碧巌録 / 第九十七則
胡漢不來。全無伎倆。雪竇裂轉鼻孔。也有胡漢來。則教爾現。若忽胡漢俱不來時。又且如何。到這裏。佛眼也覻不見。且道是功勳是罪業。是胡是漢。直似羚羊掛角。莫道聲響蹤跡氣息也無。向什麼處摸索。至使諸天捧花無路。魔外潛覻無門。是故洞山和尚。一生住院。土地神覓他蹤跡不見。一日厨前拋撒米麫。洞山起心曰。常住物色。何得作踐如此。土地神遂得一見便禮拜。雪竇道。伎倆既無。若到此無伎倆處。波旬也教失途。世尊以一切眾生為赤子。若有一人。發心修行。波旬宮殿。為之振裂。他便來惱亂修行者。雪竇道。直饒波旬恁麼來。也須教失却途路無近傍處。雪竇更自點胸云。瞿曇瞿曇識我也無。莫道是波旬。任是佛來。還識我也無。釋迦老子尚自不見。諸人向什麼處摸索。復云。勘破了也。且道是雪竇勘破瞿曇。瞿曇勘破雪竇。具眼者試定當看。
新字:胡漢不来。全無伎倆。雪竇裂転鼻孔。也有胡漢来。則教爾現。若忽胡漢倶不来時。又且如何。到這裏。仏眼也覻不見。且道是功勲是罪業。是胡是漢。直似羚羊掛角。莫道声響蹤跡気息也無。向什麼処摸索。至使諸天捧花無路。魔外潜覻無門。是故洞山和尚。一生住院。土地神覓他蹤跡不見。一日厨前抛撒米麫。洞山起心曰。常住物色。何得作践如此。土地神遂得一見便礼拝。雪竇道。伎倆既無。若到此無伎倆処。波旬也教失途。世尊以一切衆生為赤子。若有一人。発心修行。波旬宮殿。為之振裂。他便来悩乱修行者。雪竇道。直饒波旬恁麼来。也須教失却途路無近傍処。雪竇更自点胸云。瞿曇瞿曇識我也無。莫道是波旬。任是仏来。還識我也無。釈迦老子尚自不見。諸人向什麼処摸索。復云。勘破了也。且道是雪竇勘破瞿曇。瞿曇勘破雪竇。具眼者試定当看。
書き下し
胡漢来らず、全く伎倆無し。雪竇鼻孔を裂転す。也た胡漢来る有らば、則ち爾をして現ぜしむ。若し忽ち胡漢俱に来らざる時、又且つ如何。這裏に到りては、仏眼も也た覷れども見えず。且く道へ、是れ功勲か是れ罪業か、是れ胡か是れ漢か。直に羚羊の角を掛くるに似て、声響蹤跡は道ふこと莫れ、気息も也た無し。什麼の処に向いてか摸索せん。諸天をして花を捧ぐるに路無く、魔外をして潜かに覷ふに門無からしむるに至る。是の故に洞山和尚、一生院に住するに、土地神他の蹤跡を覓むれども見えず。一日厨前に米麺を抛撒す。洞山心を起して曰く、「常住の物色、何ぞ作践すること此の如くなるを得ん」。土地神遂に一見することを得て便ち礼拝す。雪竇道ふ、「伎倆既に無し」と。若し此の伎倆無き処に到らば、波旬も也た途を失せしむ。世尊は一切衆生を以て赤子と為す。若し一人有りて発心修行すれば、波旬の宮殿、之が為に振裂す。他便ち来りて修行者を悩乱す。雪竇道ふ、直饒ひ波旬恁麼に来るも、也た須らく途路を失却して近傍する処無からしむべしと。雪竇更に自ら胸を点じて云く、「瞿曇瞿曇、我を識るや也た無や」。是れ波旬と道ふこと莫れ、任是ひ仏来るも、還た我を識るや也た無や。釈迦老子すら尚自ほ見ず、諸人什麼の処に向いてか摸索せん。復た云く、「勘破し了れり」。且く道へ、是れ雪竇瞿曇を勘破するか、瞿曇雪竇を勘破するか。具眼の者試みに定当し看よ。
現代語訳
