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碧巌録 / 第九十七則

圭峯科四句偈云。凡所有相皆是虛妄若見諸相非相即見如來。此四句偈義。全同證佛地者名持此經。又道。若以色見我。以音聲求我。是人行邪道。不能見如來。此亦是四句偈。但中間取其義全者。僧問晦堂。如何是四句偈。晦堂云。話墮也不知。雪竇於此經上指出。若有人持此經者。即是諸人本地風光本來面目。若據祖令當行。本地風光本來面目。亦斬為三段。三世諸佛十二分教不消一揑。到這裏設使有萬種功能。亦不能管得。如今人只管轉經。都不知是箇什麼道理。只管道。我一日轉得多少。只認黃卷赤軸巡行數墨。殊不知全從自己本心上起。這箇唯是轉處些子。大珠和尚云。向空屋裏堆數函經看。他放光麼。只以自家一念發底心是功德。何故。萬法皆出於自心。一念是靈。既靈即通。既通即變。古人道。青青翠竹盡是真如。欝欝黃花無非般若。若見得徹去。即是真如。忽未見得。且道作麼生喚作真如。華嚴經云。若人欲了知三世一切佛。應觀法界性一切唯心造。爾若識得去。逢境遇緣。為主為宗。若未能明得。且伏聽處分。雪竇出眼頌大概。要明經靈驗也。頌云。

新字:圭峯科四句偈云。凡所有相皆是虚妄若見諸相非相即見如来。此四句偈義。全同証仏地者名持此経。又道。若以色見我。以音声求我。是人行邪道。不能見如来。此亦是四句偈。但中間取其義全者。僧問晦堂。如何是四句偈。晦堂云。話堕也不知。雪竇於此経上指出。若有人持此経者。即是諸人本地風光本来面目。若拠祖令当行。本地風光本来面目。亦斬為三段。三世諸仏十二分教不消一揑。到這裏設使有万種功能。亦不能管得。如今人只管転経。都不知是箇什麼道理。只管道。我一日転得多少。只認黄巻赤軸巡行数墨。殊不知全従自己本心上起。這箇唯是転処些子。大珠和尚云。向空屋裏堆数函経看。他放光麼。只以自家一念発底心是功徳。何故。万法皆出於自心。一念是霊。既霊即通。既通即変。古人道。青青翠竹尽是真如。欝欝黄花無非般若。若見得徹去。即是真如。忽未見得。且道作麼生喚作真如。華厳経云。若人欲了知三世一切仏。応観法界性一切唯心造。爾若識得去。逢境遇縁。為主為宗。若未能明得。且伏聴処分。雪竇出眼頌大概。要明経霊験也。頌云。

書き下し

圭峰四句の偈を科して云く、「凡そ所有る相は皆是れ虚妄なり。若し諸相の非相なるを見ば、即ち如来を見る」。此の四句偈の義は、全く仏地を証する者を此の経を持すと名づくに同じ。又道ふ、「若し色を以て我を見、音声を以て我を求むれば、是の人は邪道を行じ、如来を見ること能はず」。此も亦た是れ四句偈なり。但だ中間に其の義の全き者を取る。僧晦堂に問ふ、「如何なるか是れ四句偈」。晦堂云く、「話堕せることも也た知らず」。雪竇此の経の上に於て指出す。若し人有りて此の経を持せば、即ち是れ諸人の本地の風光、本来の面目なり。若し祖令の当行に拠らば、本地の風光、本来の面目も、亦た斬つて三段と為す。三世の諸仏、十二分教も一揑を消ひず。這裏に到りて、設使ひ万種の功能有るも、亦た管し得ること能はず。如今の人は只管に経を転じて、都て是れ箇の什麼の道理なるかを知らず。只管に道ふ、「我一日に多少を転じ得たり」と。只だ黄巻赤軸を認めて、行を巡り墨を数ふ。殊に知らず、全く自己の本心上より起ることを。這箇は唯だ是れ転処の些子なり。大珠和尚云く、「空屋裏に向いて数函の経を堆みて看よ、他光を放つや。只だ自家の一念発する底の心を以て是れ功徳とす」。何が故ぞ。万法は皆自心より出づ。一念是れ霊なり。既に霊なれば即ち通じ、既に通ずれば即ち変ず。古人道ふ、「青青たる翠竹は尽く是れ真如、欝欝たる黄花は般若に非ざる無し」と。若し見得て徹し去らば、即ち是れ真如なり。忽ち未だ見得せずんば、且く道へ、作麼生か喚んで真如と作す。華厳経に云く、「若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば、応に法界の性を観ずべし、一切は唯心の造なり」。爾若し識得し去らば、境に逢ひ縁に遇ひて、主と為り宗と為らん。若し未だ明らめ得ること能はずんば、且く伏して処分を聴け。雪竇眼を出して大概を頌す。経の霊験を明かさんと要するなり。頌に云く、

