秘本玉くしげ / 上 甲乙丙丁の役人
さて軍記などをよみて、むかしの大名の身分働きと今の樣子とをくらべ見て、今の世の甚おもおもしき事を考へ知べし。主君の然るのみならず、家中までも皆ほどほどに、分際よりも殊の外重重しくなれること、上にも既に申せるがごとし。これらは戰國の時代と治世とは同じ口にはいふべきにあらざれ共、今の世のありさまはあまりに重重しきに過たり。たとへば甲乙丙丁と上下段段の役人有て事をとり行ふに、昔は甲がみづからとりあつかひし事をも今は乙に云付て取扱はせ、先年は乙が勤めたりしわざをも近年は丙につとめさするやうになり、去年までは丙が手づからつとめたる事も、いつしか今年は丁につとめさせ、丙が手をおろさぬやうになりて、惣体下下まで武士の身持次第に重重しく成行に付ては、國中の政事のためにも宜しからぬこと多き也。右のごとく身を重く持につきては、おのづから家內の暮しもよくなりて、身の勞はすくなけれ共、物入は多ければ、畢竟は面面のためにも損也。
新字:さて軍記などをよみて、むかしの大名の身分働きと今の様子とをくらべ見て、今の世の甚おもおもしき事を考へ知べし。主君の然るのみならず、家中までも皆ほどほどに、分際よりも殊の外重重しくなれること、上にも既に申せるがごとし。これらは戦国の時代と治世とは同じ口にはいふべきにあらざれ共、今の世のありさまはあまりに重重しきに過たり。たとへば甲乙丙丁と上下段段の役人有て事をとり行ふに、昔は甲がみづからとりあつかひし事をも今は乙に云付て取扱はせ、先年は乙が勤めたりしわざをも近年は丙につとめさするやうになり、去年までは丙が手づからつとめたる事も、いつしか今年は丁につとめさせ、丙が手をおろさぬやうになりて、惣体下下まで武士の身持次第に重重しく成行に付ては、国中の政事のためにも宜しからぬこと多き也。右のごとく身を重く持につきては、おのづから家内の暮しもよくなりて、身の労はすくなけれ共、物入は多ければ、畢竟は面面のためにも損也。
書き下し
さて軍記などをよみて、むかしの大名の身分働きと今の様子とをくらべ見て、今の世の甚おもおもしき事を考へ知べし。主君の然るのみならず、家中までも皆ほどほどに、分際よりも殊の外重重しくなれること、上にも既に申せるがごとし。これらは戦国の時代と治世とは同じ口にはいふべきにあらざれ共、今の世のありさまはあまりに重重しきに過たり。たとへば甲乙丙丁と上下段段の役人有て事をとり行ふに、昔は甲がみづからとりあつかひし事をも今は乙に云付て取扱はせ、先年は乙が勤めたりしわざをも近年は丙につとめさするやうになり、去年までは丙が手づからつとめたる事も、いつしか今年は丁につとめさせ、丙が手をおろさぬやうになりて、惣体下下まで武士の身持次第に重重しく成行に付ては、国中の政事のためにも宜しからぬこと多き也。右のごとく身を重く持につきては、おのづから家内の暮しもよくなりて、身の労はすくなけれ共、物入は多ければ、畢竟は面面のためにも損也。
現代語訳
さて軍記などを読んで、昔の大名の身分や働きと今の様子とを比べてみて、今の世がたいへん重々しいことを考え知るべきである。主君がそうであるばかりでなく、家中までもみなそれぞれに、分際よりもことのほか重々しくなっていることは、上にもすでに申したとおりである。これらは戦国の時代と治世とは同じ口では言えないことであるが、今の世の有様はあまりに重々しすぎる。たとえば甲・乙・丙・丁と上下段々の役人がいて事を執り行うのに、昔は甲が自分で取り扱ったことをも今は乙に言いつけて取り扱わせ、先年は乙が勤めていた仕事をも近年は丙に勤めさせるようになり、去年までは丙が手ずから勤めていたことも、いつしか今年は丁に勤めさせ、丙が手を下さないようになって、総じて下々まで武士の身の持ち方が次第に重々しくなっていくにつけては、国中の政事のためにもよろしくないことが多いのである。右のように身を重く持つにつけては、自然と家の内の暮らし向きもよくなって、身の苦労は少ないけれども、出費は多いので、結局はめいめいのためにも損である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『秘本玉くしげ』上 役人が増える先御身分の重重敷によりて、夫につきたる万事を殊の外重重敷取扱ふから、武備国政の外に御身分の事に付たる様様の役人抔多くして、一人にても済べき事にも上役下役段段に有て人多くかかり、さらでもなき事にも多くの人手間かかり、次第に事も繁く費多く、其一一の取扱ひに一つとして御物入のなき事はあらず。又段段の役人多ければ、横道へ抜行物入も多かるべし。惣体上の事を下下にて取扱ふ事余り重重敷故に、下の煩と成事は申に及ばず、無益の費も甚多き事なるを、其細かなる事共迄は上には御心もつきがたき事なるべし。かの飲食衣服抔の如きも、上にめさるる所はいか程美を尽しても、たかのしれたる事なれ共、それを下にて余り重重敷取扱ふにつきて、役役抔も多く、ひたすら念を入るをよき事とする習ひにて、年年月月に諸事重重敷なりて、無益の事に甚念を入るから、何に付ても費の甚多き也。
