秘本玉くしげ / 上 江戸詰の人数
たとひ武備のためになるにもせよ、かく靜謐の御代に、常々の往來にさばかり多くの人を引連ずとも、何のあやまちかあらん。畢竟ただ身分をおもおもしくするかざりにのみなること也。さてまた江戶詰の人數も、是又大抵公儀の御定めあるかはしらねど、斯治平の御代にしては甚おほくして、費おびただしきことなるべし。御領内の政務の筋はみな國元にてとり行はるる事なれば、江戶御屋敷の御用とては、ただ公儀の御つとめ方、さては御親類方其外の御むつび、幷に御國元との掛引などのみにて、其餘は大方みな御方方の御身分のうへに付たる御用のみなるべければ、必しも武備のためにもならず、ただ御身分の重重しき方に付たる男女の人數の甚多きなれば、無益の御物入のおびただしかるべき事也。大かた右の事共など、今の人は今の通りをあたりまへの御事と思ふべけれども、大に然らず。書をよみて昔とくらべ見て、今は何事も大に過たることをさとるべき也。
新字:たとひ武備のためになるにもせよ、かく静謐の御代に、常々の往来にさばかり多くの人を引連ずとも、何のあやまちかあらん。畢竟ただ身分をおもおもしくするかざりにのみなること也。さてまた江戸詰の人数も、是又大抵公儀の御定めあるかはしらねど、斯治平の御代にしては甚おほくして、費おびただしきことなるべし。御領内の政務の筋はみな国元にてとり行はるる事なれば、江戸御屋敷の御用とては、ただ公儀の御つとめ方、さては御親類方其外の御むつび、幷に御国元との掛引などのみにて、其余は大方みな御方方の御身分のうへに付たる御用のみなるべければ、必しも武備のためにもならず、ただ御身分の重重しき方に付たる男女の人数の甚多きなれば、無益の御物入のおびただしかるべき事也。大かた右の事共など、今の人は今の通りをあたりまへの御事と思ふべけれども、大に然らず。書をよみて昔とくらべ見て、今は何事も大に過たることをさとるべき也。
書き下し
たとひ武備のためになるにもせよ、かく静謐の御代に、常々の往来にさばかり多くの人を引連ずとも、何のあやまちかあらん。畢竟ただ身分をおもおもしくするかざりにのみなること也。さてまた江戸詰の人数も、是又大抵公儀の御定めあるかはしらねど、斯治平の御代にしては甚おほくして、費おびただしきことなるべし。御領内の政務の筋はみな国元にてとり行はるる事なれば、江戸御屋敷の御用とては、ただ公儀の御つとめ方、さては御親類方其外の御むつび、并に御国元との掛引などのみにて、其余は大方みな御方方の御身分のうへに付たる御用のみなるべければ、必しも武備のためにもならず、ただ御身分の重重しき方に付たる男女の人数の甚多きなれば、無益の御物入のおびただしかるべき事也。大かた右の事共など、今の人は今の通りをあたりまへの御事と思ふべけれども、大に然らず。書をよみて昔とくらべ見て、今は何事も大に過たることをさとるべき也。
現代語訳
たとえ武備のためになるにしても、このように静謐な御代に、常々の往来にあれほど多くの人を引き連れなくても、何の過ちがあろうか。結局はただ身分を重々しくする飾りにだけなることである。さてまた江戸詰の人数も、これもまた大抵は公儀の御定めがあるのかは知らないが、このような治平の御代としてはたいへん多くて、費えがおびただしいことであろう。御領内の政務の筋はみな国元で執り行われることなので、江戸御屋敷の御用といえば、ただ公儀へのお勤め方、さては御親類方その他との御交際、並びに御国元との連絡などだけで、その余はたいていみな御方々の御身分の上に付いた御用だけであろうから、必ずしも武備のためにもならず、ただ御身分の重々しい方面に付いた男女の人数がたいへん多いのであるから、無益の御出費がおびただしいはずのことである。おおかた右のことどもなど、今の人は今のとおりを当たり前の御事と思うだろうが、大いにそうではない。書物を読んで昔と比べてみて、今は何事も大いに度を過ごしていることを悟るべきである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『秘本玉くしげ』上 行列の人数さて又、諸大名の江戸御往来の人数、殊の外に多きこと也。今の大名の御往来の人数は、全く軍陣の人数なり。平常の往来にかやうにおびただしき人数をめし具せらるる事は、和漢古来聞も及ばぬことにて、無益の費おほかるべき事也。但しこれは、昔し戦国より間近かりし時代の御定めにて、武備にあづかり公儀へかかはりし御事にて、今私に減少はなりがたきわけも有べきかしらねども、今の治平の御代の有様にとりては、大に減少し玉ひて五分の一ぐらゐにても宜しかるべく思はるること也。さて主人の人数の多きに准じて、家中の人人の常常の往来の人数も甚多し。一僕にても宜しかるべきほどの人も三人五人めしつれ、三人五人ぐらゐにて宜しかるべきをりも廿人卅人五十人もめしつれらるる。かやうに人数は多けれども、真さかの時の用にも立べき供まはりはまれなるべければ、これ皆無益の人数にて、ただ外見の美美しきと、途中身の用事を自由に弁ずることの二つには過ず。
