碧巌録 / 第九十九則
長沙云。學道之人不識真。只為從前認識神。無量劫來生死本。癡人喚作本來人。如今人只認得箇昭昭靈靈。便瞠眼努目弄精魂。有什麼交涉。只如他道莫認自己清淨法身。且如自己法身。爾也未夢見在。更說什麼莫認。教家以清淨法身為極則。為什麼却不教人認。不見道。認著依前還不是咄。好便與棒。會得此意者。始會他道莫認自己清淨法身。雪竇嫌他老婆心切。爭奈爛泥裏有刺。豈不見洞山和尚接人有三路。所謂玄路鳥道展手。初機學道。且向此三路行履。僧問師。尋常教學人行鳥道。未審如何是鳥道。洞山云。不逢一人。僧云。如何行。山云。直須足下無私去。僧云。只如行鳥道。莫便是本來面目否。山云。闍黎因什麼顛倒。僧云。什麼處是學人顛倒處。山云。若不顛倒。為什麼認奴作郎。僧云。如何是本來面目。山云。不行鳥道。須是見倒這般田地。方有少分相應。直下打疊教削迹吞聲。猶是衲僧門下。沙彌童行見解在。更須回首塵勞。繁興大用始得。雪竇頌云。
新字:長沙云。学道之人不識真。只為従前認識神。無量劫来生死本。痴人喚作本来人。如今人只認得箇昭昭霊霊。便瞠眼努目弄精魂。有什麼交渉。只如他道莫認自己清浄法身。且如自己法身。爾也未夢見在。更説什麼莫認。教家以清浄法身為極則。為什麼却不教人認。不見道。認著依前還不是咄。好便与棒。会得此意者。始会他道莫認自己清浄法身。雪竇嫌他老婆心切。争奈爛泥裏有刺。豈不見洞山和尚接人有三路。所謂玄路鳥道展手。初機学道。且向此三路行履。僧問師。尋常教学人行鳥道。未審如何是鳥道。洞山云。不逢一人。僧云。如何行。山云。直須足下無私去。僧云。只如行鳥道。莫便是本来面目否。山云。闍黎因什麼顛倒。僧云。什麼処是学人顛倒処。山云。若不顛倒。為什麼認奴作郎。僧云。如何是本来面目。山云。不行鳥道。須是見倒這般田地。方有少分相応。直下打畳教削迹呑声。猶是衲僧門下。沙弥童行見解在。更須回首塵労。繁興大用始得。雪竇頌云。
書き下し
長沙云く、「学道の人真を識らず、只だ従前より識神を認むるが為なり。無量劫来生死の本、痴人喚んで本来人と作す」。如今の人は只だ箇の昭昭霊霊を認得して、便ち眼を瞠り目を努らして精魂を弄す。什麼の交渉か有らん。只だ他の「自己の清浄法身を認むること莫れ」と道ふが如き、且く自己の法身の如きは、爾也た未だ夢にも見ざること在り、更に什麼の認むること莫れとか説かん。教家は清浄法身を以て極則と為す。什麼と為てか却つて人をして認めしめざる。道ふを見ずや、「認著すれば依前として還た是ならず」。咄。好し便ち棒を与へん。此の意を会得する者は、始めて他の「自己の清浄法身を認むること莫れ」と道ふを会す。雪竇他の老婆心切なるを嫌ふ。争奈せん爛泥裏に刺有ることを。豈に見ずや、洞山和尚人を接するに三路有り、所謂玄路・鳥道・展手なり。初機の学道は、且く此の三路に向いて行履す。僧師に問ふ、「尋常学人をして鳥道を行かしむ。未審し如何なるか是れ鳥道」。洞山云く、「一人にも逢はず」。僧云く、「如何が行かん」。山云く、「直に須らく足下に私無くして去るべし」。僧云く、「只だ鳥道を行くが如きは、便ち是れ本来の面目なること莫きや」。山云く、「闍黎什麼に因りてか顛倒する」。僧云く、「什麼の処か是れ学人の顛倒する処」。山云く、「若し顛倒せずんば、什麼と為てか奴を認めて郎と作す」。僧云く、「如何なるか是れ本来の面目」。山云く、「鳥道を行かず」。須らく是れ這般の田地を見倒して、方に少分の相応有るべし。直下に打畳して迹を削り声を呑ましむるも、猶ほ是れ衲僧門下、沙弥童行の見解なること在り。更に須らく塵労に回首して、繁く大用を興して始めて得べし。雪竇頌して云く、
現代語訳
長沙は言った。「道を学ぶ人が真実を知らないのは、ただ以前から識神(分別の心)を認めているからである。それは無量劫以来の生死の根本であるのに、愚かな人はそれを本来の人と呼んでいる」。今の人は、ただ昭昭霊霊としたものを認め取って、目をむいて力み、魂をもてあそんでいる。何の関わりがあろうか。彼が「自分の清浄な法身を認めてはならない」と言うのでさえ、自分の法身などというものは、君はまだ夢にも見ていない。そのうえ何を認めるなと説くのか。教家は清浄法身を究極のものとする。なぜかえって人に認めさせないのか。「認めてしまえば、相変わらずやはり正しくない」と言うではないか。咄。よし、棒を食らわせてやろう。この意味を会得した者だけが、彼の言う「自分の清浄な法身を認めてはならない」が分かるのである。