秘本玉くしげ / 上 気づかぬ過分
富める町人抔は猶更の事也。然れ共、是天下一同の事なる故に、各分際に過たりと云事をみづからも覺えず、元より箇樣に有べき筈の物とのみ心得居る也。
新字:富める町人抔は猶更の事也。然れ共、是天下一同の事なる故に、各分際に過たりと云事をみづからも覚えず、元より箇様に有べき筈の物とのみ心得居る也。
書き下し
富める町人抔は猶更の事也。然れ共、是天下一同の事なる故に、各分際に過たりと云事をみづからも覚えず、元より箇様に有べき筈の物とのみ心得居る也。
現代語訳
裕福な町人などはなおさらのことである。しかしながら、これは天下一同のことであるので、それぞれ分際に過ぎているということを自分でも気づかず、もとからこのようにあるべきはずのものとばかり心得ているのである。
解説
短いが、本書の奢り論を貫く鍵となる一文である。武士だけでなく、富裕な町人はなおさら分不相応に重々しく暮らしている。しかしそれが天下一同の風であるため、誰も分際を過ぎていると自覚せず、もとからこうあるべきものと思い込んでいる。宣長は後の段でも、町人の奢りについて同じ指摘を繰り返す。奢りが見えないのは、皆が同じだけ奢っているからである。問題は個々人の心がけよりも、全体の水準がじわじわ上がって当たり前が動いたことにある。経費や手続きが膨らんでも誰も気づかないのは、周りも同じだからではないか。自分たちの普通を、昔や外と比べて見直してみる必要がある。
この章句が説くこと
町人分際奢り当たり前天下一同
関連する章句
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『秘本玉くしげ』上 町人の奢り今の世、町人の奢は殊に甚しき事也。すべて飲食衣服よりはじめ、諸道具住居等、みな高貴の人のうへとさのみ異ならず。中にもすぐれて富る者などは、内内こまかなることのおごりは、大名にもおさおさおとらず、何事も善美をつくしてゆたかにくらす事也。さて町人は、殊に定まれる階級のなきものにて、先はひら一まいなるがゆゑに、身上の大小は雲泥ちがひても、とかく富たる者のうへを見ならひうらやみて、さしもなきものもそのまねをして、分不相応にゆたかにくらさんとするから、内證は困窮する者甚多き也。或はその困窮を隠さんとするから、いよいよ困窮つのり、或は身上を持直さんために急に大利を得んと欲して、あらぬ事にかかり、家をほろぼす者も多し。さてかやうに惣体殊の外におごり長じたれ共、これ天下一同の事なるゆゑに、地になりて奢といふやうにも見えず、面面みづからもおごり也といふ事を覚えず、本よりかやうにあるべきもののやうに思ひ居る也。
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『秘本玉くしげ』上 身分の奢り身分を重重敷するは、奢りとは別の事の様なれ共、是即大なる奢り也。其中に平人の奢りは、其身一分ぎりの事のみにては害の他に及ぶ事はなきを、上たる人の奢りは、其害領内に及ぶ事也。惣体治平の代久しく続く時は、いつとなく世上物事華美に成て、漸漸に人の身持も重重敷なる事なるを、時時に是を押へずして捨置時は、年年月月に長し行て際限なく、次第次第に世上困窮に及びて、竟に如何敷事の起る也。
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『秘本玉くしげ』上 奢りは法で止まらず然れば、これをよきほどにせんと思ふときは、万事を大にそぎすてて、狂人かと人に笑はるるほどに落さざれば、おのおの身分相応の所へは当りがたし。然れども、さほどまでにはとてもおとしがたきものにて、たとひ自分一人は人にかまはず右の如くにおとしても、家内までにも行とどきがたく、又上よりいかほど厳しく命令を下しても、これを制せられても、時世の勢は中中防ぎがたく、人力の及びがたきところあるもの也。たとひしばらくは命令に恐れてこれを慎しむやうにても、末とげがたく、又うはべは命令を守るやうにても、内内にては皆これを破る。衣服の制などみな然也。又一国ぎりこれを制しても、天下一同ならざれば、その制立がたき事も多し。又惣体表向へは出ざる家内のこまかなる事の奢の甚しきを、一つ一つ吟味をとげてこれを禁ずべき由なければ、とにかくに此世上一同の華美おごりは、いかやうにしても俄には停めがたく、年年月月に長じゆくばかり也。
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『秘本玉くしげ』上 質素は続かずその中に、たまたま世上奢の長じぬる事に心づきて、物事質素を心がくるものもあれ共、世間並をはづれては、却て変なるやうに云なされ、人にわろく思はるるによりて、せんかたなくおのづから世間にしたがふ事多き故に、これもおごりをまぬかるる事能はず。又時時倹約倹約といひたてて省略する事共もあれ共、或は省略すまじき事をまづ省略し、或は止めてもさのみ為にもならぬ事を止などして、惣体の奢は相替らず。又しばらく倹約を加へても、世間みな然るにあらざれば、世間につれて又いつのほどにかゆるみて、本のごとくになりなどして、すべて質素にかへる事はつゆほどもなくて、年年月月に世上華美にのみなりゆくほどに、貧しき者も世上につれて、おのづから物入多く困窮する者のみ多き也。さて世間のおごりにつきては、商事もおほく、世のにぎはひにもなりて、金銀融通すれば、さのみ困窮はすまじきやうなるものなれ共、左様にはあらず。
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『秘本玉くしげ』上 分限相応町人はこれによりて多くの利を得る、それだけ武家に損ある事は目に見えたれども、困窮の節など、さしあたりて便宜なるによりて、損をば知ながら皆申付る事也。然れども、これはみな富者のうけたまはりてする事なれば、ますます富を重ねさせて、武家には損あることなれば、なるべきだけは無用にせまほしき事也。人は何事も、その身の分際相応にするがよき也。分限に過て奢るがわろき事は申すに及ばず、又あまり降して軽くするも正道にはあらず。大名は大名相応に御身を持玉ふよし。質素がよきとて、下下の武士の如く御身を持玉ふべきにもあらず。次に其下にたつ武士も、又その相応相応がよし。百姓町人も、又その身上相応に身を持が宜しき也。すべて事を軽くするがよろしとても、又あまり身持かろがろしければ、それに応じておのづから心も万の行ひも、いやしく軽軽しくなりて、上にたつ人などは殊によからぬ事多きもの也。
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『秘本玉くしげ』上 倹約の的外れ然るを、世に倹約といへば、先第一に飮食衣服音信抔をおとす事なれ共、是は下下の身上にてこそ大なる違ひも有事なれ、大名の御身上にては、是らの倹約ばかりにては、さのみ御勝手の直る程の事は出来がたかるべし。是らの外に、急度それとは心の付ざる事共に、広大の費ある事多し。
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