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『秘本玉くしげ』上 役人が増える先御身分の重重敷によりて、夫につきたる万事を殊の外重重敷取扱ふから、武備国政の外に御身分の事に付たる様様の役人抔多くして、一人にても済べき事にも上役下役段段に有て人多くかかり、さらでもなき事にも多くの人手間かかり、次第に事も繁く費多く、其一一の取扱ひに一つとして御物入のなき事はあらず。又段段の役人多ければ、横道へ抜行物入も多かるべし。惣体上の事を下下にて取扱ふ事余り重重敷故に、下の煩と成事は申に及ばず、無益の費も甚多き事なるを、其細かなる事共迄は上には御心もつきがたき事なるべし。かの飲食衣服抔の如きも、上にめさるる所はいか程美を尽しても、たかのしれたる事なれ共、それを下にて余り重重敷取扱ふにつきて、役役抔も多く、ひたすら念を入るをよき事とする習ひにて、年年月月に諸事重重敷なりて、無益の事に甚念を入るから、何に付ても費の甚多き也。
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『秘本玉くしげ』上 甲乙丙丁の役人さて軍記などをよみて、むかしの大名の身分働きと今の様子とをくらべ見て、今の世の甚おもおもしき事を考へ知べし。主君の然るのみならず、家中までも皆ほどほどに、分際よりも殊の外重重しくなれること、上にも既に申せるがごとし。これらは戦国の時代と治世とは同じ口にはいふべきにあらざれ共、今の世のありさまはあまりに重重しきに過たり。たとへば甲乙丙丁と上下段段の役人有て事をとり行ふに、昔は甲がみづからとりあつかひし事をも今は乙に云付て取扱はせ、先年は乙が勤めたりしわざをも近年は丙につとめさするやうになり、去年までは丙が手づからつとめたる事も、いつしか今年は丁につとめさせ、丙が手をおろさぬやうになりて、惣体下下まで武士の身持次第に重重しく成行に付ては、国中の政事のためにも宜しからぬこと多き也。右のごとく身を重く持につきては、おのづから家内の暮しもよくなりて、身の労はすくなけれ共、物入は多ければ、畢竟は面面のためにも損也。
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『秘本玉くしげ』上 重々しすぎる身分惣体上中下の人人の身分の持やう、各その分際に相応のよきほどあるべきは勿論なれども、其分際分際につきて、いかほどなるが相応のあたりまへといふ事は、たしかなる手本なければ実は定めがたきことなれども、古今の間をあまねく考へ渡してこれを案ずるに、今の世の人人の身分の持様は、上中下共におしなべて、分際よりは殊の外重重しきに過たり。まづ上をいはば、今の大名方の御身分の重重しさは、上古の天子、中古の大将軍などの御様子よりもまさりて、万事重重しき也。それに准じて中下の人人もみな同じ事にて、たとへば今の世に千石もとる武士は、昔一万石乃至四五万石を取し人ほどの重重しさ也。百石とる人は、むかし千石四五千石もとりしほどの人に同じ。かくのごとく上中下おしなべて身持殊の外に重重しき故に、それに准じて分際不相応に心持も重重敷身分の様にて、昔は大名の自身にせし程の働きをも、今は百石五十石位取程の人も、皆下なる者に云付働かせて、自身はせぬ事の様になれり。
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『秘本玉くしげ』上 十に六七大かた今の世、大名分の御身分のうへに付たる諸事の取扱ひを見るに、十に六七はみな省きてもよき事のみ也。これ皆先規の定格のやうに思へども、むかしは惣体物事無造作にして、今の世の如く重重しくはあらざりし故に、何事も物入は今の半分にもあらずして、却て手行も宜しかりし也。
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『秘本玉くしげ』下 世襲の芸の者其外雑藝の輩なども、御用あらば時々に召抱られて、少々づつの禄を玉はん事は、御大名の御身上にては随分さも有べきことなれ共、一たび抱へられたる者は、何の御用もなきに永々いたづらに多くの御扶持を玉はりて過す者、江戸京などにも其国元にも多きは、甚しき奢の費也。すべて何の職も禄を世々にするは、本朝の古格にて厚き風儀にてはあれ共、その筋にもよるべき事也。然れども久しく有来りたる事の俄に改まりては、大に難義に及ぶ者多ければ、右の類とても御先代より有来りたる分は、今さらゆゑなく禄をめしはなたるべき事にあらず。されば左様の事は、随分御用にも立やうに、それぞれの家の道を出精し相はげみて、その道々に此上へ新加の人なくて御間の合やうにあらせまほしく、猶又その藝すぐれて、某殿の御内の其人と他国までも名をあぐるほどにもあらば、殊更忠勤にて有べき事也。
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