雪竇は、国師があまりに老婆心が切実であることを嫌った。しかし、ぐずぐずの泥の中に棘があるのをどうしようもない。洞山和尚が人を導くのに三つの路があったことを知らないのか。いわゆる玄路・鳥道・展手である。初心の学道者は、ひとまずこの三つの路を歩むのである。ある僧が洞山に問うた。「ふだん修行者に鳥道を行かせておられますが、鳥道とは何ですか」。洞山は「一人にも出会わない」と言った。僧は「どのように行くのですか」と言った。洞山は「足もとに私心がないまま、まっすぐ行かねばならない」と言った。僧は「鳥道を行くこと、それがそのまま本来の面目ではありませんか」と言った。洞山は「お前はどうしてひっくり返っているのか」と言った。僧は「どこがわたしのひっくり返っているところですか」と言った。洞山は「ひっくり返っていないなら、どうして下僕を認めて主人とするのか」と言った。僧は「本来の面目とは何ですか」と言った。洞山は「鳥道を行かない」と言った。このような境地をすっかり見届けて、はじめていくらか相応するところがある。その場ですべて片づけて、跡を消し声を呑ませたとしても、なお衲僧の門下では、沙弥や童行の見解にすぎない。さらに塵労の世間に首を巡らせて、さかんに大いなる働きを起こしてはじめてよいのである。雪竇は頌して言う。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『碧巌録』第九十七則胡漢来らず、全く伎倆無し。雪竇鼻孔を裂転す。也た胡漢来る有らば、則ち爾をして現ぜしむ。若し忽ち胡漢俱に来らざる時、又且つ如何。這裏に到りては、仏眼も也た覷れども見えず。且く道へ、是れ功勲か是れ罪業か、是れ胡か是れ漢か。直に羚羊の角を掛くるに似て、声響蹤跡は道ふこと莫れ、気息も也た無し。什麼の処に向いてか摸索せん。諸天をして花を捧ぐるに路無く、魔外をして潜かに覷ふに門無からしむるに至る。是の故に洞山和尚、一生院に住するに、土地神他の蹤跡を覓むれども見えず。一日厨前に米麺を抛撒す。洞山心を起して曰く、「常住の物色、何ぞ作践すること此の如くなるを得ん」。土地神遂に一見することを得て便ち礼拝す。雪竇道ふ、「伎倆既に無し」と。若し此の伎倆無き処に到らば、波旬も也た途を失せしむ。世尊は一切衆生を以て赤子と為す。若し一人有りて発心修行すれば、波旬の宮殿、之が為に振裂す。他便ち来りて修行者を悩乱す。雪竇道ふ、直饒ひ波旬恁麼に来るも、也た須らく途路を失却して近傍する処無からしむべしと。雪竇更に自ら胸を点じて云く、「瞿曇瞿曇、我を識るや也た無や」。是れ波旬と道ふこと莫れ、任是ひ仏来るも、還た我を識るや也た無や。釈迦老子すら尚自ほ見ず、諸人什麼の処に向いてか摸索せん。復た云く、「勘破し了れり」。且く道へ、是れ雪竇瞿曇を勘破するか、瞿曇雪竇を勘破するか。具眼の者試みに定当し看よ。
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『碧巌録』第九十九則這の一頌は却つて説き易し。後に他の「自己の清浄法身を認むること莫れ」と道ふを頌す、頌し得て水灑げども著かず、直に是れ口を下して説き難し。鉄鎚撃砕す黄金の骨とは、此れ「自己の清浄法身を認むること莫れ」を頌す。雪竇忒殺だ他を讃歎す。黄金の骨、一鎚に撃砕し了れり。天地の間更に何物ぞとは、直に須らく浄裸裸赤灑灑として、更に一物の得べき無かるべし、乃ち是れ本地の風光なり。一に三千の刹海夜沈沈たるに似たり。三千大千世界の香水海中に無辺の刹有り、一刹に一海有り。正に夜静かに更深き時に当りて、天地一時に澄澄地たり。且く道へ、是れ什麼ぞ。切に忌む、閉目合眼の会を作すことを。若し恁麼に会せば、正に毒海に堕在せん。知らず誰か蒼龍の窟に入るとは、脚を展べ脚を縮む、且く道へ是れ誰ぞ。諸人の鼻孔、一時に雪竇に穿却せられ了れり。