現代語訳

圭峰は四句偈を区分して言った。「およそあらゆる相は、みな虚妄である。もしもろもろの相が相でないと見るなら、すなわち如来を見る」。この四句偈の意味は、「仏の境地を証した者を、この経を持つ者という」とまったく同じである。また「もし形によってわたしを見、声によってわたしを求めるなら、この人は邪道を行じており、如来を見ることはできない」とも言う。これもまた四句偈である。ただ、その中間で意味の完全なものを取ったのである。ある僧が晦堂に「四句偈とは何ですか」と問うと、晦堂は「語るに落ちたことにも気づかないのか」と言った。雪竇はこの経の上で指し示す。もしこの経を持つ人がいるなら、それはすなわち皆さんの本地の風光、本来の面目である。だが祖師の命令がまさに行われるとなれば、本地の風光も本来の面目も、三つに斬り捨ててしまう。三世の諸仏も十二分教も、ひとひねりにも値しない。ここに至っては、たとえ万種の功能があっても、どうすることもできない。今の人はひたすら経を読誦するばかりで、それがいったいどういう道理なのかまるで分かっていない。ひたすら「わたしは一日にこれだけ読んだ」と言う。ただ黄色い紙に赤い軸の巻物を認めて、行を追い文字を数えるばかりである。それがまったく自分の本心から起こっていることを知らない。これはただ転じるところのほんのわずかな事にすぎない。大珠和尚は言った。「空っぽの家の中に経を何箱も積んでみよ、光を放つかどうか。ただ自分の一念の起こる心こそが功徳なのだ」。なぜか。万法はみな自分の心から出るからである。一念こそが霊妙であり、霊妙であれば通じ、通じれば変化する。古人は「青々とした翠の竹はことごとく真如であり、生い茂る黄色い花は般若でないものはない」と言った。もし見て取って徹底すれば、それがすなわち真如である。もしまだ見て取れないなら、さて言ってみよ、何を真如と呼ぶのか。『華厳経』に言う。「もし人が三世の一切の仏を知り尽くしたいと思うなら、法界の本性を観るべきである。一切はただ心が造るのである」。君がもし見て取ることができれば、どんな境に出会いどんな縁に遭っても、主となり宗となるだろう。もしまだ明らかにできないなら、ひとまずひれ伏して処分を聴くがよい。雪竇は眼を出して大筋を頌した。経の霊験を明らかにしようとしたのである。頌に言う。

解説

評唱の後半で、圜悟は圭峰宗密が挙げた二つの四句偈を引き、相を相でないと見ることこそ如来を見ることであり、それは仏地を証する者が経を持つという法眼の言葉と同じだと説く。経を持つとは各人の本来の面目そのものだが、祖師の命令の前ではそれさえ三段に斬られると言い、どんな概念にも安住させない。続いて、一日に何巻読んだかを誇り、黄巻赤軸の文字を数えるだけの読経を戒め、大珠和尚の空屋に経を積んでも光は放たぬという言葉を引く。華厳経の「一切は唯心の造なり」で、功徳の源が自分の一念にあることを示して結ぶ。研修や読書の量を誇るより、そこから自分の心に何が起きたかを問うほうが、学びは確かに身になる。

この章句が説くこと

唯心四句偈本来面目評唱学び自己

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