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『秘本玉くしげ』上 重々しすぎる身分惣体上中下の人人の身分の持やう、各その分際に相応のよきほどあるべきは勿論なれども、其分際分際につきて、いかほどなるが相応のあたりまへといふ事は、たしかなる手本なければ実は定めがたきことなれども、古今の間をあまねく考へ渡してこれを案ずるに、今の世の人人の身分の持様は、上中下共におしなべて、分際よりは殊の外重重しきに過たり。まづ上をいはば、今の大名方の御身分の重重しさは、上古の天子、中古の大将軍などの御様子よりもまさりて、万事重重しき也。それに准じて中下の人人もみな同じ事にて、たとへば今の世に千石もとる武士は、昔一万石乃至四五万石を取し人ほどの重重しさ也。百石とる人は、むかし千石四五千石もとりしほどの人に同じ。かくのごとく上中下おしなべて身持殊の外に重重しき故に、それに准じて分際不相応に心持も重重敷身分の様にて、昔は大名の自身にせし程の働きをも、今は百石五十石位取程の人も、皆下なる者に云付働かせて、自身はせぬ事の様になれり。
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『秘本玉くしげ』上 身分の奢り身分を重重敷するは、奢りとは別の事の様なれ共、是即大なる奢り也。其中に平人の奢りは、其身一分ぎりの事のみにては害の他に及ぶ事はなきを、上たる人の奢りは、其害領内に及ぶ事也。惣体治平の代久しく続く時は、いつとなく世上物事華美に成て、漸漸に人の身持も重重敷なる事なるを、時時に是を押へずして捨置時は、年年月月に長し行て際限なく、次第次第に世上困窮に及びて、竟に如何敷事の起る也。
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『秘本玉くしげ』上 勝手逼迫の因既に近来、諸大名の家家用脚足らず、多くは御勝手大に逼迫するは、全く此故也。昔は諸大名何れも年年に大さうなる軍役抔を勤められし時すら、今の如く逼迫する事は無して豊かなりしに、今の世は竟に軍役抔は勤め玉ふ事もなく、知行の物成は新田抔も出来て多くこそなりつれ、昔より減じたる事はなきに、却て御勝手の甚逼迫するはいかなる事ぞや。全く是世上次第に華美になり、いつとなく自然に御身分の余り重重敷成て、何に付ても御物入の昔よりは格別に多きが故也。然りとて、目に見えては先例と格別に變りたる事も有まじけれ共、只目に見えざる事共に大に變り来ぬる事多かるべし。扨、御身分の重重敷によりて次第に御物入の多くなれる訳は、先眼前には飲食衣服、扨は調度抔なれ共、是らは大名の御身上にては何程の事にもあらず。
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『秘本玉くしげ』上 江戸詰の人数たとひ武備のためになるにもせよ、かく静謐の御代に、常々の往来にさばかり多くの人を引連ずとも、何のあやまちかあらん。畢竟ただ身分をおもおもしくするかざりにのみなること也。さてまた江戸詰の人数も、是又大抵公儀の御定めあるかはしらねど、斯治平の御代にしては甚おほくして、費おびただしきことなるべし。御領内の政務の筋はみな国元にてとり行はるる事なれば、江戸御屋敷の御用とては、ただ公儀の御つとめ方、さては御親類方其外の御むつび、并に御国元との掛引などのみにて、其余は大方みな御方方の御身分のうへに付たる御用のみなるべければ、必しも武備のためにもならず、ただ御身分の重重しき方に付たる男女の人数の甚多きなれば、無益の御物入のおびただしかるべき事也。大かた右の事共など、今の人は今の通りをあたりまへの御事と思ふべけれども、大に然らず。書をよみて昔とくらべ見て、今は何事も大に過たることをさとるべき也。
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『秘本玉くしげ』上 十に六七大かた今の世、大名分の御身分のうへに付たる諸事の取扱ひを見るに、十に六七はみな省きてもよき事のみ也。これ皆先規の定格のやうに思へども、むかしは惣体物事無造作にして、今の世の如く重重しくはあらざりし故に、何事も物入は今の半分にもあらずして、却て手行も宜しかりし也。
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