秘本玉くしげ / 上 倹約の的外れ
然るを、世に儉約といへば、先第一に飮食衣服音信抔をおとす事なれ共、是は下下の身上にてこそ大なる違ひも有事なれ、大名の御身上にては、是らの儉約ばかりにては、さのみ御勝手の直る程の事は出來がたかるべし。是らの外に、急度それとは心の付ざる事共に、廣大の費ある事多し。
新字:然るを、世に倹約といへば、先第一に飲食衣服音信抔をおとす事なれ共、是は下下の身上にてこそ大なる違ひも有事なれ、大名の御身上にては、是らの倹約ばかりにては、さのみ御勝手の直る程の事は出来がたかるべし。是らの外に、急度それとは心の付ざる事共に、広大の費ある事多し。
書き下し
然るを、世に倹約といへば、先第一に飮食衣服音信抔をおとす事なれ共、是は下下の身上にてこそ大なる違ひも有事なれ、大名の御身上にては、是らの倹約ばかりにては、さのみ御勝手の直る程の事は出来がたかるべし。是らの外に、急度それとは心の付ざる事共に、広大の費ある事多し。
現代語訳
それなのに、世に倹約といえば、まず第一に飲食・衣服・贈答などを削ることだが、これは下々の身の上でこそ大きな違いが出ることであって、大名の御身の上では、こうした倹約ばかりでは、さほど財政が直るほどのことはできまい。これらの外に、はっきりそれとは気づかないことがらに、広大な費えがあることが多い。
解説
財政再建の常套手段を、宣長は最初に退ける。飲食・衣服・贈答を削る。目に見えて分かりやすく、やっている感がある。だが「下下の身上にてこそ大なる違ひも有事なれ」——それが効くのは家計の規模までだ、と。大名の財政では、その程度を削っても直らない。では何が問題なのか。「急度それとは心の付ざる事共に、廣大の費ある事多し」。はっきりそれと気づかないところに、大きな費用がある。前段と合わせれば、それは格式の重さ、役職の多さ、手続きの厚みである。目に見える支出を削って安心し、目に見えない支出を放置する。倹約の失敗のかたちを、二百数十年前に正確に言い当てている。
この章句が説くこと
倹約飲食衣服音信心の付かざる費見えないコスト
関連する章句
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『秘本玉くしげ』上 倹約と悋嗇又倹約を心がくれば、おのづから悋(嗇)きかたに流れやすきものにて、必ずすべき事をも止てせず、人にとらすべきものをも惜みてとらさず、甚しき者は人のものをさへ奪はまほしく思ふやうの心にもなりやすし。然に此所をよく心得て、倹約にしてしかも悋嗇に流れぬやうにはありにくきもの也。殊に上にたつ人など、此わきまへなくして悋嗇なるときは、下の潤ひかはきて甚よろしからず。されば倹約も実には宜しき事にあらず。とかく上中下、各身分相応にくらすがよき也。然りといへども、その相応といふはいかほどが相応なるや、手本のなきものなれば、よきほどは知がたき事なるに、惣じて華美なるかたにはうつりやすく、すこしも質素なる方へはうつりにくきものなれば、治平の久しくつづける世は、一同に段段華美の長ずるならひにして、上にも申せる如く、今の世ほど下が下まで華美なることは古今の間になき事なれば、今の世にこれぞ分限相応のよきほどならんと思ふ事は、皆大に分限には過てある也。
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『秘本玉くしげ』上 質素は続かずその中に、たまたま世上奢の長じぬる事に心づきて、物事質素を心がくるものもあれ共、世間並をはづれては、却て変なるやうに云なされ、人にわろく思はるるによりて、せんかたなくおのづから世間にしたがふ事多き故に、これもおごりをまぬかるる事能はず。又時時倹約倹約といひたてて省略する事共もあれ共、或は省略すまじき事をまづ省略し、或は止めてもさのみ為にもならぬ事を止などして、惣体の奢は相替らず。又しばらく倹約を加へても、世間みな然るにあらざれば、世間につれて又いつのほどにかゆるみて、本のごとくになりなどして、すべて質素にかへる事はつゆほどもなくて、年年月月に世上華美にのみなりゆくほどに、貧しき者も世上につれて、おのづから物入多く困窮する者のみ多き也。さて世間のおごりにつきては、商事もおほく、世のにぎはひにもなりて、金銀融通すれば、さのみ困窮はすまじきやうなるものなれ共、左様にはあらず。
