日暮硯 / 『日暮硯』勝手は直ると殿へ言上
扨て百姓相談の上、名主、長百姓等、御役所へ罷り出で、「先達て仰せ渡され候趣、惣百姓へ申し聞け候處、皆々有難がり候て、當年貢の儀は勿論、二年分なりとも差し上げ申すべく候間、何時なりとも御用次第に仰せ付け下され候樣仕りたくと一同相願ひ申候間、左樣思召下さるべく候」と申上候へば、木工殿申され候は、「先づ以て手前が申す趣き、惣百姓迄、皆々得心し吳れ、甚だ滿足致し候、皆のかげにて、手前も首尾よく御役相勤め、痛い目にも逢はず、皆是れ百姓中のかげなり、過分千萬に存じ候、それのみならず二年分なりとも上納致すべしとの事、惣百姓の志、上聞に達しなば、御前もさぞ御滿足遊ばさるべし、去り乍ら、當御年貢さへ納めて吳れば十分に候、二年分上納には及ばず候、惣百姓中の志、過分千萬、殘らず上聞に達すべく候間、其の段、能々申し聞けべく候、さて又皆々、隨分家業に油斷なく出精すべし、家業に疎なるものは天下の罪人なり、家業を出精して餘分あらば、分限相應の樂みは如何なる儀にても苦しからず候、家業に出精の上たのしむ事ならば、慰みには、淨瑠璃、三味線、博奕なりとも、好きたる事をして樂むべし、然し博奕は、天下一統御法度なり、若し商賣に致すものこれ有るに於ては、屹度曲事に申し付くべし、吳々も博奕を商賣に致す儀は、公儀御法度なれば、屹度相愼み申すべく候、慰みに致す分は苦しからず候間、豫て左樣可相心得候、すべて人は、分限相應の樂みがなくては、精も出で難きものなり、精も出すべし、樂みもすべし、其の上第一に信心もすべし、神佛を信仰する心なくば、さいなん多きものなり、依つて神佛を能く信仰して、現當二世を祈るべし、偖て又先達て申し付け候書付、相認め、持參致候や」と申され候へば、「成る程、持參仕候」と差出す、「手前が見るにあらず、御前の御覽に入れるなり、皆々歸つて出精せよ」とて、一同を歸されける。其の後木工、御前へ出で申し上げ候は、先づ以て御悅び遊ばさるべく候、御勝手は十分に相直り申すべく候。其の譯は、御借用金は殘らず橫に寢て仕舞ひ、無借金となり候上に、當年より十萬石、丸々納り(月割故也)一粒が損失御座なく候筈故、御勝手は、十分に相調ひ申し候上に、一人も御上を御恨み申す者御座なく、却つて有り難がり候て、御年貢は二年分なりとも差し上げ申すべしと申し、當月より滯りなく御年貢上納仕る筈に御座候、是れ皆御前の御仁心深き故の御尊德に御座候」と申上げれば、御前にも殊の外御滿足にて、「是れ我が德にあらず、皆其の方の働き、莫大の勳功、金石にも銘ずべき忠勤なり」と御稱美遊ばされ候へば、木工は有り難き御意を謝し、「扨て又是は百姓共相認候ものに御座候間、ひそかに御覽遊ばさるべく候」と申上げ、封書を呈し退出す。
新字:扨て百姓相談の上、名主、長百姓等、御役所へ罷り出で、「先達て仰せ渡され候趣、惣百姓へ申し聞け候処、皆々有難がり候て、当年貢の儀は勿論、二年分なりとも差し上げ申すべく候間、何時なりとも御用次第に仰せ付け下され候様仕りたくと一同相願ひ申候間、左様思召下さるべく候」と申上候へば、木工殿申され候は、「先づ以て手前が申す趣き、惣百姓迄、皆々得心し呉れ、甚だ満足致し候、皆のかげにて、手前も首尾よく御役相勤め、痛い目にも逢はず、皆是れ百姓中のかげなり、過分千万に存じ候、それのみならず二年分なりとも上納致すべしとの事、惣百姓の志、上聞に達しなば、御前もさぞ御満足遊ばさるべし、去り乍ら、当御年貢さへ納めて呉れば十分に候、二年分上納には及ばず候、惣百姓中の志、過分千万、残らず上聞に達すべく候間、其の段、能々申し聞けべく候、さて又皆々、随分家業に油断なく出精すべし、家業に疎なるものは天下の罪人なり、家業を出精して