「胡人も漢人も来なければ、まったく手立てはない」。雪竇は鼻の孔を裂いてひっくり返した。胡人や漢人が来るなら、君に映し出させよう。だが、もし胡人も漢人もどちらも来ないときには、いったいどうするのか。ここに至っては、仏眼でうかがっても見えない。さて言ってみよ、これは功勲か罪業か、胡人か漢人か。まさに羚羊が角を木に掛けて眠るようなもので、音や足跡は言うまでもなく、息づかいさえない。どこを手探りしようというのか。諸天が花を捧げようにも路がなく、魔や外道がひそかにうかがおうにも門がない、というところに至るのである。だから洞山和尚は一生寺に住したが、土地神が彼の足跡を探しても見つけられなかった。ある日、台所の前に米や麦粉がまき散らされていた。洞山が心を起こして「寺の共有の物を、どうしてこのように粗末にするのか」と言うと、土地神はついに一目見ることができて礼拝した。雪竇は「手立てがもはや無い」と言う。この手立ての無い所に至れば、波旬にさえ道を見失わせる。世尊は一切衆生をわが子とする。もし一人でも発心して修行すれば、波旬の宮殿はそのために震えて裂ける。そこで波旬はやって来て修行者を悩まし乱す。雪竇は、たとえ波旬がそのようにやって来ても、道を見失わせて近寄るところもないようにさせねばならない、と言うのである。雪竇はさらに自分の胸を指して「瞿曇よ瞿曇よ、わたしが分かるか」と言う。波旬どころではない、たとえ仏が来ても、わたしが分かるか。釈迦老子でさえ見えないのに、皆さんはどこを手探りするのか。さらに「見破ったぞ」と言う。さて言ってみよ、雪竇が瞿曇を見破ったのか、瞿曇が雪竇を見破ったのか。眼のある者は試みに見定めてみよ。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『碧巌録』第四十三則獹(字音の注)。曹洞下に出世・不出世有り、垂手・不垂手有り。若し出世せずんば目は雲霄を視、若し出世せば便ち灰頭土面。目雲霄を視るは即ち是れ万仞峰頭、灰頭土面は即ち是れ垂手辺の事。有る時は灰頭土面即ち万仞峰頭に在り、有る時は万仞峰頭即ち是れ灰頭土面。其の実、鄽に入り手を垂るると、孤峰に独立すると一般なり。帰源了性と差別智と異なること無し。切に忌む両橛の会を作すことを。所以に道ふ、「垂手還つて万仞の崖に同じ」。直に是れ汝が湊泊する処無し。「正偏何ぞ必ずしも安排に在らん」。若し用ふる時に到らば、自然に此くの如し、安排に在らざるなり。此れは洞山の答処を頌す。後面に道ふ、「瑠璃の古殿明月を照らす、忍俊たる韓獹空しく階を上る」。此れは正に這の僧の言語を逐うて走るを頌す。洞下に此の石女・木馬・無底籃・夜明珠・死蛇等十八般有り、大綱只だ正位を明かす。月の瑠璃の古殿を照らして、円影有るに似たるが如し。洞山答へて道ふ、「何ぞ無寒暑の処に向かつて去らざる」。其の僧一に韓獹の塊を逐ふに似て、連忙として階を上り、其の月影を捉ふるに相似たり。又問ふ、「如何なるか是れ無寒暑の処」。山云く、「寒時は闍黎を寒殺し、熱時は闍黎を熱殺す」。韓獹の塊を逐うて走つて階上に到り、又却つて月影を見ざるが如し。韓獹は乃ち戦国策に出づ。云く、「韓氏の獹は駿狗なり、中山の兔は狡兔なり」。是れ其の獹にして方に能く其の兔を尋ぬ。雪竇引いて以て這の僧に喩ふるなり。只だ諸人の如きは、還つて洞山の為人の処を識るや。良久して云く、「甚の兔子をか討ねん」。
-