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『碧巌録』第四十三則獹(字音の注)。曹洞下に出世・不出世有り、垂手・不垂手有り。若し出世せずんば目は雲霄を視、若し出世せば便ち灰頭土面。目雲霄を視るは即ち是れ万仞峰頭、灰頭土面は即ち是れ垂手辺の事。有る時は灰頭土面即ち万仞峰頭に在り、有る時は万仞峰頭即ち是れ灰頭土面。其の実、鄽に入り手を垂るると、孤峰に独立すると一般なり。帰源了性と差別智と異なること無し。切に忌む両橛の会を作すことを。所以に道ふ、「垂手還つて万仞の崖に同じ」。直に是れ汝が湊泊する処無し。「正偏何ぞ必ずしも安排に在らん」。若し用ふる時に到らば、自然に此くの如し、安排に在らざるなり。此れは洞山の答処を頌す。後面に道ふ、「瑠璃の古殿明月を照らす、忍俊たる韓獹空しく階を上る」。此れは正に這の僧の言語を逐うて走るを頌す。洞下に此の石女・木馬・無底籃・夜明珠・死蛇等十八般有り、大綱只だ正位を明かす。月の瑠璃の古殿を照らして、円影有るに似たるが如し。洞山答へて道ふ、「何ぞ無寒暑の処に向かつて去らざる」。其の僧一に韓獹の塊を逐ふに似て、連忙として階を上り、其の月影を捉ふるに相似たり。又問ふ、「如何なるか是れ無寒暑の処」。山云く、「寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す」。韓獹の塊を逐うて走つて階上に到り、又却つて月影を見ざるが如し。韓獹は乃ち戦国策に出づ。云く、「韓氏の獹は駿狗なり、中山の兔は狡兔なり」。是れ其の獹にして方に能く其の兔を尋ぬ。雪竇引いて以て這の僧に喩ふるなり。只だ諸人の如きは、還つて洞山の為人の処を識るや。良久して云く、「甚の兔子をか討ねん」。
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『碧巌録』第八十九則且く道へ、遍身是なる底が是か、通身是なる底が是か。爛泥に似たりと雖も却つて脱灑なり。如今の人、多く去いて情解を作して道ふ、「遍身底は是ならず、通身底は是なり」と。只管に他の古人の言句を咬み、古人の言下に於て死し了る。殊に知らず、古人の意は言句上に在らず、此れ皆な是れ事已むことを獲ずして之を用ゐることを。如今注脚を下し、格を立てて則ち道ふ、「若し此の公案を透得せば、便ち罷参の会を作す」と。手を以て渾身を摸り、灯籠露柱を摸りて、尽く通身の話の会を作す。若し恁麼に会せば、他の古人を壊ること少なからず。所以に道ふ、他は活句に参じて死句に参ぜずと。須らく是れ情塵意想を絶し、浄裸裸、赤灑灑地にして、方に大悲の話を見得す可し。見ずや、曹山、僧に問ふ、「物に応じて形を現ずること水中の月の如き時如何」。僧云く、「驢の井を覰るが如し」。山云く、「道ふことは即ち殺だ道へども、只だ八成を道ひ得たり」。僧云く、「和尚又た作麼生」。山云く、「井の驢を覷るが如し」。便ち此の意に同じ。爾若し語上に去いて見ば、総に道吾・雲巌の圏繢を出で得ず。雪竇は作家、更に句下に向つて死せず、直に頭上に向つて行く。頌に云く、
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『碧巌録』第二十五則又云く、「眼裏に須弥山を著け得、耳裏に大海水を著け得。一般の漢有って、人の商量を受く。祖仏の言教、龍の水を得るが如く、虎の山に靠るに似たり。却って須らく鉢嚢を挑起し、拄杖を横担すべし。亦是れ一員の無事の道人なり」。復た云く、「恁麼も也た得ず、不恁麼も也た得ず。然る後交渉没し。三員の無事の道人の中、一人を選んで師と為さんと要す」。正に是れ這般の生鉄鋳就底の漢なり。何が故ぞ。或いは悪境界に遇ひ、或いは奇特の境界に遇ふも、他の面前に到れば、悉く皆夢の如くに相似たり。六根有ることを知らず、亦旦暮有ることを知らず。直饒ひ這般の田地に到るも、切に忌む寒灰死火を守って、黒漫漫の処に打入し去ることを。也た須らく是れ転身の一路有って始めて得べし。見ずや、古人道ふ、「寒巌に異草の青きを守ること莫れ。白雲に坐却せば宗妙ならず」と。所以に蓮華峰庵主道ふ、「他の途路に力を得ざるが為なり」と。直に須らく是れ千峰万峰に去って始めて得べし。且く道へ、什麼を喚んでか千峰万峰と作す。雪竇只だ他の「楖栗横に担って人を顧みず、直に千峰万峰に入り去る」と道ふを愛す。所以に頌出す。且く道へ、什麼の処に向かってか去る。還た去処を知り得る者有りや。「落花流水太だ茫茫」。落花紛紛、流水茫茫、閃電の機、眼前是れ什麼ぞ。「眉毛を剔起して何れの処にか去る」。雪竇什麼と為てか也た他の去処を知らざる。只だ山僧適来払子を挙すと道ふが如き、且く道へ、即今什麼の処にか在る。爾諸人若し見得せば、蓮華峰庵主と同参ならん。其れ或いは未だ然らずんば、三条椽下、七尺単前に、試みに去って参詳し看よ。
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