはかぎり有て、のぼりきはまる時は又おのづから降るとなれば、いつぞは又本へかへる時節も有べきに、されど此世上の奢りなどの、左様に自然と質素の方へかへるといふことは、まづは何ぞ変なる事などのなくてはかへりがたきことなれば、その変の有て自然とかへるを、安閑として待居るべきにもあらず。されば上にたつ人は、随分なるべきだけは工夫をめぐらして、自他奢の長ぜざるやうに、少しづつにても質素の方へかへるやうにはからひ玉ふべき也。すこしづつにても質素の方にかへりて長ずることなければ、起るべき変事もおこらずして、長久に無事なるべし。さてそのはからひはいかにといふに、右に申せる如く、此事は厳しき命令ばかりにてはとても直りがたきことにて、ただ面面自然とたしなむ心になりて、おのづからにするやうにはからふべき事也。
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『秘本玉くしげ』上 倹約の的外れ然るを、世に倹約といへば、先第一に飮食衣服音信抔をおとす事なれ共、是は下下の身上にてこそ大なる違ひも有事なれ、大名の御身上にては、是らの倹約ばかりにては、さのみ御勝手の直る程の事は出来がたかるべし。是らの外に、急度それとは心の付ざる事共に、広大の費ある事多し。
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『秘本玉くしげ』上 身分の奢り身分を重重敷するは、奢りとは別の事の様なれ共、是即大なる奢り也。其中に平人の奢りは、其身一分ぎりの事のみにては害の他に及ぶ事はなきを、上たる人の奢りは、其害領内に及ぶ事也。惣体治平の代久しく続く時は、いつとなく世上物事華美に成て、漸漸に人の身持も重重敷なる事なるを、時時に是を押へずして捨置時は、年年月月に長し行て際限なく、次第次第に世上困窮に及びて、竟に如何敷事の起る也。
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『秘本玉くしげ』上 便利が出費を生む然るに今の世は、人ごとに我おとらじとよきものをのぞみ、自由なるうへにも自由よからんとするから、商人職人年年月月に、便利よく自由なる事、めづらしきものなどを考へ出し作り出して、これを売ひろむるゆゑに、年年月月によきもの自由なるもの出来て、世上の人の物入は漸漸に多くなること也。すべて何事も、今までなければなくて足りぬる事も、あるを見ては無が不自由に覚え、又今までは麁相なる物にてことたれるも、それより美物出れば麁相なるは甚わろく思はるる故に、次第次第に事も物も数数おほくなり、華麗になりゆくこと也。かくて事も物も、一つにても多くなり華美になれば、それだけ世話も多く、物入は勿論おほき也。これみな世中の奢りの長ずるにて、畢竟は困窮の基となることぞ。さて又、世間の困窮に付ては、富る者はいよいよますます富を重ねて、大かた世上の金銀財宝は、うごきゆるぎに富商の手にあつまること也。
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