『碧巌録』第十七則一箇両箇千万箇、籠頭を脱却し角馱を卸す。左転右転して随後に来たる、紫胡劉鉄磨を打たんと要す。雪竇直下に石火を撃つが如く、閃電光に似たり。拶出し放ちて爾をして見せしむ。聊か挙著するを聞いて便ち会して始めて得ん。也た妨げず是れ他の屋裏の児孫なることを、方に能く恁麼に道ふ。若し能く直下に便ち恁麼に会し去らば、妨げず奇特なることを。一箇両箇千万箇、籠頭を脱却し角馱を卸す。灑灑落落として、生死に染められず、聖凡の情解に縛せられず。上に攀仰無く、下に己躬を絶す。一に他の香林・雪竇の如くに相似たり。何ぞ止だ只だ是れ千万箇のみならん。直に尽大地の人、悉く皆此の如くなることを得。前仏後仏も、也た悉く皆此の如し。苟或し言句の中に於て解会を作さば、便ち紫胡の劉鉄磨を打たんと要するに似て相似たり。其の実纔かに挙すれば、和声に便ち打つ。紫胡、南泉に参じ、趙州・岑大虫と同参なり。時に劉鉄磨、溈山の下に在りて庵を卓つ。諸方皆他を柰何ともせず。一日紫胡得得として去きて訪うて云く、便ち是れ劉鉄磨なること莫しや。磨云く、不敢。胡云く、左転か右転か。磨云く、和尚顛倒すること莫かれ。胡和声に便ち打つ。香林這の僧の如何なるか是れ祖師西来の意と問ふに答へて、却つて云く、坐すること久しうして労を成すと。若し恁麼に会し得ば、左転右転して随後に来たらん。且く道へ、雪竇此の如く頌出す、意作麼生。無事好し。試みに請ふ挙す看よ。
-
『碧巌録』第五十五則雪竇偏に注脚を下すことを会す。他は是れ雲門下の児孫、凡そ一句の中に三句を具する底の鉗鎚あり。道ひ難き処に向かつて道破し、撥き開かざる処に向かつて撥開し、他の緊要の処に去いて頌出す。直に道ふ、「兎馬に角有り、牛羊に角無し」と。且く道へ、兎馬什麼としてか角有り、牛羊什麼としてか却つて角無き。若し前話を透得せば、始めて雪竇に人の為にする処有ることを知らん。有る者は錯会して道ふ、「道はざるは便ち是れ道ふなり、無句は是れ有句なり。兎馬に角無きを却つて角有りと云ひ、牛羊に角有るを却つて角無しと云ふ」と。且らく没交渉なることを得たり。殊に知らず、古人千変万化して此の如きの神通を現ずるは、只だ爾が這の精霊の鬼窟を打破せんが為なることを。若し透得し去らば、一箇の了の字を消ひず。「兎馬に角有り、牛羊に角無し。毫を絶し氂を絶し、山の如く嶽の如し」。這の四句は、摩尼宝珠一顆に相似たり。雪竇渾淪地に爾が面前に吐き了れり。末後は皆是れ欵に拠つて案を結す。「黄金の霊骨今猶ほ在り、白浪滔天何れの処にか著けん」。此れは石霜と太原孚の語を頌す。什麼としてか著くる処無き。「隻履西に帰つて曽て失却す」。霊亀尾を曳く。此れは是れ雪竇の転身して人の為にする処なり。古人道ふ、「他は活句に参じて死句に参ぜず」と。既に是れ失却す、他の一火什麼としてか却つて頭を競うて争ふ。
-
『碧巌録』第六十一則他の三家村裏の人、争でか恁麼の事有ることを知らん。一塵を立てざれば家国喪亡す。風颯颯地。野老什麼の為にか出で来たりて謳歌する。只だ家国喪亡するが為なり。洞下には之を転変の処と謂ふ。更に仏無く衆生無く、是無く非無く、好無く悪無く、音響蹤跡を絶す。所以に道ふ、「金屑貴しと雖も、眼に落つれば瞖と成る」と。又云く、「金屑は眼中の瞖、衣珠は法上の塵。己霊すら猶ほ重んぜず、仏祖是れ何人ぞ」と。七穿八穴、神通妙用も奇特と為さず。箇裏に到りては、衲被蒙頭して万事休す。