秘本玉くしげ / 上 十に六七
大かた今の世、大名分の御身分のうへに付たる諸事の取扱ひを見るに、十に六七はみな省きてもよき事のみ也。これ皆先規の定格のやうに思へども、むかしは惣体物事無造作にして、今の世の如く重重しくはあらざりし故に、何事も物入は今の半分にもあらずして、却て手行も宜しかりし也。
書き下し
大かた今の世、大名分の御身分のうへに付たる諸事の取扱ひを見るに、十に六七はみな省きてもよき事のみ也。これ皆先規の定格のやうに思へども、むかしは惣体物事無造作にして、今の世の如く重重しくはあらざりし故に、何事も物入は今の半分にもあらずして、却て手行も宜しかりし也。
現代語訳
おおかた今の世で、大名の御身分に付随する諸事の取り扱いを見ると、十のうち六、七はみな省いてもよいことばかりである。これらはみな先例で定まった格式のように思われているけれども、昔は全体に物事が無造作で、今の世のように重々しくはなかったから、何事も費用は今の半分にも満たず、かえって仕事の運びもよかったのである。
解説
「十に六七はみな省きてもよき事のみ也」——いまやっていることの六割から七割は、やめてよい。組織の仕事量についての、これ以上ないほど明快な見積もりである。そして次の一句が効く。「これ皆先規の定格のやうに思へども」。それらは先例で決まった手順のように思われている。誰も始めた理由を覚えておらず、決まりだから続いている。宣長は昔と比べてそれを崩す。昔は無造作だったが、費用は半分以下で「却て手行も宜しかりし」——しかも仕事の運びはよかった。手順を増やすことが質を上げるとは限らない、どころか下げていた、と。減らして質が上がるという主張には根拠が要るが、ここでは過去との比較がその根拠になっている。
この章句が説くこと
十に六七は省ける先規の定格無造作手行
関連する章句
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『秘本玉くしげ』上 役人が増える先御身分の重重敷によりて、夫につきたる万事を殊の外重重敷取扱ふから、武備国政の外に御身分の事に付たる様様の役人抔多くして、一人にても済べき事にも上役下役段段に有て人多くかかり、さらでもなき事にも多くの人手間かかり、次第に事も繁く費多く、其一一の取扱ひに一つとして御物入のなき事はあらず。又段段の役人多ければ、横道へ抜行物入も多かるべし。惣体上の事を下下にて取扱ふ事余り重重敷故に、下の煩と成事は申に及ばず、無益の費も甚多き事なるを、其細かなる事共迄は上には御心もつきがたき事なるべし。かの飲食衣服抔の如きも、上にめさるる所はいか程美を尽しても、たかのしれたる事なれ共、それを下にて余り重重敷取扱ふにつきて、役役抔も多く、ひたすら念を入るをよき事とする習ひにて、年年月月に諸事重重敷なりて、無益の事に甚念を入るから、何に付ても費の甚多き也。
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『秘本玉くしげ』上 重々しすぎる身分惣体上中下の人人の身分の持やう、各その分際に相応のよきほどあるべきは勿論なれども、其分際分際につきて、いかほどなるが相応のあたりまへといふ事は、たしかなる手本なければ実は定めがたきことなれども、古今の間をあまねく考へ渡してこれを案ずるに、今の世の人人の身分の持様は、上中下共におしなべて、分際よりは殊の外重重しきに過たり。まづ上をいはば、今の大名方の御身分の重重しさは、上古の天子、中古の大将軍などの御様子よりもまさりて、万事重重しき也。それに准じて中下の人人もみな同じ事にて、たとへば今の世に千石もとる武士は、昔一万石乃至四五万石を取し人ほどの重重しさ也。百石とる人は、むかし千石四五千石もとりしほどの人に同じ。かくのごとく上中下おしなべて身持殊の外に重重しき故に、それに准じて分際不相応に心持も重重敷身分の様にて、昔は大名の自身にせし程の働きをも、今は百石五十石位取程の人も、皆下なる者に云付働かせて、自身はせぬ事の様になれり。
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『秘本玉くしげ』上 収納十倍でも足らずすべてつねづね右の事共の手当をも丈夫にして、其余のところをはかりて年年の御用脚をまかなひ玉はんには、格別の御逼迫はあるまじき道理なるに、右の御手当ども行とどきがたきのみならず、あまつさへ年年定まれる御まかなひさへ出来がたき家家の多きはいかなる事ぞや。古へは下民より上る物、今の年貢にくらぶれば甚いささかなることにて有し時代すら、今の如く上の逼迫し玉ふ事はなくして、民を救ひ玉ふ筋も随分ゆきとどきて、凶年なれば年貢をも或は半分も減ぜられ、時によりては皆ながらも免し玉へる事も有て、またそれぞれの御手当などもよく出来てとほりし也。然るに今は、臨時に年貢を過分に免し玉ふこともなく、惣体の御収納も古へには十倍せるに、なほ用脚の足らざるは、惣体の事の取扱ひあまりにおもおもしく、無益の事繁多にして、御物入の過分に多きが故ならずや。さて中下の武家の多く内證困窮するも、又同じく分限不相応に身分重重しく、諸事花美になりて物入多き故也。
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『秘本玉くしげ』上 大切にしすぎる害すべての事を余りに大切に重重敷する時は、只無益の費、無益の扱ひのみ多くして、却て其本意の実をば失ひ、表向計りになり、麁末に取扱ふよりは結句遥に劣る事も多く、又却て手行の甚悪き事多し。譬へば、直に御前へ達してもよき事をも、爰の役人の手を経、かしこの役所へ伺ひ抔、彼此とする故に、無益の人手間かかり、紙筆の費抔のみ有て、却て急ぎの御用の弁じ抔は滞りて、何の益はなし。万の事是に准じて知べし。
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『秘本玉くしげ』上 甲乙丙丁の役人さて軍記などをよみて、むかしの大名の身分働きと今の様子とをくらべ見て、今の世の甚おもおもしき事を考へ知べし。主君の然るのみならず、家中までも皆ほどほどに、分際よりも殊の外重重しくなれること、上にも既に申せるがごとし。これらは戦国の時代と治世とは同じ口にはいふべきにあらざれ共、今の世のありさまはあまりに重重しきに過たり。たとへば甲乙丙丁と上下段段の役人有て事をとり行ふに、昔は甲がみづからとりあつかひし事をも今は乙に云付て取扱はせ、先年は乙が勤めたりしわざをも近年は丙につとめさするやうになり、去年までは丙が手づからつとめたる事も、いつしか今年は丁につとめさせ、丙が手をおろさぬやうになりて、惣体下下まで武士の身持次第に重重しく成行に付ては、国中の政事のためにも宜しからぬこと多き也。右のごとく身を重く持につきては、おのづから家内の暮しもよくなりて、身の労はすくなけれ共、物入は多ければ、畢竟は面面のためにも損也。
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『秘本玉くしげ』上 身分の奢り身分を重重敷するは、奢りとは別の事の様なれ共、是即大なる奢り也。其中に平人の奢りは、其身一分ぎりの事のみにては害の他に及ぶ事はなきを、上たる人の奢りは、其害領内に及ぶ事也。惣体治平の代久しく続く時は、いつとなく世上物事華美に成て、漸漸に人の身持も重重敷なる事なるを、時時に是を押へずして捨置時は、年年月月に長し行て際限なく、次第次第に世上困窮に及びて、竟に如何敷事の起る也。
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