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『秘本玉くしげ』上 奢りは法で止まらず然れば、これをよきほどにせんと思ふときは、万事を大にそぎすてて、狂人かと人に笑はるるほどに落さざれば、おのおの身分相応の所へは当りがたし。然れども、さほどまでにはとてもおとしがたきものにて、たとひ自分一人は人にかまはず右の如くにおとしても、家内までにも行とどきがたく、又上よりいかほど厳しく命令を下しても、これを制せられても、時世の勢は中中防ぎがたく、人力の及びがたきところあるもの也。たとひしばらくは命令に恐れてこれを慎しむやうにても、末とげがたく、又うはべは命令を守るやうにても、内内にては皆これを破る。衣服の制などみな然也。又一国ぎりこれを制しても、天下一同ならざれば、その制立がたき事も多し。又惣体表向へは出ざる家内のこまかなる事の奢の甚しきを、一つ一つ吟味をとげてこれを禁ずべき由なければ、とにかくに此世上一同の華美おごりは、いかやうにしても俄には停めがたく、年年月月に長じゆくばかり也。
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『秘本玉くしげ』上 役人が増える先御身分の重重敷によりて、夫につきたる万事を殊の外重重敷取扱ふから、武備国政の外に御身分の事に付たる様様の役人抔多くして、一人にても済べき事にも上役下役段段に有て人多くかかり、さらでもなき事にも多くの人手間かかり、次第に事も繁く費多く、其一一の取扱ひに一つとして御物入のなき事はあらず。又段段の役人多ければ、横道へ抜行物入も多かるべし。惣体上の事を下下にて取扱ふ事余り重重敷故に、下の煩と成事は申に及ばず、無益の費も甚多き事なるを、其細かなる事共迄は上には御心もつきがたき事なるべし。かの飲食衣服抔の如きも、上にめさるる所はいか程美を尽しても、たかのしれたる事なれ共、それを下にて余り重重敷取扱ふにつきて、役役抔も多く、ひたすら念を入るをよき事とする習ひにて、年年月月に諸事重重敷なりて、無益の事に甚念を入るから、何に付ても費の甚多き也。
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『秘本玉くしげ』上 定まれる禄惣体大名の御身分のあまりおもおもしきにつきて、御物入のおびただしきは勿論の事にて、又これによりて国政の妨となる事何につけてもおほし。そのわけは其所所に申すべし。抑下民は定まれる禄なければ、困窮に及ぶ者多きも道理なるが、武士は定まれる禄あれば、其分限相応にさへくらさば逼迫することは有まじき道理也。大名方もをりをり凶事水損などありて御収納の減ずる事もあれ共、これらは古へよりある事にて今始まりたることにあらざれば、常常その御手当はなくてかなはぬ事。又公儀の御手伝などに過分の御物入ある、是も定まりたる事なれば、常にその手当も有べき事なり。又凶年などに御領内の民をば随分丈夫に救ひ玉ひて、一人も飢寒に至らぬやうに取計ひ玉ふべきはづ、是も定まれる事也。さて御軍用のたくはへは申すにも及ばぬ事。
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『秘本玉くしげ』下 神事は削らず然るを世に倹約といへば、まづ第一に此神事或は先祖の祭より省略せんとするは、いかにぞや。抑今世上一同に次第次第に華美になり、奢長じたることなれば、それに准じて神事をも次第に華美に丁寧にすべきは、あたりまへ也。己が身分のみ奢をまして、神を祭る事をばまさずしては、いかが也。たとひ身分の事をば昔にかへして万を省略すとも、神事のみは次第に加へまさんこそ本意ならめ。
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