此の時、山僧都て会せず。若し更に心を説き性を説き、玄を説き妙を説かば、都て用不著。何が故ぞ。他家自ら神仙の境有り。南泉示衆して云く、「黄梅の七百の高僧、尽く是れ仏法を会する底の人なるも、他の衣鉢を得ず。唯だ盧行者のみ仏法を会せず、所以に他の衣鉢を得たり」と。又云く、「三世の諸仏は有ることを知らず、狸奴白牯却つて有ることを知る」と。野老或いは顰蹙し、或いは謳歌す、且く道へ作麼生か会せん。且く道へ、他は什麼の眼を具してか却つて恁麼なる。須らく知るべし、野老の門前、別に条章有ることを。雪竇双べ拈じ了りて、却つて拄杖を拈じて云く、「還た同生同死底の衲僧有りや」と。当時若し箇の漢有りて出で来たり、一句を道得して互ひに賓主と為らば、雪竇這の老漢の後面に自ら胸を点ずるを免れ得ん。
-
『碧巌録』第九十四則楞厳経に云く、「吾不見の時、何ぞ吾が不見の処を見ざる。若し不見を見ば、自然に彼の不見の相に非ず。若し吾が不見の地を見ずんば、自然に物に非ず、云何ぞ汝に非ざらん」。雪竇此に到りて、経文を引くこと尽くさず。全く引かば則ち見つべし。経に云く、「若し見是れ物ならば、則ち汝も亦た吾の見を見るべし。若し同じく見るを、名づけて吾を見ると為さば、吾不見の時、何ぞ吾が不見の処を見ざる。若し不見を見ば、自然に彼の不見の相に非ず。若し吾が不見の地を見ずんば、自然に物に非ず、云何ぞ汝に非ざらん」。辞多ければ録せず。阿難の意に道ふ、世界の燈籠露柱、皆名有るべし、亦た世尊に此の妙精元明を指出して、喚んで什麼の物と作し、我をして仏意を見しめんことを要す、と。世尊云く、「我香台を見る」。阿難云く、「我も亦た香台を見る。即ち是れ仏の見なり」。世尊云く、「我香台を見ることは則ち知るべし。我若し香台を見ざる時、爾作麼生か見る」。阿難云く、「我香台を見ざる時、即ち是れ仏を見る」。仏云く、「我不見と云ふは、自ら是れ我知る。汝不見と云ふは、自ら是れ汝知る。他人の不見の処、爾如何が知ることを得ん」。古人云く、「這裏に到りては、只だ自ら知るべし、人の与に説くことを得ず」。只だ世尊の道ふが如き、「吾不見の時、何ぞ吾が不見の処を見ざる。若し不見を見ば、自然に彼の不見の相に非ず。若し吾が不見の地を見ずんば、自然に物に非ず、云何ぞ汝に非ざらん」。若し見を認めて物有りと為さば、未だ迹を払ふこと能はず。吾不見の時は、羚羊の角を掛くるが如く、声響蹤跡、気息都て絶す。爾什麼の処に向いてか摸索せん。経の意は初め縦破し、後に奪破す。雪竇教眼を出して頌す。亦た物を頌せず、亦た見と不見とを頌せず、直に只だ仏を見ることを頌するなり。
-
『碧巌録』第九十七則明珠掌に在り、功有る者には賞す。胡漢来らず、全く伎倆無し。伎倆既に無くんば、波旬途を失す。瞿曇瞿曇、我を識るや也た無や。復た云く、「勘破し了れり」。明珠掌に在り、功有る者には賞すとは、若し人有りて此の経を持し得て、功験有る者には、則ち珠を以て之を賞す。他此の珠を得ば、自然に用ゐることを会す。胡来れば胡現じ、漢来れば漢現じ、万象森羅、縦横に顕現す。此れは是れ功勲有るなり。法眼云く、「仏地を証する者を、此の経を持すと名づく」。此の両句は公案を頌し畢る。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る