余分あらば、分限相応の楽みは如何なる儀にても苦しからず候、家業に出精の上たのしむ事ならば、慰みには、浄瑠璃、三味線、博奕なりとも、好きたる事をして楽むべし、然し博奕は、天下一統御法度なり、若し商売に致すものこれ有るに於ては、屹度曲事に申し付くべし、呉々も博奕を商売に致す儀は、公儀御法度なれば、屹度相慎み申すべく候、慰みに致す分は苦しからず候間、予て左様可相心得候、すべて人は、分限相応の楽みがなくては、精も出で難きものなり、精も出すべし、楽みもすべし、其の上第一に信心もすべし、神仏を信仰する心なくば、さいなん多きものなり、依つて神仏を能く信仰して、現当二世を祈るべし、偖て又先達て申し付け候書付、相認め、持参致候や」と申され候へば、「成る程、持参仕候」と差出す、「手前が見るにあらず、御前の御覧に入れるなり、皆々帰つて出精せよ」とて、一同を帰されける。其の後木工、御前へ出で申し上げ候は、先づ以て御悦び遊ばさるべく候、御勝手は十分に相直り申すべく候。其の訳は、御借用金は残らず横に寝て仕舞ひ、無借金となり候上に、当年より十万石、丸々納り(月割故也)一粒が損失御座なく候筈故、御勝手は、十分に相調ひ申し候上に、一人も御上を御恨み申す者御座なく、却つて有り難がり候て、御年貢は二年分なりとも差し上げ申すべしと申し、当月より滞りなく御年貢上納仕る筈に御座候、是れ皆御前の御仁心深き故の御尊徳に御座候」と申上げれば、御前にも殊の外御満足にて、「是れ我が徳にあらず、皆其の方の働き、莫大の勲功、金石にも銘ずべき忠勤なり」と御称美遊ばされ候へば、木工は有り難き御意を謝し、「扨て又是は百姓共相認候ものに御座候間、ひそかに御覧遊ばさるべく候」と申上げ、封書を呈し退出す。
書き下し
扨て百姓相談の上、名主、長百姓等、御役所へ罷り出で、「先達て仰せ渡され候趣、惣百姓へ申し聞け候處、皆々有難がり候て、當年貢の儀は勿論、二年分なりとも差し上げ申すべく候間、何時なりとも御用次第に仰せ付け下され候樣仕りたくと一同相願ひ申候間、左樣思召下さるべく候」と申上候へば、木工殿申され候は、「先づ以て手前が申す趣き、惣百姓迄、皆々得心し吳れ、甚だ滿足致し候、皆のかげにて、手前も首尾よく御役相勤め、痛い目にも逢はず、皆是れ百姓中のかげなり、過分千萬に存じ候、それのみならず二年分なりとも上納致すべしとの事、惣百姓の志、上聞に達しなば、御前もさぞ御滿足遊ばさるべし、去り乍ら、當御年貢さへ納めて吳れば十分に候、二年分上納には及ばず候、惣百姓中の志、過分千萬、殘らず上聞に達すべく候間、其の段、能々申し聞けべく候、さて又皆々、隨分家業に油斷なく出精すべし、家業に疎なるものは天下の罪人なり、家業を出精して餘分あらば、分限相應の樂みは如何なる儀にても苦しからず候、家業に出精の上たのしむ事ならば、慰みには、淨瑠璃、三味線、博奕なりとも、好きたる事をして樂むべし、然し博奕は、天下一統御法度なり、若し商賣に致すものこれ有るに於ては、屹度曲事に申し付くべし、吳々も博奕を商賣に致す儀は、公儀御法度なれば、屹度相愼み申すべく候、慰みに致す分は苦しからず候間、豫て左樣可相心得候、すべて人は、分限相應の樂みがなくては、精も出で難きものなり、精も出すべし、樂みもすべし、其の上第一に信心もすべし、神佛を信仰する心なくば、さいなん多きものなり、依つて神佛を能く信仰して、現當二世を祈るべし、偖て又先達て申し付け候書付、相認め、持參致候や」と申され候へば、「成る程、持參仕候」と差出す、「手前が見るにあらず、御前の御覽に入れるなり、皆々歸つて出精せよ」とて、一同を歸されける。其の後木工、御前へ出で申し上げ候は、先づ以て御悅び遊ばさるべく候、御勝手は十分に相直り申すべく候。其の譯は、御借用金は殘らず橫に寢て仕舞ひ、無借金となり候上に、當年より十萬石、丸々納り(月割故也)一粒が損失御座なく候筈故、御勝手は、十分に相調ひ申し候上に、一人も御上を御恨み申す者御座なく、却つて有り難がり候て、御年貢は二年分なりとも差し上げ申すべしと申し、當月より滯りなく御年貢上納仕る筈に御座候、是れ皆御前の御仁心深き故の御尊德に御座候」と申上げれば、御前にも殊の外御滿足にて、「是れ我が德にあらず、皆其の方の働き、莫大の勳功、金石にも銘ずべき忠勤なり」と御稱美遊ばされ候へば、木工は有り難き御意を謝し、「扨て又是は百姓共相認候ものに御座候間、ひそかに御覽遊ばさるべく候」と申上げ、封書を呈し退出す。
現代語訳
さて百姓たちは相談のうえ、名主、長百姓らが御役所へ出て、「先日仰せ渡された趣旨を総百姓に申し聞かせたところ、皆はありがたがり、今年の年貢はもちろん、二年分でも差し上げますので、いつでも御用次第に仰せ付けくださいと、一同願い出ております。そのようにお思いください」と申し上げると、木工殿は言った。「まず、私の申した趣旨を総百姓まで皆が承知してくれて、まことに満足である。皆のおかげで、私も首尾よく役を勤め、痛い目にもあわずにすんだ。すべて百姓中のおかげで、過分千万に存じる。そればかりか二年分でも上納するとのこと、総百姓の志が殿の耳に入れば、御前もさぞご満足なさるだろう。とはいえ、今年の年貢さえ納めてくれれば十分である。二年分の上納には及ばない。総百姓の志は過分千万、残らず殿の耳に入れるから、そのことをよく申し聞かせてくれ。さて、皆はよく家業に油断なく精を出せ。家業をおろそかにする者は天下の罪人である。家業に精を出して余りが出たなら、身分相応の楽しみは、どのようなことでも構わない。家業に精を出したうえで楽しむのなら、慰みには、浄瑠璃、三味線、博奕であっても、好きなことをして楽しんでよい。ただし博奕は天下一統の御法度である。もし商売にする者がいれば、きっと処罰する。くれぐれも博奕を商売にすることは、公儀の御法度なので、固く慎むこと。慰みにする分は構わないから、あらかじめそのように心得よ。すべて人は、身分相応の楽しみがなければ、精も出しにくいものである。精も出し、楽しみもするがよい。そのうえ第一に信心もするがよい。神仏を信仰する心がなければ、災難が多いものである。よって神仏をよく信仰して、現世と来世の両方を祈れ。さて、先日申し付けた書付を書き、持参したか」と言うと、「はい、持参いたしました」と差し出す。「私が見るのではなく、御前のご覧に入れるのである。皆は帰って精を出せ」と言って、一同を帰らせた。 その後、木工は御前に出て申し上げた。「まずお喜びくださいませ。御勝手は十分に立て直るでしょう。その訳は、お借り入れの金は残らず横に寝てしまい、無借金となったうえに、今年から十万石が丸々収まり(月割のためである)、一粒の損失もございませんので、御勝手は十分に整うでしょう。そのうえ、一人も御上を恨む者はなく、かえってありがたがって、年貢は二年分でも差し上げますと申し、今月から滞りなく年貢を上納する手はずでございます。これは皆、御前のお仁心が深いゆえのご尊徳でございます」と申し上げると、御前もことのほかご満足で、「これは私の徳ではない。皆そなたの働きで、莫大な勲功、金石にも刻むべき忠勤である」とお褒めになった。木工はありがたい仰せに礼を述べ、「さてまた、これは百姓たちが書いたものですので、ひそかにご覧くださいませ」と申し上げ、封書を差し出して退出した。
解説

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